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『マッチ売りの少女』座談会(2)–『マッチ売りの少女』を読む–

11月に『マッチ売りの少女』を上演しようということで動いてきた本プロジェクトですが、covid-19の感染拡大に伴い上演を中止せざるを得なくなりました。しかし、そのような状況の中で11月22日まで「稽古」を続けました。これはその記録の総括の座談会です。稽古を通して、いまの状況のこと、戯曲のこと、役のことなど多岐に渡って思考/試行してきたことを参加者に語ってもらいました。第二回は戯曲『マッチ売りの少女』そのものについて話してもらいました。普段古典作品を稽古することの少ない早稲田演劇界隈ですが、日本演劇史の古典『マッチ売りの少女』をどう感じたのでしょうか?

田村 じゃあ、次は作品全体について聞いていこうかな。最初に台本を読んだ時から、稽古を経て印象とかも変わっただろうし。まずは片山さんから。
片山 戯曲が稽古を重ねるごとに理解できるようになった。超当たり前なんだけど…。今までやったことある戯曲よりわかんない系の戯曲だったんだけど、「幽か」っていうキーワードを出してそれを稽古場でみんなでやってみてすり合わせる作業を通して、最初に「はあ?」ってなった時より戯曲のこと、キャラクターのことがわかるようになったな。あまり既成の台本をやったことがなくて、「これはどういうことですか」って言ったら、作者の人が稽古場にいて答えてくれるのが普通だったから、それがなくてみんなでああじゃないかこうじゃないかって言い合うのが新鮮だった。
田村 誰も正解はわかりませんからね〜。
片山 最初に戯曲を読んだ時には、謎!っていうのと不気味!っていうのしか感じなくてキモいなあ〜って思ったけど、もちろん今やっても不気味でゾクゾクはするんだけど、愛しいなって思うようになった。私が演じる「妻」にはないだろうけど、片山的には登場人物たちがささやかに一生懸命生きているのが愛らしいと思うようになったなあ、稽古を通して。
田村 以上?
片山 はい。
田村 じゃあ次はりこ。
森田 いわゆる古典ってそうなんでしょうけど、最初読んだ時の「理解できる度」が、我々が作る台本より低いんですよ。自分たちが作った台本の場合、最初に100%台本を理解して、それに演技をどれだけ近づけていくかっていう感じなんですけど、こっちはまず理解度を上げていかないといけない。その過程の中で演じる必要があったりするっていう構造が面白いなあと思った。今は、ちゃんと言葉にはできないけど、ちょっとわかった感がある。怖いとか、悲しいとか感想を抱けるようになった気がします。ここに至るまでみんなで話し合って、やっと理解度が60〜70%まで上げられたのが、これが古典たる所以なんだろうなと思いますね。こういう古典を触るたびに思い出すのが、前にとった小説の授業で先生が「すごい作品が面白いとは限らない」っていう言葉ですね。「つまらなくても、すごい作品はある」って。
田村 『ゴドーを待ちながら』とかその極致だよね。
森田 この体験を一回、去年の『ゴドーを待ちながら』で経験して、すごくカルチャーショックだったので、それがもう一回体験できてよかったなとも思ってます。以上です。
田村 「すごい作品が面白いとは限らない」って言ってたけど、この作品はどうだった?「すごい」とは思うんだよね、この作品。「面白い」の方としてはどう?
森田 先生が言っていた「面白い」はエンタメ的な面白さなんですよ。
U-5 Interestingよりexitingって感じ?
森田 そうだね。ワクワクはしないじゃないですか、この戯曲。だからそういう意味では「面白くない」。でも、この作品が持つ普遍性のようなものを「面白い」と形容することができる。Interesting、興味深いってことです。だから、掘り下げていくことで面白くなっていったんですけど、多分初見で、予備知識も全くないと面白いくないと思う。
田村 初見での面白さはないって言ってたけど、お客さんって初見じゃん。どうしよう?という疑問が湧いた…。
森田 そこなんですよね〜。
しば 元々戯曲を知ってる人はいいんでしょうけど…。
森田 思うんですよね、こういう台本を書いてる人って、果たしてお客さんに面白いと思って書いているのかなって。それよりも自分の書きたいものを書いている感がある気がするんですね。それを営利的に成立させるのって難しくない?って。
片山 上演するってなったら、そこに演出家とか役者とかの解釈が挟まるわけじゃない?そしたら、その字面で読むよりは面白くなるんじゃない?
増田 逆に文字の方が面白いパターンもある。
片山 あるね〜、あるね〜。
U-5 『ゴドーを待ちながら』とか『マッチ売りの少女』を見にくる人って、解釈を見に来るって感じなんですかね。
増田 私が『ゴドーを待ちながら』を今、見にいくとしたら、どうして、なぜ、何を思って、どうやって、上演するんだろうっていうことを見にいくと思うな。
U-5 座組の思想を見にいく感じ?
田村 文字で読んだ方が面白い戯曲ってどんなの?
片山 それは立ち上げ方があまりにも下手くそって場合では?この戯曲をこんなにも面白くなくする!?って感じ。
田村 なるほど、なるほど。
増田 これは私のどうしようもない特性なんですけど、一定時間時間を共有していると必ず眠くなってしまうんですね。演劇もそうなんです。テレビとかも2倍速とかで見ちゃう。例えば本って、面白いって思ったときに読んで飽きたらやめてって感じで感覚を調整できる。でも、演劇って一度見に行ったら、途中で止めることは絶対できないし、倍速とかもできない。でも、それでもどうしようもなく心を揺さぶられることが演劇にはある。そこが演劇の私の好きなところで、それが面白い上演なんじゃないかって思う。
田村 ははあ。なんかリコの話から盛り上がっちゃったね、じゃあ、次は覚士。
石田 多分みんなわかんないからスタートすると思う。僕は、現在もわかんないです。でも、わかんないのベクトルが違うんですよ。最初は全然頭に入ってこないというわかんなさ。今は、どういう意味なんだ?っていうわかんなさ。読めば読むほど、新しい発見があると同時に、新しい謎が生まれるんですよ。だから永遠に理解することできないんじゃないかと思うんですよ。逆にいろんな解釈が可能なのかな。この劇、ストーリーだけ説明すると単純じゃないですか。なのに、わけわかんない。それもわけわかんない。意図してわけわかんなくしてる台詞回しにしているのかなとも思っちゃう。ちょっと暴力的な言い方ですけど、わかっちゃダメなのかな?って。わかんないまま楽しむっていうことができるんじゃないかってことをこの劇を通して考えました。わかんないことを悪としない方がいいんじゃないか。
田村 なるほどねえ〜。わかんないことを悪としないってイイね。じゃあ次、悠梨。
増田 ちょっと、ベクトルが変わるんですけど、今はとても悔しいなって思う。この劇から「声なき声」の表象っていうのを最初に読んだ時に一番強く受け取ったんですよ。それから人間って本当に全部全部忘れていくんだなっていうことを最近すごく、実感したんですね。それは、『拝啓総理大臣様 前略総理大臣殿』(燐光群、作・演出:坂手洋二)を見たからなんです。『拝啓天皇陛下様』の小説の世界と、現代の日本をリンクした作品で、『拝啓天皇陛下様』の語りの「ムネさん」と、森友問題を巡って公文書改ざんを強要されて自殺に追い込まれた、赤城俊夫さんをモチーフにした現代の「ムネさん」という人を一人の俳優さんが演じていて、しかもその俳優さんが病気になっちゃって、坂手さんが声だけ入れるっていう特殊な演出だったんです。で、それは声だけでそこにいないということでも死者であるし、赤城俊夫さんは現実世界ではリアルな死者です。『マッチ売りの少女』から現代の『拝啓天皇陛下様 前略総理大臣殿』まで、いつまで声なき声の表象を続けなくちゃいけないんだって思ったんです。それでも舞台にあげないとみんな気がつかないし、忘れてしまうし、それでもこの国はいつまでもこの調子で進んでいって何も変わってないし、むしろ後退しているかもしれない。それがすごく悔しくて、いたたまれない。『拝啓天皇陛下様〜』の方はちょっとだけ希望がある終わり方なんです。でも『マッチ売りの少女』は希望とは違う終わり方をして、それが今すごく気になっている。女も、子供たちも死んで、生き残った人々(男、妻、弟、コロス、観客)は何を思うんだろうって。
田村 そういえば坂手さんって新国立劇場で『マッチ売りの少女』を演出してるんですよね。たしか、2003年に。『象』もやってる。別役さんが結構好きなんですよ。じゃあ次、役者じゃないけど、U-5。
U-5 回ってくるとは思わなかった!役者じゃないから、そこまで深く作品について考えてたわけじゃないんですけど、何と無く難しいことするなあと思ってました。これを見てわかった気になっちゃう人って結構傲慢なのかなって思っちゃうんですよ。表面的には女・弟が弱者で、夫・妻が悪者でってなるんですけど、そうとだけ捉えるとこれってすごく悲しいなあって思って。自分としては夫・妻の行動の方に移入してしまうし、そういう見方もできる劇だと思う。夫婦の言動によって、自分の人間臭い部分、掘られて欲しくない部分を掘られてくるような気持ちになってきますね。激しいシーンは多くないんだけど、えぐってくるシーンのオンパレードなんですよね。
森田 自分の現状とかと重ねてしまう。
U-5 それもあるし、夫婦が親切にしようと務めているっていうのもわかるし。観客目線でみていてああきついなあ。これを役者でやりたくないなあって…。
田村 それは何で?
U-5 素が出過ぎてしまうから。夫婦と自分との距離が近すぎるんですよね、今の自分の場合。でもそういう人って結構いるんじゃないかと思う。
田村 言ってしまえば、僕たちみんな夫婦側ってところがある。安住しているという面で。
U-5 だからと言って、姉弟を切り捨てていいわけじゃないと思うんですけど、拒んでしまいますね、私の場合は…。向き合いたくない事に向き合わされてるっていう気分にこの劇を見に行ったらなるんだろうなって。
田村 じゃあ次はしばいぬこさん。
しば アンデルセンの『マッチ売りの少女』をみんな最初に思い浮かべると思うんですよ。この劇と童話で決定的に違うなと思うのは、童話の方は他人事のように見れててしまうんですね。どの登場人物にも感情移入しない。どこかでこんな悲しい物語があったんだな、以上ってずっと思ってたんですね。でも今回の劇は、そうはいかないと思っているんです。今回はコロスっていう、ある種劇を俯瞰する立場にあったからかもしれないんですけど、辛いっていうのとすごいっていう2つの気持ちが両立してるんですね。辛いっていうのは、姉弟の安住したい、自分を定義つけたいっていうような、浮浪者としての苦難と、2人を受け入れてくれない厳しい現実、それでも現実に迎合できないってあたりに辛さを感じました。逆にすごいって思ったのは、「娘なので」って感じで自分から提示していくっていう、自分の存在を信じる気持ちの強さに対してかな。私にはできない。私は、新しいコミュニティに入るのが苦手で、そこでどう振る舞えばいいかって毎回悩む性格だから、女や弟の態度には、勇気をもらえるというか。
U-5 確かに、カチコミ行ってますからね。「娘です」って。
田村 ある種の活力があるよね、姉弟には。
しば そうそう。全体のいたたまれなさ、悲壮感はあるけど、何な勇気がもらえるかな。
田村 じゃあ次は僕ですね。高校生の頃、何となく読んだんですよ。『現代日本戯曲体系』っていう全10巻以上の戯曲集に入ってて、そこの違う戯曲が読みたくて図書館で借りたんですね。で、別役さんの作品が好きだったので入ってるなら読もうかあ〜みたいな感じで。その時は、本当に何言ってるのか全くわかんなかった。だから、みんなの「わかんない」ってすごくわかるの。わかんないんだけど、不思議と読むことはできたんですね。だからなおさら、読めるのにさっぱりわからんっていう爽快感みたいなものも高校時代はあったね。大学に入って、アングラ演劇のこととか本格的に勉強し始めて、その時何となく掴めたんだよね。それは悠梨の言ってたことに近いんだけど、この国の今のあり方と重なって見えたから。そこからずっと自分の中で温めていた作品なんだけど、今回、体を動かして、声に出してって稽古する中で、実は夫婦の中にも弱者性が潜んでいることとか、女がちょっとずつ夫婦の家に「侵入」していく細かいプロセスとかすごくいろんなことがわかった。台詞を単語単位まで細切れにして分析したって感じかな。それって黙読じゃあどうしても限界があると思うんだよね。ただ、ずっと変わらない部分もあって、それはこれが社会からはじき出された「幽霊」たちの話だっていう部分。そこの「幽霊」が女と弟だけだったところに、夫婦も、今回追加したコロスも、そしてこの作品の上演史とか、上演そのものまでが幽霊的な性格を帯びてるんだっていうのが一番大きな発見かな。


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