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絵とデザイン

 ここのところ、絵を書くことが僕の活動の中心に据えられつつあるように感じている。

 実際に一日のうちの、絵を描く時間の割合が増えてきている。そして何よりも、それが今一番、僕の精神を癒やしてくれる行為になってくれている。

 だが実際には絵だけで食べているというわけではなく、収入の中心は今もデザインの仕事になっている。

 僕のデザインの仕事では、ロゴをつくることが多い。

 ロゴをつくることは、世界の最小の設計図をつくることに近い、と思う。ロゴができたら、色が決まる。フォントが決まる。そこにこれから広がっていく空気が決まる。

 そんなふうに自身にとっての心地よい場所に引っ張って連れていってくれるような、心の地図みたいなロゴが好きだ。

 そして誰かが「ロゴをつくりたい」なんて言い始めるとき、その人にとってはそのとき人生においてすごく大切なタイミングを迎えていたりする。

なぜならそれが大抵は、何かを新しく始めようとしていたり、今までやってきたことを大きく変えようとしているときだったりするからだ。

 だから自ずとロゴをつくるときには、その人の感覚にずっぷりと浸かることになる。その人の真ん中にあるやわい部分に触れていくことになる。

 毎度、疲れる。何でここまでやってるんだろうか、と思う。そのくらいに、誰かの感覚に浸かり切ることには、精神力のようなパワーを使うことを伴うのだ。

 だけど、やっぱりそれなしにはつくれないのだなと思う。簡単にぱぱっと描いてみたところで、それは心のない作業でしかなくなってしまう。技術を使って、時間(ほとんど人生そのものだ!)を切り売りしているような感覚になってしまう。

 そうじゃなくて、僕は僕の才能を最大限に活かしてあげたい。自身の才能が活かされているとき、それは同時に、その人に触れた他者の才能も開かせることになっているんだと思う。

 ロゴをつくり、そして手渡すというその行為の全体を通して、僕は僕自身の才能をめいいっぱい開き、そして相手の才能を少しでも開かせたいと願いながらロゴをつくっている。デザインをしている。

 そんなふうにして、誰かの個性や才能に触れると、なぜだかものすごく元気が出てくる。その人の素晴らしい唯一無二の感覚に触れられたとき、喜びに満ちてくる。その人自身への愛と、そして世界への愛に溢れてくる。

 そんな感覚にもっともっと触れたくて、僕はデザインをしていたんだなと思うことがある。

 村上春樹のインタビュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』の中に、こんな節がある。

 "小説を書いていない時期に、自分がどれだけのものを小説的に、自分の体内に詰め込んでいけるかということが、結果的にすごく大きな意味を持ってきますよね。(中略)それで書かないときに何をしているかというと、エッセーを書いたりすることもありますけど、ほとんどは翻訳ですね。翻訳をしながら、人の書いた文章に身を沈めながら、「自前の小説を書きたい」という気持ちになってくるのを待っているんです。(中略)そういうふうに待ち時間をたっぷりととって、闇がしっかりと満遍なく身体にしみこんだところで、初めて姿を現してくるんですよね。"

村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(P.317)


 僕にとってのデザインも、こんな具合いの行為なのかもしれないと感じる。

 僕ではない他者の感覚にどっぷりと浸かり込んでいく。それは僕の身体から現れてくる絵や制作活動の起動を待っているのかもしれない。そんなふうにデザインに没入できたら、楽しいだろうな。

 だけど時々、誰かの感覚に身を沈めていることに疲れてくることがある。

 そんなとき、もしかしたらそれは、今度は僕自身の身体の中に静かに耳を澄ませる番が来ているという合図なのかもしれない。

 それが自分の感覚を置き去りにしてしまっているというある種の警告のようなものだと思うと、疲れてくるということ自体も、身体の合図という形をとった世界からの贈り物だなと感じてくる。

***

 そして最近になって、また変化が起こり始めた。

 絵とデザインが混ざっていくような仕事がぽつぽつと増えてきたのだった。

 例えば、友人の本の表紙の絵を描かせてもらったり、かなり自由な制約の中でポスターをつくるというような仕事を続けざまに相談をもらうようになった。

 単純に、絵は僕のことであり、デザインは他者のことである。という一見綺麗に見える切り分け方も、何だか上手くできなくなってきてしまった。

 それは、そういった世界の感じ方が僕にとって、もう古くなり始めているという前兆なのかもしれない。

 そんな絵とデザインの行為としての違いに似たような違和感が、僕の人生を通してずっと亀裂として横たわり続けているような感覚がある。

 それは、誰かのためであるのか、自分のためであるのか、というこれまでもずっと付き合ってきた、僕自身の心の深くに抱え続けている矛盾。

 この亀裂の間にある、すごくグレーで曖昧な場所に向かって、僕はこれからも絵とデザインを続けていくのだろうと思う。

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