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「君が文章を公開するのはちょっと意外だなって感じることがある。」という話をしてくれた

 ぼくの文章を読んでくれた友人が「君が文章を公開するのはちょっと意外だなって感じることがある。」という話をしてくれた。確かにすごく個人的な話ばかり書いているなと自分でも感じる。では、自分の中でだけ、誰にも見せない秘密の日記に文章を書いても、ある程度満足してくれますかね、と自分にきいてみる。…答えは、そうとも言えるし、そうとも言えない、という何とも曖昧なものだった。ある部分ではすごく満足しそうだし、ある部分ではそれじゃあ意味がないよ、と言ってる感じ。こういう文章では、読者の気持ちよさに寄り添えば、YESとNOを言い切った方が気持ちよくていいんだろうけど、本当にそういう感じがするのだから、しょうがない。多分ぼくはずっとポップスターにはなれない、隙間産業の人間だから。ふん。

 何でこういうふうに思うんだろう、ってもう少し考えてみたら、ぼくは自分のためであると同時に、誰かのためにも文章を書いている、と思った。そのどちらのためでもないし、そのどちらのためである。利己と利他のねっこは一緒になる。よく「それは偽善だ」とか、自分のやっていることを「誰かのためにやってるんです」または「自分のためだけにやってるから」と表現することがあると思うけど、最後の最後には、自分のためであることと、誰かのためであることは分離できるものではなく、全く同じことになるんじゃないかなと思う。自分へ限りのない愛をあげることは、誰かに限りのない愛をあげることになっていると思う。文章を書くことは究極的に利己的な行為でもあるし、究極的に利他的で博愛的な行為でもあると感じている。自分のことを理解して許してあげていくと同時に、誰かのことを理解して許してあげている、という感じがしながら文章を書いている。

 人には、悲しんでいることの裏側に、その人の才能があると思っている。何かに悲しむことができるということは、紛れもなくその人の才能の裏返しなのだ。その悲しみのねっこは、ひとりずつ少しずつ違っていて、その上で結構他の人と似ている部分も多かったりするから、人間は美しいなと思う。そのねっこにおりていったときにある悲しみであれば、他の人にも同じような悲しみが起こったときに、自分のことのように悲しくなれる。才能とは、自分も含めた誰かのその悲しみを取り除いていくことができる力のことだと思っている。自分がその悲しみを感じることが出来るから、他の人に起こった悲しみのことが分かる。それをしていくことは、その人にとって根本的な意味での人生のテーマのようなものなんだと思う。枝葉で起こった色々な出来事は、ねっこではひとつの悲しみに結びついている。

 だからぼくは文章を書くのだと思う。ぼくがぼくの悲しみに、もっと触れたい。何が悲しかったのか、忘れていたことをもっと知りたい。思い出したい。それはぼくに似ている人の、誰かの悲しみに触れることにもなる。文章を書くことを通して、ぼくの悲しみを通して、誰かの悲しみにも触れている。今は文章を書くことが気持ちいい。そういうことができる自分にとってのすごく相性のいい道具だと感じる。そんな気がしながら、文章を書いている。


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