高齢期の意味。規格パーツから規格外へ

 社会は人間を性と年齢によって分類する。10歳代はこう考えている、しかし40歳代はそうは考えない。60歳代は全然別だ、というように、あらゆる行動や思考に年齢別の偏りがあると考える。
 たとえば、選挙のたびに年齢別の分析が行われる。若い世代は防衛力強化を支持しているが、高年齢層は反対が多い、というように年齢別のちがいばかりが際立つ。

 実際には年齢層のちがいだけが行動や思考に影響を与えているわけではない。住んでいる地域、収入や資産、家族構成、学歴、職業、宗教などで、行動や考え方にバイアスがかかる。

 そのなかで、つねに性と年齢ばかりが、思考や行動のかたよりの指標として用いられる。

 とりわけ、老人は社会にとってやっかいだ。社会福祉の膨大な予算は社会の重荷だ。口に出して言わないが、高齢者人口がもう少し少なければ、と考えている現役世代も多いのではないか。絶対に口に出しちゃいけないが……。
 少し前に、LGBTには生産性がない、といった政治家がいるが、この政治家が言う生産力は、子供を作る――人口を再生産する能力のことだろう。職業人として仕事をする能力においてLGBTの人々にはなんら欠けるところはない。
 生産力によって社会に貢献するちからが乏しいのはむしろ老人である。子供を作れない。お金を稼ぐ力にも乏しい。医療費や老齢年金をばりばり食いつぶして、経済社会の重荷となっている。そう言う見方をする人も多い。だからLGBTについて「生産性がない」といったあの政治家は(ほんとに政治家?)、こう指摘すべきだった。
「老人には生産性がない!」

 老人は動員できない、ということが問題となる。
 社会は、社会活動に動員できる人間によって維持されている。政治は国家を「生産に動員できる人間という資源」のかたまり、と考えているらしい。職業、子作りや子育て、軍隊、公務員、企業など、さまざまな「生産機能」にどれだけの人間を動員できるかによって国力が決まる、と考えている。
 その動員可能性の基準が年齢、ということになる。

 むかしは、高齢者も動員されていた。
 たとえば、地域で消防団というものが結成される。消防団には地域の人々の多くが「動員」される。老人もまた消防団員のOBであり長老でもある。消防の現場では活動しないが、経験値を伝授したり、活動に必要な寄付を集めたり、炊き出しや交通整理や用品用具の整備など後方支援を補助することができた。
 こういう全員参加型の社会のかたちがだんだんと崩れてきたのは、効率重視という考えからによる。人間も社会のエンジニアリングのためのパーツでしかない。パーツであるかぎり標準化した方がよい。組織の管理者は、できればおなじ規格のパーツを使いたい。1分に60個のボルト締めができる人間パーツでそろえると、ラインはいっていのスピードで稼働する。一分に60個分の処理をするラインが順調に稼働する。プロジェクトのマネジメントがうまく行く。べつにモノの生産にかぎらない。ソフトウェアの生産だってプロジェクト管理という考え方が染みわたっている。意識しようとするまいと、会社勤めしていればだれでも、プロジェクト管理シートの横軸の一行でしかない。
「あいつは計算できる」というのがプロジェクト管理者の言い草だ。
「あいつは計算できない」と評価されると、ラインから外される。

 高齢者は計算できない規格外パーツなのだ。
 年齢別分類も、計算できるかできないか、という動員管理者の立場から見ると理解できる。かりに軍隊を組織するとすれば、年齢が上がれば上がるほど、計算できない存在になってくる。
 最近和話題になることが多いロシアの徴兵制。最近まで18歳から27歳が徴兵年齢だった。人間は歳をとるほど余計なことを覚えて従順さを失う。軍隊のような世界では30歳を越えた新兵は扱いにくい。たぶん、直接指揮に当たる将校や下士官も年上は扱いにくいと感じるのかも知れない。32歳の課長のチームに経験豊富な45歳の転職者を受け容れるのとおなじかも知れない。
 65歳の新入隊員となると、これはもう、いやはや、なんとも、どうしろと言うんだ…などということになる。

 労働が規格労働になった。クリエイティブに好きにやってください、などというが
「数字だけは上げてね」ということになる。

 高齢者は規格外パーツなのだ。
『ポツンと一軒家』というテレビ朝日の番組を見ていると、80歳代のおばあちゃんがひとりで畑をたがやして野菜類を自給自足している。お米はつらいのでやめたという。野菜の栽培は規格外の労働でじゅうぶんに収穫できる。やらねばならない作業は多いが、いつやレ、どれだけやれ、とうしろから指示されることはない。お米は別である。種籾から脱穀まで作業手順が染みついている。規格外労働者である80歳のおばあちゃんにはついて行けない。自分自身がお米の生産者として計算できない。
 けれど作業が規格外に楽しんでやればいい、ということになれば足腰が立つかぎり80でも90でも取り組める。
 この人たちを、社会の重荷などと考える政治家は、まさかいないだろう。社会の重荷なら永田町あたりにいくらでも見つかりそうだ。

 画家は規格外の活動に従事する代表的な仕事である。一定の手順で作品を生産して高値で売りさばく、という絵画生産事業に取り組んでいる人もいるが、それは別の話。芸術性を追求するのであれば、絵画史のなかでただ一点のオリジナルと追究することになる。つまり一点ごとに規格を外れなければならない。そういう仕事をしている画家は高齢になっても画業をつづけている人が多い。梅原龍三郎(97歳没)や林武(80歳没)、片岡珠子(103歳没)、小倉遊亀(105歳没)といった画家たちはみな晩年まで画筆を執り続け、展覧会に出展しつづけた。

 べつに有名な画家を目標にする必要はない。しかし規格外でいることを恥じる必要もない。規格外の活動を楽しんでいる人口をどれだけ抱えているか、は社会の豊かさをあらわす重要な指標だ。
2023/01/26

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 次回は、別の角度から考えてみたい。ロラン・バルトは愛するのに年齢は関係ない、と言った。その通りにみずから実践した。惜しむらくは64歳という高齢期の入り口で事故死した。このときバルトはおしゃれをして恋人に会いに行く途中だったという。そのバルトのエッセイをヒントに考えてみたい。


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