演出ノート3–上演台本について–

稽古録として
日時:11月11日 17:00~20:00
場所:早稲田小劇場どらま館
参加者:田村(途中参加)、増田、片山、石田、森田、しばいぬこ

この日は、演出の田村が用事で前半いなかったため、その他の役者がそれぞれ交代で自分以外の役を演じる稽古を中心に行った。

演出ノート3-上演台本について-

 『マッチ売りの少女』は1966年に別役実によって執筆された作品であり、1968年『赤い鳥の居る風景』とともに岸田國士戯曲賞(当時は新劇岸田戯曲賞)を受賞した。たった4人の登場人物の会話による一幕劇は、その卓越した構成力によって高い評価を得たのだ。今日に至るまで、「素朴な設定とは裏腹の完璧なまでの構成力」というのが、この劇の一般的な評価と言ってもいいのでないかと私は感じている。

 「夜のお茶」の準備をしている平凡な老夫婦の元に、謎の「女」が訪ねてくる。女は、自分は戦後の混乱の時代に、マッチを擦って男たちに自分のスカートの下を覗かせていたあの「マッチ売りの少女」であったと告げ、また自分は夫婦の実の娘だと主張する。そしてマッチをする行為を教えたのも「お父様」なのではないかと迫るのである。もちろん「女」は夫婦の実の娘ではない。夫婦の一人娘はすでに死んでいると語られる。何が真実かお互いで食い違う中、女の「弟」も現れ、ついに彼女らの不気味さに耐えられなくなった夫婦は2人を拒絶し始める。最後は、ビスケットを食べた枚数のことで女が弟を執拗に責めたてる衝撃的なシーンを経て、朝の到来と、姉とその子供たちの「死」を暗示する台詞で幕を閉じる。

 あらすじらしきものを頑張って書いてみたが、どうもうまくいかない。要点をさらに絞ると、「ある夫婦の元に謎の女が訪ねてきて、自分は娘だと主張する」、「女は戦後の混乱期に誰かに(女はお父様だと主張する)教えられ、売春のような行為をしていた」という二つがあげられる。ある二つの「フォルム」が混ざり合うことが不条理劇であると別役は考えていたわけであるが、夫婦の「平凡な暮らし」のフォルムと、女の「戦後の混乱」のフォルムが家族関係を通して不気味に融合していくのがこの劇なのだ。

 ではこのフォルムの融合から見えてくるものは何か。夫婦の平凡な暮らしはいわば戦後社会の象徴である。女は戦後の混乱の象徴である。戦後社会は戦後の混乱期の多くの混乱を無視し、隠蔽し、見なかったことにして発展してきた。しかし、この夫婦を含め戦後社会の「豊かさ」を享受するものは等しく、戦後の混乱と無関係ではいられない。彼らとてその混乱期は、その社会の当事者だったのだ。そこから戦後の発展に、「運よく」乗ることができた一部の者によって、戦後社会は構成されたのだ。つまり豊かさのために、ある者たちを犠牲にし、しかもその者たちをまるでいなかったかのように振る舞う社会に、そのいわば「忘れられた」犠牲者の「残念」が入り込んでくる、近代社会に対する告発劇としてこの劇は書かれているのだ。
 
 66年から現代に至るまで、悲しいかな、この構図は生きている。社会とそこから追いやられた者、はじき出された者という構図だ。障害者、セクシュアリティ、エスニシティなど様々な理由で、社会から不当にはじき出された者たちがいる。もちろん未解決の第二次世界大戦の問題も残っている。そして、そこに自らはなんの関与もないと思い、現代社会の豊かさを享受している者たちもいる。この状況がきっと現代でもこの戯曲がアクチュアリティを持つ所以なのだろう。そしてそれは決して幸福なことではないのだ…。

 とまあ、この戯曲の大まかな構造や主題とそれに対する見解のようなものを述べてきたわけであるが、今回は「66年と同じ場所でやる」という仕掛けを生かすために、台本に少し手を入れることにした。あの劇のある美しささえあると思われる構成に手を入れるのかという意見もあるだろうが、この戯曲の構成を生かした上演は今までたくさんあった。今後もあるだろう。だから、今回はあえてその構成を「壊して」みたかったのだ。

 ではどのように手を加えたか。その前にもう少しだけこの戯曲について説明する。まずこの戯曲に登場する女を「幽霊」のような存在だと考えてみる。社会からはじき出されたもののルサンチマンの集合体だ。そう考えるとこの劇は途端に「能」のような構成を持つものに見えてくる。能では成仏仕切れない幽霊が眠る土地に旅の僧が訪れると、そこに霊が現れるというのが基本的な構成だ。ここでは幽霊とは女であり、土地とは早稲田小劇場どらま館のことである。また、この劇は4人の会話以外に時々、「女の声」としてアンデルセンの『マッチ売りの少女』が断片的に挿入される。これも、なんとなく地謡やアイのように思えるのだ。そこで今回の脚色は戯曲の中の奇妙な能との相似性を際立たせ、戯曲の持つ歴史的な重層さをより顕現させることを目的に行った。

 まず途中に入る「女の声」を地謡とみなす。地謡は能舞台を見つめ、謡を発することで空間と役者を緊張させ、能の上演を完遂に導く存在であるから、「女の声」は舞台上に登場することになる。これをギリシア悲劇に習ってとりあえず「コロス」と名付けた。

 地謡の台詞は能の幽霊の台詞の一部であったり、幽霊の生い立ちや謂れを語る。アンデルセンの『マッチ売りの少女』も、この劇の女と二重写しのような関係になっているので、謂れを語ることの派生系とみることができる。そして先ほども書いたように地謡とは「能舞台を見つめ、謡を発することで空間と役者を緊張させ、能の上演を完遂に導く」存在でもある。
よって
1、女の一部または分身としての台詞
2、役者や空間をより緊張させるような台詞
の2つがコロスの台詞としてたされることになった。また、この劇は上記の通り、戦争という過去の文脈と現代の問題とそしてきっとこの先もまだ解決しない問題を孕んでいる。よってコロスは過去、現在、未来を象徴するように3人とした。主にコロス1は過去、2は現在、3は未来をイメージしている。

 ここから1、2にあたる台詞を考えて行くわけだが、まず1の台詞は主に別役実『象』、ギリシア悲劇『トロイアの女』、能『姥捨』からの引用で構成することにした。別役実の初期の傑作である『象』にはその後の『マッチ売りの少女』を想像させるような台詞が見られる。これは2の役割も担うわけではあるが、一応1に分類しておく。

「ただ、僕達は、いろんな事をしようとしてはいけないんですよ。/皆に憎まれるか、殺されるか、いじめられることしか出来ないんです。/愛されようと思っちゃいけないんですよ。/ね、いいですね。/殺されたり、憎まれたり、いじめられたりしない時は、ただ、じっと待っているんです。/それしか出来ないんですよ。」(『象/マッチ売りの少女』より)

ギリシア悲劇『トロイアの女』はエウリピデスの書いた作品で、トロイア戦争に敗れ、ギリシアに奴隷として連れていかれる女たちの悲しみが描かれる。この劇の内容も戦争によって破壊され、忘れ去られる都市と犠牲となる女たちを描いているという面で『マッチ売りの少女』とリンクするのだが、成立過程も興味深い。この劇が発表された当時、アテナイはペロポネソス戦争の真っ最中であり、キロスの住人をアテナイが虐殺するという事件も起こっていた。エウリピデスは千年以上前に自分たちの先祖が滅ぼし、それが誇りとなっていたトロイア戦争を、あえてトロイアの側のギリシア人は気に留めなかった悲しみをピックアップして見せることによって、戦争によって理性を失って行く同胞たちを激しく糾弾したのである。この成立過程も『マッチ売りの少女』と重なるところがあるように思えるのだ。2500年の時を超え、翻訳によってようやく我々の手に届いた『トロイアの女』にエウリピデスの感じていた淋しさ、辛さ、怒りがどれほど残っているかはわからない。しかし、丁寧に読んで行くと、別役実に『マッチ売りの少女』を書かせた衝動のようなものと相似形なものを作品のうちに感じ取ることができる。

「みなのもの、お聞きだったか、今の音を。あれはトロイアの最後の音。揺られ揺られてトロイアの町は、跡形もなく滅びゆく。」(『ギリシア悲劇全集Ⅲ』より)


能の『姥捨』は世阿弥の書いた能である。老婆を山に捨てるという棄老伝説とそれに関連する詠み人知らずの和歌「我が心慰めかねつ更級や姥捨山に照る月を見て」に想を得ている。旅の僧が姥捨山に月見にくると、そこにかつて棄てられた老婆が現れ、妄執の心を晴らそうと月を眺める。しかしその心は晴れることなく朝になると僧も山を降りていき、ただ一人のこされるのである。社会からはじき出されたものの淋しさ、悲しさが『マッチ売りの少女』と深くリンクする。また別役さんは晩年、病床で「楢山節考」(棄老伝説に材をとった小説)を元にした戯曲の構想を練っていたらしい。それは完成することなく今年の3月に亡くなられたのだが、いわばそれへのオマージュも入っている。

「夜も既にしらしらとはやあさまにもなりぬれば。我も見えず旅人も帰るあとに。ひとり捨てられて老女が。昔こそあらめ今も又姥捨山とぞなりにける。姥捨山とぞなりにける。」

さてここから2の「役者や空間をより緊張させるような台詞」だが、上演の背景や66年当時を役者や上演空間に呼び起こさせるような文章を選んだ。まずはこれだ。

「私のたましいは久しく貧しかった。もしかしたらその貧しさを正当化するためにのみ、前衛劇であり、小劇場運動であり、そして新劇であろうとしていたのかもしれない。私はどちらかと云えば、或る内部からの情熱がもり上ってはじけるニキビでなく、むしろ、風を頼りに運ばれてたまたま住みつく疥癬である。だから私にとっては居留地を得る事こそが至上命令であった。私の芝居が、しばらく新劇の中で異端視されたのは、むしろ私が、余りに新劇的であろうとしすぎたからかもしれない。私は今、この受賞により、さり気なく新劇人である。それが先ず嬉しい。人が住まう事により計算の基準を得、価値を生み出したように、私もまた、この規格をもとに静かに脂肪をたくわえ、豊かさと云われる事の、貧しさとの距離を楽しむ事が出来るかもしれない。私の次の野心は、さり気なく新劇人であり得たように、さり気なく日本人であり得る事であり、次いでさり気なく、人間である事に他ならない。」(「第十三回岸田戯曲賞受賞によせて」より)

少し長いが、この作品で岸田戯曲賞をとったときの別役さんのコメントである。満州から日本へ、アングラから新劇へと近代社会の中の永遠のデラシネであった別役さんらしいコメントであるが、ここに現れる別役さんの思いが『マッチ売りの少女』に奇妙に共鳴している。この戯曲が別役実にとって、アングラ演劇にとって、60年代にとって、演劇界にとってどのようなものだったのかを示唆するとともに、別役戯曲の通奏低音のようなものを響かせるものになっている。

もう一つ例を挙げると

「鈴木忠志の才能の大きさは、その「憎悪」の大きさと等量である。小野碩の才能の深さは、その「寂寥感」の涯しなさと等量である。私はこの二人を、ほぼそのように観察してきた。この二人が、その作業において、最も理想的に関係した時、小野碩の、ともすれば形而上的に拡散しがちなその「寂寥感」を、鈴木忠志が強引に、形而下的なものにつなぎとめようとすることで、空間は異様に緊張した。もちろん、鈴木忠志の「憎悪」の出どころが何なのか、小野碩の「寂寥感」の根拠が何なのか、私は知らない。この二人が、関係した時に生ずる、このパターンによってしか、私はこの二人を知らなかったのかもしれない。またこの二人も私を、こうした関係が成立した時に生ずる、パターンを通してしか知らなかったのかもしれない。
ともかく、ひどく月並みな言い方だが、小野碩の死によって、一つの時代が終った、という気がしてならない。」(『劇的なるものをめぐって』「小野碩を悼んで」より)

初期早稲田小劇場で別役実、鈴木忠志とともに『象』などの傑作を作り上げ、『マッチ売りの少女』でも男を演じた俳優小野碩を悼んで、別役さんが書いた文章である。小野碩は1972年ごろに早稲田小劇場を抜け、1974年に長野の旅館で自殺した。それはとてもショッキングな出来事であった。扇田昭彦をして「宙吊りの演技」と言わしめ、鈴木忠志・別役実をして「たじろぐ生理」「あるアマチュアリズム」と言わしめた、アングラ初期を支えた形而上学的演技は、1974年にもっとも不幸な形で消滅した。その演技はきっとアングラを彩った「特権的肉体」をもつ状況劇場の役者や、鈴木忠志の早稲田小劇場の白石加代子らの演技とは違う、儚さをたたえたものだったのだろう。同時代的に60年代を述懐する扇田昭彦のような人の著作には小野碩は非常に印象的に描かれる。しかし、彼についての記述はそのくらいであり、アングラの演技とは長らく状況劇場や白石加代子の演技に代表されるようになった。彼もまた、忘れられた存在であり、しかし66年の上演に確かに彼の演技は存在したのである。この台詞を通して役者の身体や空間に小野碩の演技を復活させることは出来ないか、そういう思いで引用することにした。

このように2つの意図のもと多少台本に付け足したものが今回のプロジェクトで使った上演台本である。脚色の効果についてはまた、最後の演出ノートで記述しようと思う。

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