稽古録13.5〜おもてなしと侵入〜

日時:11月13日 3、4限
参加者:田村 片山 増田
場所:早稲田大学学生会館
文責:田村


ちょっとごちゃごちゃしてしまって、稽古録の番号が、変なことになってしまいました。13と14の間に挟まります。


本日は三名ということもあり、この三人だけで展開するシーンを中心に稽古を行った。主に前半部分である。

声に出して台本を読みながら、演技をしていく。

数ページで止めて、話し合って、もう一度やる。これを繰り返す。
話し合いででた意見をもとに台本を読んでみると、さらに深く台本の細部に入り込んでいける。セリフに背あった瞬間に、そういうことだったのか!と話し合いの意見と、具体的な台詞が頭の中で符合し、さらに深いところまで発見できる。

『マッチ売りの少女』が演劇史に残る名作なのは皆知るところだ。なぜ名作なのか、それを台詞の、しかも単語のレベル、語順、三点リーダの位置など、ミニマムな視点で見つけるⅦとができた。

そもそも、「声に出して読んでみないとわからない」というのは情けないことではないかと思っていた。演劇人たるもの、その戯曲の細部に至るまで、一人で黙読して理解すべし!と。それは、もしかしたら正しいのかもしれないが、少なくとも僕には無理だ。

作家の言葉というのは理論を超えている。「手が書いてくれる」と別役さんはおっしゃっていたらしいが、頭=理論で全てを書いているわけではないのだ。なんだかよくわからないところから、絶妙な台詞が、流れがやってきて戯曲となるのだろう。だから、黙読=理論で読むとことと考えると、案外「声に出して読んでみないとわからない」というのは戯曲に対しては正攻法なのかもしれない。

そういえば昔、古代ギリシアでは「読む」という行為は音読のことだったらしい。黙読というものはなかったのだとか。詩(この中に戯曲も入る)が文学の中心であったギリシア人は、言葉(特に詩や演劇の)は理論だけでは収まらない何処かからやってきて記述されているということを知っていたのだろうとか、想像してしまう。

さて、ではどういう発見があったか具体的に記述する。
1、夫婦はおもてなしをしたい
 夜のお茶をしている夫婦の元に女が尋ねてくる。夫婦は迎え入れ、ともに卓を囲む。その後、夫婦は色々彼女に提案をする。ご飯を作ってあげようかとか、質問に答えてあげようかとか。何としてもおもてなしたいらしい。
2、女の望みを探っている
同時に彼女が何を望んでいるのか、二人はずっと探っている。そして少しでもその手がかりがあると、それを叶えようと様々に声をかけるのである。しかし、女は「暖かいところで静かにお茶をしたい」というだけで、非常に無欲である。何が望みなのか、一向にわからない。故に男のセリフは多少焦りを帯びてきて、より饒舌に長くなっていく。なぜ、女の望みを探っているのか、それはもちろんおもてなしをしたいからである。
3、おもてなしをしたい理由
 来訪者をもてなすというのが、「善良で模範的でムガイな」市民のルールだからである。老夫婦は、この市民社会に一生懸命食らいついている。市民は善良で模範的なのだから、来客があったらそれ相応にもてなすのだ。市民社会から捨てられないために、夫婦は善良で模範的でムガイな市民を演じ続ける…。
4、女の侵入
 女の要望がわからない。これではもてなせない。夫婦は焦る。女の些細な言葉にも耳を傾ける。女は少しずつ、自分のことを話し出す。少しずつ女が話し、もてなすためにそれを受け入れる夫婦と。この構図によって、理解不能だった女と慎ましい老夫婦の2つの空間の境が徐々に融解し、1つになっていく。女はここで夫婦の家に「侵入」するのである。女に周到な策略があったわけではないだろう。しかし、もてなしたい→要望がわからない→言葉に耳を傾け、受け入れる→侵入成功という流れは実に見事である。

不条理劇とは2つのフォルム(ここでは夫婦の世界と、女の世界)の融合であると別役さんは論じ、安部公房の侵入劇『友達』の侵入(フォルムの融合)を批判していた。そこでは侵入の仕方には、悪意の侵入と善意の侵入があるとされている。暴力的にどやどやと入ってくるのが悪意の侵入(例えば銀行強盗みたいな)、いつの間にか2つのフォルムが融合する不条理劇のようなものが善意の侵入である。前者には悪意があって、後者には悪意がない、むしろ善意がある。これが2つの侵入のパターンである。安部公房の『友達』は善意の侵入のパターンを持ちながらも、要所要所で悪意の侵入のパターンが出てくると批判されていた。この評論は1970〜1972年のものであるが、別役さんは66年の時点ですでに善意の侵入の劇を作っていたのである。


また、話し合いの中で「三人生まないと義務を果たしたことにならないんですってよ」(p14)という妻のセリフが話題に上がった。女性にこのような台詞を平然とはかせる社会は残酷である。少子化の進む現在ならより切迫性を持って響くだろう。両親から二人では人口は増えない。3人で初めて人口は増える。簡単な算数の話だ。しかし、そのことをぽろっと話した時、妻役の片山が「そういうことね」と言った。人口増加という社会の「義務」のために三人生まなければならないという理論を理解していなかったのだ!意外と暗黙の了解いうか、みんな分かっているに違いないと思っていたことがわかっていなかったということがある。話し合いでそういうこともあぶり出され、一人一人の小さな発見として残っていくといいなあと思った。「人口増加のために3人生まなければ理論」を理解した片山はどこか生き生きとしていた。

参考文献 別役実『言葉への戦術』 1972 鳥書房

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