46.波瀾含みでも展開次第

これまで何度も言ってきたように、親子交流は双方の協力が欠かせないものだ。弁護士に騙されようが何だろうが、そこに「子どもに会わせない」という一方の親の意志が関わる。
そこに於いて小山田くんと現在の内妻は、子どもを奪う事について本来なら何らの抗弁権(言い訳する権利)を有しない。そこは正しいのだが法には応報的運用と言うものも当然に存在する。

国家に於いて「道徳」と言うものは異なるが、およそ人権、自由に於いては国際的信義を各国は「表面上」は担保しなければならなくなっている。当然に「子どもと会わせない」と言う事は子どもの権利条約や遥か以前の世界人権宣言、権利章典、マグナカルタ全てに於いて認められない。

しかし世界の潮流はキリスト教である。新教・旧教といった派閥の違いがあっても根本は同じで原罪という思考がある。他方、我が国などの大乗仏教は慈悲だ。そこで世界の道徳観と言うのが大きく異なる。
まあ私は宗教とやらに依存する輩は、哀れな思考停止ロボットとしか思っていないが。

敢えて学術的に言うと、我が国のように「凶状持ち」「下手人」という考え方は神道的な部分であり、大乗仏教でも否定される部分である。いわゆる「穢れ(けがれ)思想」と言うものだ。ここで言う穢れとは「汚れ(読みは「けがれ」」とは異なる。キリスト教的「けがれなき聖母の騎士会」みたいなやつはこちらだが、これは「純潔」を表す。
つまり他の動物と異なりヒトは「家族」というつながりをもつという意味で、他の血を排除するのだ。これは大型肉食動物が「他のオスの子を殺す」のと同様本能的なモノである。
神道の思想では「いちどケガレに触れた者はもう穢れてしまっているので、穢れてない仕事に関わるのは不適切」という考え方がある。

我が国と欧米的な「市民社会」から言う人権の概念との乖離は、この点の違いが大きく関わっていることは言うまでもない。

ここら辺は、少なくとも大学で社会科学を学んでいないと理解する事が非情に難しいがフランス革命、アメリカの独立戦争(南北戦争ではない!)の時代を背景とする国家と市民社会そして人権の原点である内的な個、特、普につながる弁証法の発展へとつながる。

要は、カネのために法律を「悪用」して親子を引き離す「実子誘拐ビジネス」に勤しむ木村「真実」や谷口朋子らのような単なる「法律バカ」に対して人権を論じる事を、我が国では「馬の耳に念仏」「豚に真珠」「馬耳東風」というのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?