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何をつくっているのか知りたくて何かをつくっている

 最近、絵を描くことが自分とつながり始めているような感触があった。ある日にある一枚の絵を描き終えて数時間経ったあと、急にそのことをじわっと感じた。絵を描いているときに初めて感じる感触だった。

 絵を描くとはどういうことなのだろう。自分にとって、物語を書くことと、絵を描くことは、何となく僕の身体の構造内において綿密につながっているような気がしている。

 これまでも絵やグラフィックの制作は、何かの興味のきっかけと出会う度に、細々と続けてきていた。人物や建築の構成的な写真と幾何学的をぶつけてみることが気になったり、色彩の関連性の実験に興味を持ったり、パステルという画材に興味を持って、捌いた魚を描いてみたり。

 だけど今回は、これまでには感じていなかった「自分自身を救ってくれる」という感覚があった。そういうものが仕上がったときには、頑張ってやり切ったことへの達成感ではなく、自分の内側に存在している何かがじんわりと変容したという、安心感のようなものを感じることが多い。

 そういうことが起こるのは、予め「こういうものをつくろう」という構想や予定のようなものがなかったときだったのかもしれない、と思った。最初にコンセプトやテーマを決めて、それに沿ってつくっていると、段々と作業のような動きになってくる。そうなってくると、すぐに飽きてしまうのだった。つくっているときの発見や驚きというような感動がなくなってしまうのだ。

 これまで描いてきた絵やグラフィックでは、そういう方向の力が今よりも随分と強かったように思う。先にきっちりコンセプトを立ててつくり始めたり、途中でテーマを設定してしまう。そういう”ちゃんとした”考え方や構想のようなものが据えられているべきだと思い込んでいたのかもしれない。そういうものに予め支えてもらっておかないと、とても不安だったのだと思う。

 だから、自分自身が自由につくれなくなっていく制約を、自ら設けてしまっていた。最初はその制約に沿ってつくっていても、しばらくするとどうしても自分の好奇心だけが勝手にどんどんと先に進んでいってしまって、あるときについに我慢ができなくなる。逸脱してしまい、最初に決めた制約を自分自身で破ってしまう。そして勝手に、そのことに罪悪感を覚えたりする。

 僕にとっては、つくること自体が目的なのだ。今、自分が何をつくろうとしているのかを知るために、つくっている。阿呆らしいと思うかも知れないけど、つくっているその瞬間には、自分が何をつくろうとしているのか、自分自身が一番分かっていないのだ。そしてそれは大抵、つくり終えた後にしか分からない。

 でもだからこそ、つくっているものを、いつも自分が一番楽しみにしている。どんなものができちゃうのか、わくわくしている。そういうときには、その過程において、自分がじんわりと内側から救われている。だから僕はつくり続けられているのだと思う。

 ここ最近での活動でこの”安心感”を覚えている感覚が一番強いのは物語を書くことだった。物語を書き終えた後には毎回、安堵して、安心するような感情になる。それは、僕自身の内面の奥の方に触れた、と感じるということだった。

 特にひとつ目の長編の後半を描いていたときには、第一稿を書き終えた直後に、二日に一日は自然と涙が出てくるということがあった。そのときにはなぜ自分が泣いているのかもよく分からなくて、でもそれが悪いものではないということだけが分かるというような感覚だった。そういうことが起こったときに書いた文章は間違いなくいいものであり、少なくとも自分にとってとても大切な断片が生まれたということだけが分かるのだった。

 絵がこの、物語を書いているような感覚に近付いている、と思った。それは、自分にとってごく個人的な意味においてとても重要なものをつくることに近付いているということでもある。

 絵には文章にはない魅力があって、そして文章には絵にはない魅力がある。最近だと音楽もそうだった。ぼくはこれらのつくるという行為そのものによって、とても救われている。今の瞬間を生きていくことができている。自分を一番に救ってあげることのできる力を育てることができて初めて、それが誰かの救いにもなるのだと思う。

 そういう”自分のしごと”をすることに、もっともっと真剣になってみよう、と思った。それは、自分にしかできないしごとのことであり、すなわち自分の命だけができる(自身も含めた)世界全体に対する貢献のこと。命を使い尽くしてあげるということ。

 これからもそのための媒体は、揺らぎながら少しずつ変化していくことになると思う。今は物語を書くことが多くて、その次に絵を描いている時間が長いけど、音楽をまた沢山つくりたくなる時期があったり、もしかしたら今度は写真を撮っているのかもしれない。でもそれは別に、どんなことだっていい。今、この瞬間に自分にとって大切なしごとができているということが、自分の命に応えるということだから。むしろ続けていくほどに、媒体の境界線はどんどんと溶けていってしまうのかもしれない。

 そして、自分の命への応答としてのつくる活動は、とても自然に続いていく。それをつくることそのものが自分にとって重要な活動なのだから、続いていくのが当たり前なのだと思う。そういうことを探る旅を続けていくこと。それがつくり続けるということなのかもしれない。

 これまでぼくは”自分のしごと”ではないことに、あまりにも時間を、命を使いすぎてしまっていたなと思う。どんな方法を使ってでも、どんなやり方を以てでも、もっと命に応えてみよう。それはとても怖くて不安なことなんだけど、きっと一番体の力が抜けていて、とても気持ちのいいことなんだろうなと思う。

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