占いを信じる?信じない?

「占いを信じてないから。」「占いを信じるから。」
なぜだろう。占いを「信じるか・信じないか」という形で語られると何故かもやもやが心に少し沸き立つのは。

私が占い師だからだろうか。ただ私は占いを「信じる」とか「信じない」という視点であまり見たことがない。信じる・信じないという言葉が出ると(えっ!?)と内心思ってしまう。宗教じゃないんだけどな、とも思う。
同じ占い師の口からも「信じるなら」「信じないなら」という言葉が出るので、個人的な見方によるのだろう。

では私は占いをなんだと思っているんだろう。信じる・信じないという言葉を人が使うことに異議はまったくない。ただ私は信じる・信じないという形で占いを捉えていないだけだ。

私は占いをただ そこにあるもの と思っている。数学とか哲学を信じるとか信じないという言葉を使うだろうか。心理は?こういうからといって占いを学問として捉えているわけではない。

私は占いを学問とではなく、自然摂理的に発生して あるもの と捉えている。

いにしえに、人々は狩りをしたり農耕などを行い、そのそばで天候やら災難などを占い、災に備えた。それと同じ感覚である。もちろん、現代では占う内容は変わり、多義にわたり、国家的なことよりも個人の幸福に至ることを占うことが多くなっている。

けれど、占いはやはり 知恵 としてどのように活かせるか。そう考えると、信じるとか信じないという観念を超えたところにあるように思うのだ。

では、いわゆる占いを「信じない」人たちにとっては、知恵としての占いがどう位置するのか。

それは、私の中では
「占いの、その背後の法則は彼らにもちゃんと適用されている。けれどそれを意識的に使うかどうかの違いと、それを本能的、もしくは自分で考えた知恵で乗り切ることができる人たち」
私はそう定義づけている。だからそういう人たちには占いは必要ないのだ。

けれど、そんな彼らだって心が本当に弱ったときには、占いの門をたたくのである。実際にそれを見てきた。だから法則は常にある。

占いは見えない世界を扱うのであるし、だからこそ、べつに表立って目立たたなくても良いと思っている。ただ、見えない世界を意識するならば、それに触れるならば、その世界に対する畏敬の念は常に必要で、怠れば見えなくなるし、もしくは直接・間接的にお知らせされることもあるだろう。

そんな法則を学んで、そして実践の日々を送るこのごろである。


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