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『割れたガラスを踏む』

 乗っていた船が大きく揺れた。ぼくは船の後部の甲板のデッキにいた。船は旅行客で賑わう大きな船だった。ぼくは普段仕事で毎日忙しくしていたため、息抜きにと夏の終わり頃に一週間ほど無理矢理休みをとり、クルージングの旅に来ていた。行き先はハワイだったが、この船での滞在の方がむしろ楽しみであったし、実際お金もかかっていた。

 船体が大きく揺れた時、ぼくは船の1番後部の甲板にいた。強い風と、風によって生まれた波によって、また大きく船が揺れた。はじめの頃はあまり気にしていなかったが、どうやらまずいかもしれないと思い始めたのは、デッキに置いてあった椅子がこちらに向かってひっくり返ってきたころからだった。そのデッキにはぼく以外に女性が1人いた。揺れはどんどん強くなり、立っているのも難しいほどになっていた。

 その女性と話をして、後部は危険と判断して、船体の前部に一緒に避難することにした。揺れは自分が思っていたよりも大きなものだったらしく、船の中の窓ガラスが割れている。ぼくたちは、床に散らばった窓ガラスを踏みつけながら、船体の前部に向かって走った。

 ぼくは途中で、デッキに携帯を忘れていたことに気付いた。どこに置いていたのかは定かではなかったが、後部デッキでくつろいでいたときに置きっぱなしにしてしまったことは確かだった。少し迷ったが、折り返して取りにいくことにした。女性とはそこで別れ、ぼくは逆を向いてまた走り始めた。再び、割れたガラスが散乱する床の上を、よろめきながら全力で走った。もしかしたら、たかだか携帯を取りに戻るこの行為によって、ぼくは命を落とすかもしれない。そうなったとしたら、とても滑稽だなと思った。どれだけその携帯は、自分にとって大切なものなのだろうか。自分の命に比べたら、大したものではないだろう。頭ではそう思えるのだか、携帯を失くしてしまうことへの不安の方が大きかった。ぼくは命の危機を感じながら、より命を危険にしていく方向に向かって走っていた。

 携帯は、デッキの椅子の飲み物を入れるポケットのような窪みに入っていた。想定していたよりもあっさりと見つかり、ぼくは安堵した。携帯をズボンのポケットに入れると、すぐに踵を返した。他にも忘れているものがあったかもしれないと思ったが、携帯さえあればとりあえず大丈夫だと思った。再び前部に向かう廊下を走る。バラバラに散乱したガラスを何度も踏みつけた。

 前部のデッキに着くと、避難してきた人が集まっていた。揺れも収まってきていたようだった。先ほど一緒に避難してきた女性の姿を見つけ、お互いに無事だったことを喜んだ。その女性としばらくお互いのことを話した。お互いの仕事のことや、なぜこの旅行に1人で来ることになったのかなどのことについて、ゆっくりと話をしていた。ぼくはふと彼女の手を握った。彼女はその手を握り返して、ぼくの目をみて微笑んだ。そうすることに、安心感のようなものを感じた。安堵感のようなこの特別な感覚を共有できる相手が、すぐ目の前にいることが嬉しかった。ぼくには恋人がいたので、そのことが頭をよぎった。罪悪感を感じた。自分のことが嫌になる。だがその瞬間の、その特別な安堵感のような感覚を目の前の女性ともっと深く共有したいと思い、手を握ったままにして、お互いの目を見ながらしばらく話をしていた。

 旅行から戻ってほどなくして、ぼくは恋人と別れることになった。相手から切り出されたのだった。船で女性と避難したことも、ましてや手を繋いだことも話してはいなかった。恋人は「私は、こんなに自分の気持ちを繊細に使い減らし続けて、さらにそれを長期間保ち続けれるようなタイプではない。」という言葉に続けて「だからこれ以上関係を続けることは難しい。」と、苦しそうな表情でぼくに言った。ぼくはそれに関して反論をするわけでもなく、その恋人と別れることになったのだった。

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