稽古録 9 〜幽かな生〜

日時 10 月 30 日 13:00-16:15
参加者 田村・片山・増田・森田(演出助手)
文責 森田


○稽古内容
・ウォーミングアップ
・読み合わせ


○ウォーミングアップ
以下の三つを行った
・体の皮膚を叩く
・体操
・薄氷の上を歩くような歩行


○読み合わせの前に
 演出の田村から「幽か」という概念について、掘り下げがあった。
 幽かであることは、即ち死んでいる、ということではない。0 ではない。
 「幽か」という言葉から、あたかも、死を表現するのかとなってしまっていたが、生きているということが大事。
 例えば、死を 0、活力みなぎる状態を 100 とする数直線があるなら、従来の、一般の演劇は70-100 ぐらいの人々を表現するものが多い。
 しかし、普段の我々は、果たして生命力 50 にでさえ到達しているかどうか怪しいものである。
 それどころか、今この世界は、我々の活力を吸い取るような、0 へと引っ張る力が働いているのではないか。
 そんな中で、0 と 1 の間で辛うじて「生きている」人々が正しく「幽か」である、ということなのでは。
 この 0 と 1 の間で、生の活力を表現したい、ここを守りきる演劇にしたい。

○読み合わせ稽古
 各々床に座り、向き合って読み合わせを行う。
 女の登場から、時間が許すまで途中途中休憩を挟みながら読み進めた。
 その中で、女、男、妻それぞれの役の考察を交える。


・砂の身体=0.01 の生命
・今にも消えそうなロウソクのイメージ
・そのロウソクを消してしまわないように大事にセリフを喋る
・死んでいるわけでも死にたがりでもない、「生きたい」という思いがセリフに通っている
・両親との思い出は女にとっては大切(しかし父親たる男はそれを吹き消そうとする)
・売春≒自分を切り売りして残った最後のカケラ
・1 番大切なセリフは「私」かもしれない。→各々の役で大事なセリフを探す作業が必要

男/妻
・社会的な死がすぐそこにある
・何らかのしくじりを犯せば社会的な生のロウソクが消されてしまう
・戦争や女のことなど負の記憶を捨てなければならない。思い出せば上の人間に自分たちが消されてしまうから。

 女の事柄に関連して、集合霊や能についても触れられた。
(注:この辺りから筆者の理解が追いつかなくなってきたため、書き損じや誤解が混ざってる可能性をご理解頂きたい)
 集合霊とは、人は死ぬと個々の霊ではなく、「先祖の霊」というかたまりになるという信仰である。例えば、お盆の際、もし死者すべてが個々の霊であるなら胡瓜と茄子は人数分用意しなければならないが、実際のところは 1 組しか作られない。
 女は、この集合霊に近しい存在かもしれない。
 また能の役のような側面もある。能の役それ自体は人称的だが、「この役にはこの仮面をつける」という決まり事はない。能面は非人称的だ。
 能面を被った役は、「何者か」ではあるが、その背後に何人もの存在を感じさせる。

 女にとって、「私」は“I”ではなく“WE”なのだ。

この日は、久々の2限続けての稽古であった。そのため演劇に関する雑談をしつつも稽古してと、時間に追われすぎることなく充実した内容になったと思われる。

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