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羽田空港っていう場所

3月初旬の週末、予定がないから羽田空港へチャーシュー丼を食べに行った。前日の夜、数年間連絡をとっていなかった友達とオンライン飲み会をしていて、彼が昔東京を訪れた際、絶品のチャーシュー丼を品川のラーメン屋で食べた、という話を聞いた。そんなに美味しかったの?と半ば疑うように聞いた僕に対して、彼は「あまりにも美味くて、旅行の最終日、時間がないのにもう一度食べに行ってしまい、自分と友人3人が帰国のフライトを逃した。でも誰も後悔しなかった。それだけ美味しかった」と豪語した。
そこまで言われると気になる。昔の写真を引っ張り出してもらい、件のラーメン屋の名前は「せたが屋」だと確認した。調べると、残念ながら品川店は数年前に閉店。ただ系列店は東京に複数ある様子。
「機会があれば行ってみるといい」思い出のラーメン屋の閉店を知り少し落ち込んだ様子の友人は言った。「ラーメンよりチャーシュー丼。俺が知る限りのベストだ。」
少々酔っ払っていた僕は「明日行って写真を送るよ」とヘラヘラ返事をした。彼は「店舗が変わると味も違ってるかもな」と言った。

翌朝、目覚めた僕はせたが屋の店舗を一軒ずつ調べてみた。一番家から近いのは駒沢店。在りし日の品川店と同じ魚介系で、友達の思い出にも近そうだ。ついでに駒澤大学にも行ってみようかな、とぼんやり考えていると、「羽田空港店」の文字が目を引いた。国際線である第3ターミナルに店を構えているらしい。少し考えた後、僕はGoogle Mapの入力を駒沢から羽田空港に書き換えた。

飛行機に乗る予定もないのに空港へ向かう人は世の中にどれくらいいるのだろう。土曜日の夕方、羽田空港行きの電車は閑散としていた。久しぶりに第3ターミナルへ降り立つと、出発ロビーの静けさに驚く。コロナ禍で落ち込んだ国際線の利用者数が、ポツポツとしか人のいないロビーに現れていた。

せたが屋羽田空港店は4階のレストランフロアで見つかった。ロビーと同様、こちらも客数は少ない。食券機を少し眺めて、普通のラーメンとチャーシュー丼を選んだ。元気のいい女性店員が案内してくれたカウンター席に着き、マスクを外して水を飲む。

少しの間待つと、まずチャーシュー丼が運ばれてきた。てらてら光るチャーシュー3枚と味のしみたご飯が、茶碗にこんもり盛られている。続いてラーメン。魚介系スープに分厚いチャーシューと海苔が1枚という構成。友達に送るための写真を撮った後、早速箸を手に取った。

スープは鰹節っぽくて、チャーシュー丼は油っぽかったけど確かに美味しかった。胸焼けしそうになるが味はよい、が正直な感想だったが、友達にどう伝えるべきか。まとまらない頭を抱えて展望デッキへ向かうと、春先の夜空にANAの機体が並んでいる。

僕の人生には何人か、空港を愛する人達がいた。ある日突然大学に来なくなった昔の友達は、飛行機を偏愛してよく空港へ写真を撮りに行っていた。昔付き合っていた彼女は、暇な休日に空港へ赴き1人時間を過ごすという奇行を時たま行っていた。何が楽しくて空港へ行くのか、という僕の好奇心に対して、彼女は「飛行機を眺めたり、旅行へ行く人達を見たり。空港っていう場所が好き」と答えた。どこにも行かないのに、彼女の誕生日を空港で祝ったこともあった。

眼下に並ぶ飛行機の隊列を眺めていると、そんな人達のことを思い出した。人もまばらな展望デッキのベンチに座って何となく上を見ると、空がデカくて暗くて丸かった。そういえば昔、習い事の帰り道、小学生だった僕は自転車に乗りながら上を見るのが好きだった。特に冬の夜は空気が澄んで星も見えて、空がいつもより広く、高く見えた。空港の空は遮るものが何も無くて、昔見た空より余程大きい存在に見える。何も飛んでいない空っぽの空。

せたが屋のチャーシュー丼を愛した友達が羽田空港に来たら、この店の味を同じように気に入るだろうか。それとも彼が愛したチャーシュー丼は、品川店と共に永遠に失われてしまったのだろうか。3月の夜気にあたりながら考えると、恐らく後者である気がした。「せたが屋の絶品チャーシュー丼」は、もう彼の思い出にしか存在しないのだろう、と思った。

家路につく前、空港内のカフェで一服していると、別の友達から「今何やってんの」とLINEが届いた。暇だから電話しよう、と続く。「今はね、羽田空港にいる」と返すと、旅行に行くのと聞かれた。

「どこにも行かないけど、空港っていう場所が好きだから」そんな言葉が浮かんだけど、「予定がないからチャーシュー丼を食べに来た」と答えた。

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