20240414

7時半に目を覚まし、食前の漢方だけさっと飲んで目覚ましが鳴るまでの30分間、二度寝を決め込む。ゆうべキャミソールにパンツ一丁でベッドに入ったせいで、二の腕がすっかり冷えていた。

軽く眠って8時の目覚ましを聞き、納豆卵かけごはんを食べる。昨日まで飲み過ぎで胃腸の調子が悪かったが、今日は大丈夫そうなので安心した。

シャワーを浴びて歯を磨き、化粧をしているところへ、くみこさんからプロレスの始まる時間に遅刻するとの連絡がくる。了解、とだけ返信して、「マツコ有吉のかりそめ天国」の好きな回(U字工事が千葉でマツコさんの終の住処を探す回)を流しながら化粧を続けた。

どうせくみこさんも遅れてくるしのんびり行こう、と思ったがオンタイムで後楽園ホールに到着。受付でチケットを受け取り、南側のスタンド席に座る。なかなか眺めのいい席ではあったが、両隣が恰幅のいい男性で圧迫感がすごい。いつも思うが、男性は女性で言うハンドバッグみたいな、最低限のものだけが入る小さいかばんを持たないのだろうか?左右どちらの男性も、ただでさえ恰幅がいい上に両足を開いて足の間に大きなリュックサックをどんと置いていて、そのせいでわたしのスペースがめちゃくちゃ狭くなっていた。こういうことは今日が初めてではない。後楽園ホールだって新宿FACEだって新木場1st ringだって、プロレス会場はどこも狭いのに、いつもくそデカいかばんを持ってきてスペースをとる男がいる。もちろんこの後仕事があるから荷物が多いとか何かしら事情があるのだろうが、だからと言ってわたしが毎回黙って狭い思いに耐えなければならない義理はない。わたしだって普段は荷物が多くデカいかばんを持ち歩いているところ、プロレス観戦の時は周りに気を遣ってMM⑥のめちゃくちゃ小さいハンドバッグで行くようにしているのだ。

今日はセンダイガールズプロレスリングの大会。はじめに、わたしが仙女を好きになったきっかけでもある代表の里村明衣子選手が目の覚めるような真っ青なスーツを着てリング中央に現れる。里村さんはいま日本では試合をしていないから、直接姿を見られる機会は限られている。久しぶりの憧れの人の姿に胸が弾んだ。

残り3試合くらいになったところでくみこさんがビール片手に合流、一緒に声援を送る。
すべての試合が終わったあと、大会も盛り上がったことだし久しぶりにあの店に行こう、と会場近くの人気のもつ焼き屋に向かうと、運良く席が空いていたのですべり込む。その店は店員がやや気難しく、オーダーの仕方にひと工夫がいるのだが、もう何年も通っているのでわたしもくみこさんもまぁ慣れている。
しばらくすると空いていたわたしたちの隣の席にも野球のユニフォームを着たおじさんが二人座って、満席になった。わたしたちは共通の友だちの近況や、わたしの恋の進捗状況などを話した。わたしは先日飲みすぎたばかりなので、酒はやめてひたすら烏龍茶を飲んだ。

少しして、酔いが回ってきた様子の巨人のユニフォームのおじさんが、店員にテレビのチャンネルを変えるよう大声で指示した。みんなで大谷くんの試合を観ていたのに……と思いつつ、そこまで大谷くんに興味があるわけでもないので気にしないでいた。ふとテレビを見ると、回したチャンネルでは巨人と広島が戦っている。試合は5回。横をちらりと確認すると、巨人のユニフォームのおじさんと広島のユニフォームのおじさん。東京ドームでの試合終わりかと思ったが、まだ試合中なのか、と思った。変だなとは思ったがおじさんには大谷くんより輪をかけて興味がないので黙ってもつを頬張った。くみこさんが広島のおじさんに何気なく言った。
「試合中なんですか?もう終わったのかと思った。観に行かなくていいの?」
広島のおじさんは、山口から東京へ広島の試合を観に来たら、すぐそこで今日初めて巨人のおじさんに出会い、誘われるがままに飲みに来てここにいて、球場にはまだ行っていない、というようなことを言った。うわ、まじかわいそう、と思っていたら巨人のおじさんが突然「おい、ババア」と言った。誰に言っているのかな、と思ったらくみこさんの目を見ていた。驚いた。
「俺たちにさっさと出てけって言いたいのかよ、ババア」
何でもいいから他人に絡みたいタイプの人間に、絡む口実を与えてしまったと思った。一目見た時から何となく嫌なバイヴスを放つ人だとは思ったがこういうやつだったか。いくら広島のおじさんがなだめても、くみこさんがいなしても、巨人のジジイは「ババア」の連呼をやめない。困ったことになったと思ったがそのうち広島のおじさんが促して会計を始めたので、あと少しの我慢だと思い顔を背けて黙っていた。しかしあまりにも何度も何度も「ババア」と言うので我慢ができなくなってきた。相手は明らかに50代以上だ。ババアって何?世間的に見てってこと?ふざけるなよ。何でそんなこと言われなきゃいけないんだよ。わたしたちは平日労働に耐えて、土日に細々と魂を寄せ合って、プロレスや映画や仕立てのいい服や色とりどりの化粧品や、いろんなキラキラしたものを見ては心を磨いて、美味しいものを食べてつらいことやうれしいことを持ち寄って支え合って、この目と心が曇らないように、できるだけ鮮やかな気持ちでこの世をサバイブできるように、毎日精一杯やっているんだ。敵チームのユニフォームを着た明らかに気弱そうな人を無理やり飲みに連れて行った上にその店で口答えのできなさそうな年下の女たちに因縁をつけてストレスを発散するような下郎とは違うのだ。たまらずに言った。
「まぁ、もういいじゃないですか」
しかし巨人のジジイは充血した目でわたしを見て言った。
「お前も何だよ、ババア」
「何がババアだよぶち殺すぞクソジジイ」
気付くと立ち上がって店中に響き渡る大声で叫んでいた。
その後も巨人のジジイはバカのひとつ覚えのように「ババア」を繰り返した。
「てめえの方がジジイだろ、死ね」
叫ぶとジジイは「ババア」を「バカ」に変えた。子どものように、バーカバーカと繰り返す。
「ふざけんなよ、殺すぞ」
詰め寄ると、厨房から飛んできた店員が間に入った。ジジイは何か捨て台詞を吐きながら店の外へ消え、広島のおじさんもすみませんでしたすみませんでしたと謝りながら後へ続いて行った。
ふたりが出て行ったあとで、店員が「あの人先週も来たんですけどいろんな人に絡んでトラブルになって……」と言って謝ってきた。だったら先週の時点で出禁にすべきだし、仲裁に入るのも遅すぎると思ったが、それよりも、「ババア」と言われたのが悔しくて悔しくて仕方なかった。わたしは「ババアなんて誰にも言われたことないのに!」と言って泣いた。隣の席に座っていた女性たちが慰めてくれた。店員が新しいおしぼりをくれ、あそこの席のお姉さんが一杯奢りたいって言ってます、と言った。手のひらが指す先を見ると上品そうな60代くらいの女性が微笑んでいて、労うようなことを言ってくれたが、涙は止まらなかった。
泣きながらくみこさんに「わたし普段20代とバンバンセックスしてるし、全然ババアじゃないよ!」と言うと、くみこさんは「いや、そういう話じゃないんじゃない?」と言った。そうなのか?まぁそうか、セックスとか関係なかったわ、と急に冷静になった。わたしはセックスとか男女のことを考えすぎている、と思った。
やっと落ち着いて周囲の人たちにお騒がせしました、すみませんでしたと謝ると、みんなお姉さんは悪くないよと言ってくれた。いや、でも相手がどんなやつかも分からないのに殺すだの死ねだの言ったのは明らかによくないだろう、と思った。何かが違ったら本当にわたしか誰かが死んでいたかもしれないし。そういうことは実際ある。
すぐに会計して店を出たが、店員は何度も謝りながら見送ってくれ、特に出禁も言い渡されなかったのでちょっと安心した。でも、くみこさんと別れたら途端にめちゃくちゃに暗い気持ちになってきた。

わたしは人に対してほとんど怒らない、というか怒れないタイプの人間だと自分のことを思ってきたし、実際今日まで怒りで他人に大きな声を出したことなんて一度もなかったけれど、いざ地雷を踏まれたら、全然ブチギレちゃうような人間だったんだ、ということがショックだった。やっぱり、という思いも胸のどこかにあった。

というのも、わたしの父はブチギレちゃう側の人間なのだった。普段は温厚なのに、たまにスイッチが入ると大声を出して怒り散らした。その怒りのほとんどは通りすがりの人や仕事関係の人や親戚など、わたしたち家族以外に向けられたものだったけれど、わたしは父が怒り出すたびに、そばを離れて耳を塞いで静かに泣いた。怖かった。父もだし、優しい父を別人のようにしてしまう怒りという感情が怖かった。わたしは自分は怒らない大人になろうと思い、その結果、どんなに自尊心を踏み躙られても何も言えない大人になった。はずだった。でもやっぱりわたしの中には父の血が流れているのだ。立ち上がって怒鳴る直前、パチン、と頭の中で音が聞こえた気がした。理性が吹き飛び、制御ができなくなった。でも、どこかで気持ちいいとも感じていた。わたしは大きな声を出すことで怒りを発散してしまうタイプの人間なのだ。激情を抑えられない。怒りに支配されている。自分が恐ろしかった。

そしてその地雷が「ババア」だったこともまた、ショックだった。
わたしはいま36歳だけど、年齢より若く見られるのが常で、この間も新しく働き始めた会社で明らかに年下の女の子がめちゃくちゃタメ口を使ってくるのでそういう文化の会社なのかな〜、と思っていたら実は年下だと思われていて後から平謝りされる、ということがあった。まぁ若く見えるのは事実だと思う。でもコンディションや見る人によっては36歳にも全然見えると思う。分かっているのだが、若く見られることや、それで男の子にもてはやされることや、実際若い男の子と遊んでいることが、わたしの自尊心を支えていたのだ。え?そんなことに支えられてんの?わたしの自尊心?と気付いて、それがショックだった。ダサすぎる。そんな表面的なことじゃなくて、本当はもっと自分の奥底にあるものを愛したいのに。それを自信にして歩んでいきたいのに。

それから、今日巨人のジジイにブチギレたことの前には、前振りがあるような気もしていた。普段から募っていた男性に対する不満や苛立ち、たとえば先に書いた、狭いプロレス会場にデカいリュックサックを背負ってくるとか、そういうことの積み重ね。でもその男性への不満や苛立ちを、わたしの中で助長したものがあるように思えて仕方ない。マッチングアプリだ。
わたしはここ数ヶ月毎日のようにマッチングアプリで知らない男たちに失礼なことや卑猥なことを言われたり、尊厳を傷つけるようなことをされたりした結果、男性に対するヘイトを徐々に溜め込んでいた。それが全くなかったら、マッチングアプリなんて全然やってなかったら、今日あんな大胆な行動に出なかったかもしれない、と思う。こじつけかもしれない。でも、巨人のジジイはわたしの怒りの対象の代表のひとりでしかないような気がした。

わたしはくみこさんと別れたあとゴールデン街に行き、HALOとミロククラブで好き勝手に今日のできごとを話して帰ってきたあと、マッチングアプリをスマホからアンインストールした。ホッとした。ゴミの日を逃し続けた末、腐ってしまった生ゴミをやっと捨てた気分だった。
でも、こんなこと、全然何の意味もないかもしれない。明日わたしはまたどこかの酒場で見知らぬ男に大きな声を出すかもしれない。どうしたらいいんだろう?分からないけど、その時はまた、友だちに会って自分の気持ちを話したり、こうして長ったらしい文章を書いたりするだろう。そうしていちいち自分を見つめるだろう。それも全然、意味がないかもしれないけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?