若いときの脳挫傷

※これは、質問いただいたものにお答えするものです。誤字脱字ありましたらご容赦ください。

すみません、もうだいぶ昔の話であり、
人に話すのも何十年ぶりなので、不確かな部分が多い事をご了承ください。​

私の場合、​
20年以上前、当時高校3年生17歳でした。​
夜22時くらいかな?​
バイクでノーヘルで、当時お付き合いしていた彼女のところに​
電話をかけに公衆電話のあるコンビニまで、​
当時は携帯電話なんてなかったので、公衆電話から彼女の家の電話にです。​
電話の後、飲酒運転の乗用車と事故ったらしいです。​
事故の事は未だに思い出せません。事故前後のことも。​
救急車で運ばれて、右脳打撲していて脳挫傷、頭部からの出血は無し。​
手、アゴ、肩に外傷あり。だったと思います。​
【初診では2,3時間が山場】​
なんとか持ちこたえまして、それでも​
【2,3日が山場だろう】​
という診断。​

母親、父親共に病院に泊り込み父は単身赴任でしたが、急遽帰省。​
とある一流企業の部長があまりのショックにぶっ倒れ、僕のベットの隣で​
点滴を受けていたらしいです。​

山場と言われていた2,3日を乗り切り、医師の診断は​
【持って2,3週間】​
に。​
このとき私は意識が無く、体も動かなかったのだと思います。​
医師は、意識が戻ることはないだろう。と。​
後日聞いた話によりますと、この時意識のない私の手や足を一生懸命にもんだりさすったり、​
そして足首が死体のように伸びてしまっているのを​
「もしも意識が戻って足首が曲がらなかったらいけない」と、​
一生懸命に戻してくれていたらしいです。​

20日後、私の意識が戻り、​
(※戻りといっても多分無意識。夢の中みたいな感じですね。記憶はない。)​
医師も家族もみんな大喜び。​
しかし医師の所見は、​
【寝たきりは覚悟してください】​
とのことです。​
もう忘れてしまいましたが、このとき私は臨死体験にて祖父の話と、​
客観的に見た病室に寝ている自分自身の話をしていたらしいです。​
ちなみに右脳を挫傷したため、左半身不随でした。​

意識が戻り、​
(戻りといっても幼児とか知覚障害レベル)​
ICUから一般の病室に移ったのかな。この辺は定かじゃありません。​
高校の友人とか当時の彼女が面会に来てくれましたが、​
最初はショックが大きいので、彼女に関しては面会制限されてたと思った。​
僕は男子校、彼女は近くの女子高の生徒だったんだけど、​
学校で僕の事故の噂を他の生徒がしているのを聞いて、​
学校内で泣き出してしまったりとか、相当ショックだったみたいですので。​

そしてそのうち車椅子に挑戦することに。​
車いすにてトイレまで行き、リハビリテーション科にて腕におもりを付けて​
腕だけ運動したり、、が出来るようになったころ、​
友人達とも面会できるようになって、当時バンドでドラムをやっておりましたが​
目標にしていた文化祭が目の前に迫っていながら、自分が出るのは不可能に近い。​
しかし出たい。​
そして彼女に会いたい。←はじめて自分が好きになった人とお付き合い出来て、物凄く好きでした。​
(まだ幼児とか知覚障害レベル)​
そんな小学生みたいな思考でリハビリを頑張った気がします。​
この頃​
【一生車椅子からは降りれないでしょう】​
でした。​

もう時効なので言いますが、当時タバコ吸ってましたが当然禁煙でした。​

で、立ち上がるリハビリを頑張ったり、自分で足もんだり、母がもんでくれたりしてた。​
メインは車椅子、降りるとき松葉杖。から、松葉杖だけになって​
【一生松葉杖は離せないでしょう】​
になりました。​

でも、松葉杖になってからは早かったと思います。​
入院3ヶ月ちょい程で退院、通院によるリハビリ。​
【若いってすごい】​
でした。​
この頃、私の意識は多分小学校高学年レベルだと思います。​

でも、本当につらいのは退院後でした。​
当時高校三年生の私は、よく学校サボって遊んでばかりいたので​
出席日数足りず、留年。​
学校で禁止されているバイク、しかも無免許。​
退学にならなかったのは、当時の担任の先生のおかげ。どれだけ感謝しても足りない。​
ひとつ下の後輩たちの中で、体も100%思うようには動かない。​
今までの友達とは住む世界が違くなっている。​
そして大好きな彼女は東京の大学へ。​
よってお別れ。‥この彼女の事は20歳過ぎてもずっと好きでした。​
まだ病院に通って、飲みクスリの処方は受けながらの通学。​
このクスリの匂いが嫌でした。​
いろいろ大変でしたが割愛。両親、友達、先生に感謝。​
頭はまだ半ボケだったのが良かったのかもしれない。​

結局、今でも身体的には障害あります。​
左目はきちんと開いておりません。​
視覚的に左目のみ、雲のかかって見えない箇所があります。​
左足一本でバランスをとって立つ事が難しいです。​
意識しないと口がきちんと閉じていません。​
飲食業を経験して少し可能になりましたが、左手で水の入ったコップを持てません。​
当然タイピングも難しいです。​
階段を降りるのが苦手です。走って降りるのは無理。​

見た目普通の人まで回復できましたが、​なにが良かったのか‥
今思うと回復できたのは若さだとか、ドラムやりたくて病院内でも手足動かしてたとか​
もあるかと思いますが、​
結局、周りの人の愛情だな。と思います。​
もう他界してしまいましたが、自分の寿命が縮んでもいい、と一生懸命にマッサージしたりしてくれた母、隣のベッドで点滴受けてた父、​
毎日美味しい料理を持参してくれた伯母さん、友達、彼女、先生、看護師さん。​ありがとうございます。
心って大事なんだなって感じます。​

普段ポジティブである私が、
右脳を座礁したことはクリエイターとしては命取り。だとか、こんなはずじゃない。だとか、若いころはいろいろ劣等感をもって生きてました。
しかし、今は生きていただけで儲けもんじゃん。って思ってやりたい事やって生きてます。

※私の記憶の限りです。​
実家に帰れば母の記録が残っていると思いますが、ちょっと帰省できませんのですみません。​

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