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"セクマイ"とラベリングされること


先日、久しぶりに会った後輩にこんなことを聞かれた。「きな子さんは、Aさんと同じアセクシャルなんですか?」と。その言葉と、質問する背景になんだかモヤモヤしたのだ。

わたしの親しい友人Aはアセクシャル(無性愛者)だ。
その友人Aと後輩は共通の知り合いで、友人Aは既にSNS等でもアセクシャルである事をopenにしている。

私は4月のレインボープライドに友人Aと参加した。
そして私がパンセクシャルだと自認してから、あれこれ多くのことを話し合ってきたのもまた友人Aだった。
私と友人Aがかなり親しいことを後輩は知っている。
ではなせ後輩は私に「Aさんと同じアセクシャルなんですか?」と聞いたのだろうか。
なんだか答えるのに躊躇してしまった。

そもそも、「あなたはレズビアんですか?」「あなたはセクシャルマイノリティーですか?」とド直球に聞くことは、聞かれる側にとってかなり受ける重みが変わってくるだろう。時によって、関係を損ないかねないような発言にもなり得るだろう。
私は親しい友人たちや、LGBTQ等のトピックで話をする時には自分のセクシャリティについて話すことに躊躇はない。
でも一方でSNS等の、誰もが知ることができる媒体では実名をもってopenにはしていない。
だからこそこのnoteを使って、しかも「豆乳きな子」という名前であれこれ綴っているのだ。


後輩の頭の中でなにかしら、「きな子さんはアセクシャルなんだろうか。それともバイ?いや、ストレートのアライなんだろうか?」そんな思考のやりとりがあったのだろう。
その人が"なに"であるか考えることは、なんだか変だ。
そして「◯◯なのだろう」と、決めつけられたことが何より、嫌だった。

でもそうやって聞いてくれたことで話せたことや、きっと後輩の視野を広げることができたことを考えると、きっかけを貰ったのは私なのかもしれないとも思う。

あぁそうか、あの時私は「あなたはストレートなの?」と聞けばよかったのだろうか。
でもその時に感じる違和感は後輩とは違ったはずだ。
もしかしたら"ストレートのひとたち"はその問いに違和感を持たないかもしれない。


アセクシャルの友人と親しい私はアセクシャルなのでは?という思考はあまりにも短絡的だと思う。
「もしよかったら、セクシャリティをどう自認しているか教えてほしい」と聞いてくれれば、気持ちはもっと違っただろう。

やっぱり誰かが誰かに投げかける言葉が、もっと優しくなればいいのになぁと思ったきな子でした。


7.28
夏風邪がなかなか治らない梅雨明けに




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