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私をアロマンティック自認に導いたもの


私は、自分はAスペクトラムの恋愛指向・性的指向の持ち主だと自認している。
“Aスペクトラム”でピンと来ない人でも、『アロマンティック』『アセクシャル』であれば、最近のドラマなんかで聞いたことがある…という人はいるかもしれない。アロマンティックは恋愛感情をもたない人、アセクシャルは他者に性的な関心が向かない人のことで、“Aスペクトラム”というのは、この周辺の指向を持つ、いわゆる性的少数者のカテゴリのひとつを指している。

Aスペクトラムの交流会に参加していると、どのようにAスペクトラム自認に至ったかというのが定番の話のネタで、多くの参加者にとって気になる話題のように思う。実際、これが聞いてみると(当たり前だが)皆ちがって面白い。

私が人生で初めて自分に性自認のラベリングをしたのは、『アロマンティック・アセクシャル』だ。

今日は、自分がどのようにアロマンティック・アセクシャル自認に至ったかを振り返っていこうと思う。

「アセクシャル」という単語との出会い


2019年か2020年か…。
『仮面ライダーゼロワン』が放送されていた頃。1年のうち長く敵役を務めた4人の登場人物の中に、亡(なき)というキャラクターがいた。

亡は、『ヒューマギア』という人型AIロボットだ。仮面ライダーゼロワンでは、このヒューマギアという人型AIロボットが人間の生活に入り込んでいる。
ヒューマギアには人間と同様に性別があり、女性型・男性型というのが各キャラクターに設定として決められている。
ただし、亡は特別。亡には、性別が設定されていない。

中山咲月『無性愛』


近年の仮面ライダーは、テレビ放送が終わった後もコンテンツ展開がしばらく続くことが多い。亡も含め、長く敵役だった4人のキャラクターはテレビ放送終盤からさらに魅力的になり、テレビ放送終了後、この4人に焦点を当てた映画が公開されることになった。
仮面ライダーゼロワンの物語が進むにつれ、私が特に好きだったキャラクターと亡の関係性が濃くなっていったこと、終盤以降の亡のキャラデザがたいへんに好みだったこともあり(黒シャツ黒スーツ黒ネクタイに、白と青のイヤーマフ的なアクセサリーが映える。頼むから画像検索してくれ。)、撮影時のオフショット等が投稿されないかと期待して演者のツイッターをチェックするようになった。
亡を演じていたのは、俳優・中山咲月。

情報を見たのは、ツイッターではなくブログだったかもしれない。
中山さんは、自身がFtMのトランスジェンダーで、かつアセクシャルであることを告白していた。
アセクシャルという単語に、初めて出会った。

このとき、「へぇ~」と思っただけで、アセクシャルという言葉は、すぐに忘れてしまった。アセクシャルとは何か?というのを正しく把握できていたのかも、正直覚えていない。
トランスジェンダーだということを知り、「他のヒューマギアとは違って特別に性別設定のない亡を中山さんが演じたのはハマり役だったんだな」「むしろ中山さんの印象が亡の性別設定を無くさせたのかも」等ということを考える方に関心が割かれてしまったのだと思う。

中山さんはその後、『無性愛』というフォトエッセイを出していて、その中で自身の性自認等について語っている。ビジュアルにビビっと来た方はぜひご購入を。
(私も自認してから購入しました。)


「アセクシャル」が何かを理解する

GoogleだったかTwitterだったか…。
「『恋せぬふたり』というドラマが制作されるよ!」とサジェストしてくれた。

メインビジュアルが好みだったこと、どんな映画やドラマもやたらと恋愛を絡めてくることに元々違和感を持っていたこともあり、リンクをタップした。
『アセクシャル』という言葉との再会だった。

NHKドラマ『恋せぬふたり』


このドラマの動向をチェックしていた方ならご存知だろうが、『恋せぬふたり』は、アロマンティック・アセクシャル当事者への念入りな取材・考証の上で制作されており、放送前の宣伝の段階から「アロマンティックとは何か」「アセクシャルとは何か」と、その存在を正しく認知してもらうことも番組の一つのテーマとしていて(少なくとも私はそう感じている)、この番組ページの用語説明でやっと『アロマンティック』『アセクシャル』という言葉の意味を覚えた。

恋をしない男女の関係を描くというそのテーマに惹かれ、放送が始まったら見ようと心に決めたが、まだこの段階では「そういう人もいるんだな」という認識で、自分が当事者であるとは露も思っていなかった。

余談になるが、このタイミングで「そういえば中山さんが何かそれっぽいこと言ってたかも」と検索しなおし、私はここでやっと中山さんの発信内容を理解する。
(FtMのトランスジェンダーであると伝えると「じゃあ女の子が好きなんだ?」といった趣旨の返答がくることが多く、そこでアセクシャルの説明も付け加えるが、多くの場合、相手は理解できず混乱しがち…といった内容。ここの話の繋がりを、当初はよく分かっていなかった。)

確か、このリリースを読んだのは夏あたり。
恋せぬ二人の放送は冬だったので、ドラマで繰り広げられる"あるある"に首がもげそうなほど共感するのはまだ少し先のお話…。

「アロマンティック」「アセクシャル」自認

『大豆田とわ子と三人の元夫』を見始めた。
春のリアルタイム放送はもうとっくに終わって、秋ごろだった。
放送当時、高校の頃の同級生が「とにかく面白い」と毎週のようにツイートしていたのを、恋愛ドラマを見ようとAmazonプライムを徘徊していた際に思い出しチョイスした。

わざわざ恋愛ドラマを探していたのには理由がある。
仲良くしていた人と、お付き合いを始めたタイミングだった。好きで付き合い始めたはずだったのに、どうしても相手の温度感と比べると自分は冷めているように感じて辛かった。彼が与えてくれる愛情を受け止めきれていない感覚、そしてそれを隠していることに対する罪悪感があった。もう少し正確に自分の感覚を伝えるなら、相手から貰う好意と、自分が相手に対して持っている好意が別物のように感じていた。
とはいえ、『恋をする』とひと口に言っても、他人に対する感情が全く同じということはあり得ないし、そういう細かな違いを感じているだけだと思い込みたかった。

それでも、自分が相手に対して感じている感情が恋愛感情ではないかもしれないという疑念がどうしても頭から離れない。
元々、「そろそろ告白されそう…」という時期からとても悩んでいたのだ。彼のことはとても好きだが、これが恋愛なのかどうかがわからない。でも、それで足踏みをしてしまって後から恋愛だったと気づいたとき、彼に別の恋人ができていたら…?その選択を毎年のように後悔するかもしれない。
(彼とは大学のサークルが同じだったのだが、元部員のほとんどはそのサークルの1年で1番大きなイベントに顔を出すので、コロナがなければ、疎遠な人ともそのタイミングで定期的に再会することが多かった。)
つまるところ、大変に失礼な話だが、お付き合いするに至ったのは「やらない後悔よりやる後悔だ!」と半ば強引に、相手に抱く好意を恋愛だと自分に思い込ませた結果の選択だった。

元々、映画や漫画等にものすごく影響されやすい性質なのを自覚していて、恋愛ドラマを見ることで自分にバフをかけようとしたのだ。
「恋愛、いいな~!」
「恋愛したい!」
「こんな関係性の人、欲しいな~!」
フィクションの中に見る恋愛に憧れを抱き、それを自分も手に入れたいと思うことで、自分が相手に抱く好意を恋愛だと再認識でき、そして相手にかける熱量も上がるのではないかと考えた。
実際、過去に同じ作戦が功を奏したこともあった。
つまらないドラマであれば、途中で見るのをやめてしまうだろうが、『大豆田とわ子と三人の元夫』は友人の折り紙つきだ。

この選択が、当時の恋人との関係と、そして自分自身への理解の解像度に大きな影響を与えることになる。

カンテレ『大豆田とわ子と三人の元夫』

まだ観たことのない方は、ぜひ観てみてほしい。
強めのコメディ色に話の進むテンポ感と役者の演技、何より台詞回しがぴったりはまって抜群に気持ちいい。1時間枠の10話完結だが、あっと言う間に「もう7話!?」というほど夢中になると思う。
(ちなみに、恋愛ドラマというより、強烈な愛情賛歌のドラマでした。)

当時、猛烈に私の心を揺さぶったのが、第4話だった。
主人公とわ子の親友、かごめ。とわ子と同じマンションに住む男性と"いい感じ"になり、デートに誘われる。かごめ自身も彼に好意を持っていたし、とわ子にも背中を押されデートに向けてめかしこんだにも関わらず、結局すっぽかしたことが判明する。
とわ子に理由を問いただされ、その場では理由をはぐらかすかごめだが、その晩、かつてとわ子と二人で描くことを夢見た漫画の原稿に向かいながら、その理由を語り始める。

五条さんのことはね、残念だよ。
好きだったしね。好きになってくれたと思うしね。
でも恋愛はしたくないんだよ。
この人すきだな、一緒にいたいなと思っても、五条さんは男でしょ、私は女でしょ。
どうしたって恋愛になっちゃう。
それが残念。

別に理由はないんだよ。
恋が素敵なのは知ってる。キラキラってした瞬間があるのも知ってる。
手をつないだり、一緒に暮らす喜びも、わかる。
ただ、ただ、ただ、ただ、恋愛が邪魔。
女と男の関係がめんどくさいの。
私の人生にはいらないの。
そういう考えがね、寂しいことは知ってるよ。
実際、たまに寂しい。
でもやっぱり、ただただそれが、あたしなんだよ。

大豆田とわ子と三人の元夫(関西テレビ放送)第4話
https://www.ktv.jp/mameo/

どうしようもないぐらい、涙があふれた。
今、自分が感じていること、過去にずっと感じていて、でも正しく言葉にできず、無視していた思いを、代弁されたようだった。

ずっと、自分が大多数のように恋愛できないのは、自分が他者に対して不寛容なせいなのだと思ってきた。せっかく恋愛関係になっても毎度すぐにそれを壊したくなるのは、理想を夢見るばかりの小娘だからなのだと。あるいは、忍耐力が欠如しているからだと。成長しなくては、現実を見なくてはと焦ってきた。
でも、「恋愛が邪魔。」
これ以上しっくりくる言葉はなかった。
過去の別れの正体は、恋愛関係そのものがストレスの原因だと気づかないままにそのストレスから逃れようとした結果だったのではないか?
不満を感じたことに対して改善の道を探ることをしたくなかったのは、自分をとりまく世界に恋愛感情が存在している状態を、一刻も早く抜け出したかったからなのではないか?
そして今は、不満すらないというのに、この関係にストレスを感じ、一刻も早く恋愛感情にさらされるこの世界から抜け出したいと思っているのだと、自覚してしまった。

今の悩みは、今の私だけの悩みではない。過去、誰かとの関係を捨てることで一緒に捨ててきたそれぞれの悩み、全てが繋がっていると感じた。
中山咲月を通して知り、恋せぬふたりで覚えた『アロマンティック』『アセクシャル』という言葉が、かごめの独白を通してここで初めて、自身に関わりのある言葉なのではないかと感じ始める。

このドラマを観たことを…あるいは、なぜもっと早く ―彼に返事をする前に― 観ておかなかったのかと、心の底から後悔した。
もしそうであったなら、何も悩むことなく、仲の良い先輩後輩として、友人として、長く付き合っていけたかもしれないのにと、そう思った。

自身の中での葛藤


それでも、一緒にいられる方法はないのか探りたかった。具体的にどのような言動に拒否感を持ってしまうのか、何なら平気なのか。具体的な要望に落とし込んでさえいければ、世間的なイメージの“恋人”にとらわれず言葉を尽くせば、自分も相手も殺すことのない心地よい関係のイメージを擦り合わせて実現していけるのではないかと、勝手なことを考えた。

結局、自分が許容できる境界線を探るうち、自分が不快に思うのは特定の発言や行動ではないと気づいてしまった。
つまり、私が不快を感じずに関係を続けたいなら、彼へのお願いごとはこうだ。
「私への恋愛感情を、私に一切悟らせないで。」
こんな惨いことを、自分に恋をしていると言ってくれている、自分の好きな人に、頼める人がいるだろうか?

相手から優しさを貰うたび、不快感が湧き上がってくる。相手が誰であってもとったであろう行動ですら、彼から私への好意を常に感じている分、恋愛の文脈が乗っかっているように思えてしまってどうしようもなく嫌になる。
生活の中に彼が入りこんでくるのを感じるたび、自分の世界を恋愛に侵されていくようで居心地の悪さに逃げ出したくなる。

こうなってくると、もはや自意識過剰というか、自身の捉え方の問題では?と眉をひそめられるだろう。(なんなら自分自身、そう思っている節もあり、改めて言葉にして苦笑している。)
だが、ひとたび恋愛が絡むとなると、勝手に恋愛の文脈に書き換えられてしまうところはないだろうか。
例えば二者の関係において、片方の好意は恋愛感情・もう片方はそうでない好意を抱いているとしたら、その関係性は『片想い』という恋愛の一つを表す言葉で表現されてしまうように。

相手から向けられる感情が恋愛感情と知り、それを受け入れながら自分は友愛を返すことは、時として残酷な関係性として捉えられる。
ましてや、自分の状況はどうだ。友愛を返すどころか、それを恋愛だと偽って、相手を騙しているに等しい。その上、相手の恋愛感情を不快にさえ感じ、受け止めることすらできない。どんな努力を重ねれば、相手からの恋愛感情を受け止められる状態が実現するのか見当もつかなかったし、そもそもそんな方法があるとは到底思えなかった。

恋愛感情を向けられると感じること自体に拒否感を感じるとなると、相談も何も、もはや恋人と一緒にいる道は、私が自分を殺して相手を騙し続けるか、相手に一方的に我慢を強いるかの二つに一つだと思った。
どちらの道も、取りたくない。
本当に彼のことは好きだったし、尊敬もしていた。話し合いも、できる相手だった。彼に無理なら、他の人ではもっと無理だ。相手の問題ではない。私の問題だ。

そしてようやく私は、自分は大多数のように恋愛・性愛を抱くことができない、アロマンティック・アセクシャルなのだと、ある種『観念して』自認した。

※恋愛に対して拒否感を覚えるのは、アロマンティックではなく恋愛嫌悪です。誤認なきよう…。(当時、私も誤認していました。)
アロマンティックは、単に『他者に対して恋愛感情を抱かない人』を指します。

SNSにあふれるご近所さんたち

『観念して』自認した、とネガティブな書き方をしたが、実際は自認したことで生活は大きく好転したと思う。
自認したことで、自身に『アロマンティック・アセクシャル』というラベルが付き、このキーワードをもとに情報や仲間を探すことができた。
何よりも仲間が存在する場所を探しあてられたことが肝で、恋愛感情を持たないがゆえの人生の不安を吐露しあい、対策のアイデアを交換することができ、またある人たちはそのアイデアを実践している様子を発信してくれる。
世間一般の家族や恋人のように密接な関わりではなく、また友人とも知り合いともつかない距離感の人の方が多い集団。ただ、マイノリティであるがゆえの不便を共有し、互いのことを深く知らないまでも知恵を出し合い、負担のない範囲でうっすら助け合う様はまるで『ご近所さん』だな、と思う。

何より、他者の言動にやたらと恋愛の文脈を見出しがる恋愛探鉱者に怯えなくて済むのがAスペクトラム界隈の心地良いところだ。SNSの海で、ただ互いに自分の生活や好きなものの話をし、不満をこぼし、たまに現実世界で会って互いの存在を実感する…。
そんなご近所さんに出会わせてくれた中山咲月恋せぬふたり大豆田とわ子と三人の元夫に感謝を込めて。


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