「憧れ」はいつも反対側の一番遠いところにあって、ずっと追いつけない
人間に「理論タイプ」「直感タイプ」みたいなとてもざっくりとした分類があるとするならば、思えば自分のことはずっと「理論タイプ」だと信じて疑ってこなかったように思います。
全くもって読書少年みたいなところはなかったし。
父親がプログラマなので自分もプログラムやものづくりみたいなものが好きだったし。
無垢な青年の自分は何も疑わずに「それって理系でしょ。理系ってことは理論派ってことだよね」と当然のように思ってました。
でももし今週末に例えば公民館で開催されているようなレクリエーションに参加しなきゃいけなくなったとして、「理論タイプだと思う人は左側の赤い四角の中に、直感タイプだと思う人は右の青い四角の中に移動して下さ〜い!」っていう分類をしなければならないゲームに参加したとしたら、今は迷わず右の青い四角に入っていくと思う。
元々は理系で物理が大好きであったし、大学でもコンピュータサイエンスを勉強していたもんだからそう思い込んでいたけど、大人になるにつれ段々と自分が直感タイプであるということを受け入れれるようになりつつあることに気付いてきました。
本当は受け入れたくなかったと思うんだけど、不思議と大人になるほどに「気質だからしょうがないかね〜、どうしようもないよ〜」っていう気持ちになってくるんですね。
ちょっと諦めているというか。
あぁ、そうか、こういうのが「大人になる」ということなのかもしれない。それなら何となくいいかも、大人になるというのも。
困ったことに「憧れ」っていつも、自分がもともと持っている本来の性質(才能とも言う)とは一番反対の遠いところにできちゃうんですよね。
なんでそんな風に人間の「憧れ」という感覚をつくってしまったんですか、神様よ。と言ってやりたい気分。
「おかげでこっちはずっと大変な思いをしてきたの知ってますか。理想と現実のギャップに苦しみ続けてるんですよ!せめて知って。いや知るだけでいいから!こういうのは大抵知ってもらうだけでちょっと楽になるの」と、まくしたてたい気分。
...でも振り返ってみればこの「憧れ」のおかげで好きなものや好きな人も沢山できたように思います。まあそこは多少感謝?っていうかさ。うん。ありがとう。
「憧れ」ってもしかしたら、1人では生きられない人間が「憧れる」ことで自分が持つことが出来なかった何かを手に入れて生き延びようとする本能なのかも。
だから「憧れ」はいつも自分の反対側の一番遠いところにあって、ずっとずっと追いつけない。
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