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文章を書くことの効能

 朝起きたら文章を書くという習慣を途切れつつも続けている。全然やっていない時期もあったりするのだけど、大学生くらいの頃から断続的に書いている。テーマも何も定めない。書くことを決めずに、鉛筆を握って紙にとにかく触れてみる。その瞬間に感じていることを、できるだけそのままに近い形になるように言葉に即時変換しながら、何も考えずに書き続ける。スラスラと書きたいことが浮かんでくる日もあれば、「暑い」と「何を書けばいいのか分からない」の繰り返しだけ書いているような日もある。それでもいい。とにかく書くのだ。物量が大事なので、何か満足感が得られるまでとにかく書く。これを朝にやっておくだけで、その日の集中力が格段に上がるような気がしている。モヤモヤと悩んでしまっているようなことや、考えなくちゃと思っていたようなことを、全部出し切ってあげる。答えを出すために考えていないような、ただ悩んでいるということは、とにかく外に出してあげるとそれだけでちょっと落ち着いてくれたりする。この朝に文章(と呼べないような言葉の羅列)を書く行為は、思考の排水のようなことをしている感覚に近い。

 思えばこれまで、文章を書き続けてきたのかもしれない。大学一年生の頃にはブログに熱中していた。ちょっと意識が高まっていた頃なので恥ずかしいのだけど「自分の活動によって稼げているぞ」みたいなことがしたかった。やっていることは単なるアフィリエイトなのだけども。そのときには自分が何をつくりたいのか、よく分かっていなかったから、仕方がない。自分の若さを許してあげることはいつもこそばゆい。

 ソフトウェアエンジニアをやっていた頃には、はてなブログでいわゆる技術ブログというものをやっていた。その頃に新しく出てきた技術や、自分が開発をしている中で遭遇した技術的問題とその解決策などについて書いていた。1年に150記事ほど更新していた年もあって、少ない月でも1万PVくらいはあった。そのブログがきっかけで自分のことを知ってくれるエンジニアの人も多くて、見てもらえている実感があると嬉しくなった。 

  そして今は、こうしてnoteを書いている。自分のことを文章を書く人だとは一度も思ったことはないが、人生の中にそれはもう多種多様な「続けられなかった」ことがある中で、文章を書くことが続いているのは何だか不思議な感じがする。

  そんなnoteも、一週間くらい前から書き方を変えてみた。以前は自分の言いたいことを端的に密度高く言葉にすることを意識していた。沢山の人に伝わることは全く意識していなくて、むしろ「伝わる人にだけ、超高出力で伝われ…!」という気持ちで書いていた。最近はその逆のような意識で書くようになった。頭に次々と思い浮かんでくることがあるので、それを流れるように書いていくスタイルに変えてみた。新しいスタイルで書き始めてまだ一週間ほどだけど、文章との付き合い方がすでにかなり変わってきていて、書くことの新しい効能を感じ始めている。

 感じていることが、思考していることからどんどんと離れていってしまうような感覚が昔からずっとしている。「これをやるぞ」と考えて決意していたことがあるのに、自分の興味は、全く違う方向に勝手に歩き出している。一度歩き始めると、止まらない。必死に止めようとしても、もう心は戻ってきてくれない。(恋愛の話みたいだな。)だからそんなときには、趣味も仕事も、一気に変えてあげなくちゃいけなくなる。大変だから変えたくもないのに。せっかく極めようと思って始めたのに…と悲しい気持ちになりながら、でも心が全然離れた場所に行ってしまっているので、もう手遅れになっている。離れていく自分の気持ちに、意志と努力の力で逆らい続けていると、段々と体が動かなくなって、そのうち鬱になってしまう。素直に従ってあげるのが一番なのだと気付けたのは、つい最近、ここ1年ほどのことだった。

 書くことは、離れていってしまった自分の感覚に追いついていってあげるような行為だなと感じる。今までの自分とは、何か違うことを感じているようだ。でも、それが何なのか分からない。そんなときに、書くことは自分を癒やしてくれる。「分かる」とは「分ける」ことだと思う。何かと何かの境界線を引いて分けることで、それが何なのかを初めて人間は認識できる。言葉にすることも、概念に境界線を引くことだと思う。フランス語では「蝶」と「蛾」を区別しないし、日本語では季節ごとに雨の呼び方がいくつもある。言葉にすることは「分ける」ことであり、「分かる」ことなんだと思う。ぼくは言葉にすることで、自分のこの何だかよく分からない新しく感じていることを、紐解いて、分かってあげようとしていたのかもしれないなと思う。

 書くことを続けていくことで、自分のつくるものにもそのまま返ってきてくれるような気がする。自分の心地いい方向を、もっと自分自身が分かってあげれるから。掘り進めている途中で形が変わっていくことにも、安心して手に任せて木を掘っていくことができる。やりたいことが変わっているような感じがしてきても、安心して新しいことに身を任せることができる。もっともっと、子供みたいに素直に生きていけるようになったら、どれだけ楽しいだろう。

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