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ステイ先で普通になりたかった記憶と、黒人のアリエルの話

 実写版リトルマーメイドのアリエルを黒人の女性が演じたことが、世界で賛否両論を呼んでいるのを知った。私はそういう話題はよくわからないけど、そうすることで黒人の人々や子供たちが希望を抱けるのなら、自分でもプリンセスになれると信じることが出来るのならそうしたらいいと思う。もっともっとそういうことをしたらいいと思う。私はディズニーファンではないし、原作改変だと憤る人たちの気持ちを全く理解しないわけではないけど、そういう人たちは王子様に選ばれるのは(ティアナやムーランなど)例外はあれどだいたい白人で、白人と共に暮らしながらそうした作品や世界観が夢や希望などを宣っている世界に生きる人々のあきらめにもう少し想像力を働かせるべきだと思う。
 日本のことは好きでは無いけど、日本で生きるのは正直楽だ。フランスに留学した時につくづくそれを思い知った。このさきグローバル化はどんどん進んでいくだろうし、そう言ってられなくなる日も近いだろうけど、それでも白人社会で生きるのは辛い。なにか明確な差別を受ける訳では無い。ただ、ふとした時、白人の無意識下での特権意識に打ちのめされる。彼らは自分たちのカルチャーが当たり前で、普遍で、常識であるべきだと思っていて、イスラム系だったり、アジア人だったり、有色人種のカルチャーに理解を示すことはない。もちろん日本にだって郷に入っては郷に従えという言葉があって、外国人が受け入れなければならない部分は大きいが、それでも不可抗力的に発生するカルチャーの違いを彼らはあまりにも短絡的に"異端"として片付けてしまうのだ。日本人が白人に対してそうすることはあまり考えづらい。
 フランスに来て1年目のステイ先は、これまでうちに来た韓国人は皆"変"だったと言った(フランス人は"変"を意味する「bizarre」という言葉を乱用する)。初日、私が"変"でないことを期待するみたいに言っていて、結果的にその家を出る日には私も例に漏れず"変"にされていた。彼らが私の前であの子は良かったのに、と比較する子はスペイン人だったりアメリカ人だったりした。私が郷に従えない時もあったし、今までの韓国人も皆同じように従えなかったのかもしれない。けれど私はあの家でどうすべきだったのか、なにをすれば"変"にならなかったのか今でもずっとわからない。私の前にそこにステイしていた韓国人は英語が堪能で、私なんかよりずっとグローバルな態度が身についていると感じていたけど、ホストファミリーにとっては彼女も"変"だったから。留学エージェントに相談したらもっと会話をしろと言われて、それでも言葉を発そうとすると声が震えて苦しかった。何か一つ言葉を発するたびに、なにか自分からアクションを起こそうとするたびに、どんどん自分を包む皮膜のようなものが剥がれ落ちて、"変"であることがバレていくような気がした。ただ彼らにとっての普通を手に入れたかった。変人であることには、日本にいた時からずっと慣れていたけど、異端であることには耐えられなかった。
 それで、冷ややかなホストファミリーと食卓を囲みながら、味のしないご飯を食べていた時にテレビで偶然流れていたのがBTSだった。確かな記憶ではないけれど、フランスかどこかのある大きな音楽の授賞式にBTSが出演したみたいで、壮大な野外ステージで打ち上げられた花火をバックに踊っていた。今までただ何となく、存在を認知していただけの韓国アイドルに対してあんな感情を持ったのは初めてだった。アジア人の音楽がフランスの食卓で当たり前に流れていて、アジア人が白人に囲まれながら大スターとしてパフォーマンスをしていた。無意識のうちに涙が流れて、ホストマザーが信じられないものを見る目で私を見ていた。私はその時初めて、自分がアジア人であることに劣等感を覚えていたことを知った。アジア人だから普通になれないのだと、白人の真似をしなければいけないのだとずっとそう思っていたから、無力だった。同時に、アジア人でも華々しい音楽の、メジャーカルチャーの中心に立てるという事実に、腹の奥が熱くなって込み上げてくるような希望を感じた。存在を肯定されたような気分だった。
 私がkpopにハマったのはそういう理由で、だから、黒人のプリンセスも、黒人のヒーローも、もっともっと増えたらいいと思う。日本は同一民族で、周りにはほとんど自分と同じ黄色人種しかいないから、だからこそ白人のプリンセスにも感情移入できる。アリエルが黒人である必要性だって感じないかもしれない。けれど世界にはきっと、自分が有色人種であるというだけで少なくとも"正統"にはなれないと、生まれた時から当たり前のように諦めさせられている人々がいる。もちろん全ての有色人種が劣等感を抱いているというわけではないし、全ての白人が傲慢であると言いたいわけではないけれど、そういうことがある。

 それに、同じようなことは日本でも起こっていると思う。外国人というよりは、障がいを持った人々に対して。普通のことが普通に行えることへの特権意識に無自覚で、車椅子の人が電車に乗ったりお店に入ったりするのに人の手を借りることに、しきりに感謝を求めたりする。なにもかも差別だと糾弾するのは好きではない。けれど私たちは、自分がある部分では弱者であっても、またある部分では強者であるということにもっと自覚的になるべきなんじゃないか。そんなことを言いながら、今の私がそれをできているかはわからないけれど。ただ、今は、私が多く貰ったものを取りこぼさないように、ひとつひとつ社会に還していきたい。社会にというか、あの時フランスで毎晩泣いていた中学生の私のために、今どこかで同じようにしている誰かのために、出来ることをしたい。


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