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ぼくは速い

 俳句と自由律俳句が好きで、句会に参加したり、自分で時々つくったりする。自分が気になる俳人の中で、千野帽子さんという人がいる。この人の書いている「俳句いきなり入門」という本があり、これが純粋な感覚で「俳句をやりたい」と言われた時にタイトル通り最初に友人におすすめするかどうか一度躊躇うほどにパンクな内容であり、ぼくはそこがたまらなく大好きなのである。この本の中で論じられていることの1つに、特に大好きな内容がある。「東京マッハ」という千野さんの主催している公開句会の名前にも反映されているのだが、それは「俳句は速い」という論。最初この本を読んだ時には「なるほど、速いねぇ。俳句に対してそんな捉え方もあるんだ。面白いなぁ。」くらいにしか思っていなかった。千野さんの本を読んでから1年ほど経ち、ぼく自身が身を持って「俳句は速い」と今は実感としてそう感じ初めていることに気付いた。そして、そうか、だからぼくは俳句のことを好きになったのか、と後から腑に落ちたということが最近あった。

 まず前提の話なのだけど、僕は速い。そういうことを最近ふと自覚した。例えば文章を書くのも、すごく"速い"と思う。速いというのは、質とか量とかが論点なのではなく、瞬発力のような筋力の使い方のことであると思う。自分の言葉であるようで、全く自分の言葉でないものを繰り出し続けているような感覚がある。書きたい言葉がどんどんと溢れてくる。その時、その場所、その雰囲気、誰かにふと言われた一言、みたいな自分の外にあるものの力を借りて、ぼくは文章を書いているなと思う。
 
 そう、まさに一発芸のモノボケのようだなぁと思う。千野さんの本の中でも「俳句はモノボケ」ということに触れられているが、ぼくにとって俳句だけではなく、文章を書くこともモノボケに近いなと感じる。構成がしっかりした重厚なコントではない。その場で出会った一度限りのモノとの、瞬発的な関係性によって引き出されてしまうような、そういう「速い」行為だなと感じている。

 今ぼくは木工にハマっていて、木の道具をつくっている。ぼくの作り方のスタイルは、よく言えば「一点物」であり、わるく言えば「同じものをつくれない」という風な形である。「一点物にこだわっています。」と堂々とした風格で言い放てればカッコいいのだけど、実際のところはそうとも言えず、単に自分の興味が維持できないから同じものをつくろうとすると退屈して嫌になってしまうだけなのだ。あぁ、なんと情けない…。

 それでも最近は良い言い方をすればの「一点物」スタイルの自分を許してあげれるようになりつつある。その時その瞬間の興味を形にすることができるようになってきた。毎回形は違うし、何なら彫り始めていたら最初に想像していたものとどんどん離れて、最終的に全然違う仕上がりになってしまうことばかり。どれだけ時間をかけても1〜3時間ほどで1つを作り終える。丁寧に彫り続けたりしない。次の日に持ち越さない。手の動きや、素材に身を任せてしまえると、自分でつくったのに自分でも本当に意外で面白いと感じるようなものが出来てしまうのだ。自分の手でつくったはずの目の前のものに、自分が驚いている。監視カメラが付いていて、そこから自分を見たらとても滑稽で笑ってしまいそうだ。ぼくは自分の意志によってつくりたいものをつくっているわけではなく、素材によってつくらされていると感じながら手を動かしている。別にそんなやり方でもよかった、ということに最近やっと気付けてきた。

 どうやらぼくの作り方は、重厚に緻密に時間をかけていくやり方ではなく、即興的につくる方法が体と頭に合っているようだ。その方が自然にできてしまうのだ。そんなふうにつくることは全く苦でなくできる。そんな自分のスタイルへの気付きもあり、これは「速い」ということなのでは?と繋がり、前述した千野さんの本を思い出したのであった。

 このことに気付いてから、随分と気持ちが楽になったなと思う。肩に載せていた荷がどさっと降りたというか、こんなつくり方をしてもいいんだ!と解放された気持ちになった。丁寧に緻密にじっくりつくっていくことがカッコいいと思い込んでいた。憧れていた。でも、自分のつくり方は、多分その真逆だ。そして、「速い」自分のやり方によってつくったもの、書いた文章をいいねと言ってくれる人が意外といたりする。そうか、これでよかったんだ。そう感じれたときに、すごくすごく楽しくて、嬉しくて、安心するような気持ちになる。

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