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受け取ることと、与えること。

 もう殆ど、お金がなくなってしまった。積み立てている緊急用のお金はまだ残ってはいるが、それにまで手を付けるわけにはいかない。本当の本当の緊急用なのだ。緊急という言葉の意味は、自分の意思を越えた範囲にまできたときに、ということだ。

 固定で受けていたデザインの仕事を辞めて五ヶ月間ほど経ち、この期間は知人の数件のアイデンティティデザインの仕事を除けば、驚くほどに働いていなかった。よって収入も殆どないに等しい。その間、この2年間ほどで貯蓄したお金で暮らしていた。しかも、住む場所、生活は前と変わらない。別に贅沢に暮らしているわけではないのだけど、質素に節制している生活というわけでもない。そりゃあ、お金もどんどんとなくなっていく。

 仕事を辞めてしばらくは、小説を書くこと、絵を書くこと、音楽をつくることに熱中していた。この期間につくったものに何よりも自分自身が救われて、そして僕のつくったものに感想をくれた人たちがいたことに感動したりと、内面が変容し続けた四、五ヶ月間だったように感じている。これほどまでに自分自身の内側に変化を与え続けてくれるような、そういうものづくりを今までしたことがなかったと思えるくらいに、つくった物語や絵は、僕の心の深くに根を下ろしていった。

 そんな制作活動に没頭している期間の中、1月半ばくらいから、少しずつ鬱屈とした気分を抱えるようになってきた。最初はそれが何なのか、分からなかった。お金に関する不安かもしれない。はたまた懸命に仕事をしていた頃のような幅広い人間関係を失ったからかもしれない。その鬱屈とした感覚に向き合いつつ、その正体が中々うまく掴めないままに、それでも制作活動に没頭していった。

 いつの間にか、物語を書くことに対して、ある種の緊張を感じていることに気付いた。肩がこわばっている。「書かなければ」という意識が心の底に横たわっており、そいつが僕の体を動かそうと耳元でゆっくりと脅している。

 そのことに気付いてから、2月中旬頃から本当に何かを書きたくなったとき以外に、物語を書くのを辞めるようにしてみた。半年ほど物語を書くことを殆ど休みなく行ってきた僕にとって、これは大きな変化であり、その分不安になることでもあった。

 最初の頃は、そんな状態の自分に嫌悪感を覚えた。お金を稼ぐための仕事もしていない。なのに制作活動も進めていない。そんな自分に何の価値があるんだ。そんなふうにして、僕の中に危機意識を植えようとしてくる。その危機意識は、僕の生命活動を守ろうとしているシグナルのようなものだ。価値を発揮していないと、生き残れないぞ。お前は死んでしまうぞ。価値が無くなってしまうぞ、と。

 丁度その頃に岡山に一週間ほど滞在をした。しばらくその嫌悪感を無視して、味わってみることにした。生きているだけで、何が悪いんだ。生きていることを肯定することを、何が阻もうとしているのか。それまで習慣になっていた、物語を書くこと、絵を描くこと、文章を書くこと。その全てを極力に辞めてみた。そうして、堕落していった。

 そうしたら自分は、YoutubeとNetflixを見続けていた。動画を見ている間、何も考えていない。今が何時なのかも分からなくなるくらいに、生活は規則性を失った。長時間に渡って液晶画面を直視し続けているからか、それとも睡眠時間が異常に長くなっているからか、常に頭が痛い。

 頭痛がひどくなったら、今度は小説を読んだ。別に能動的な気持ちで本を読もうと思っているわけではない。それくらいしか、退屈という苦痛から逃れる術がなかった。お気に入りの芸人のYoutubeの動画は全て見尽くしてしまったし、Netflixではいくつものシリーズを一気見してしまってもう新しい作品を見始めるのさえ億劫になっているし、文庫本は一日一冊のペースで過ぎ去ってしまう。

 それくらいにやることがなかった。他に何もしていなかった。それ以外にやることと言えば、飢餓状態ギリギリになったときに食べる一日一食のご飯と、トイレに行くことくらいだ。

 そうやって一週間、一人で鬱屈としながら過ごした。驚いたことに、そんなニートのような生活は、僕にとって全く楽しいわけではなかった。そのことに今でも驚く。実家だったので、きっとそのまま生活できてしまうだろう。勿論親が元気なうちはということだが、それでも当分の間はご飯にも困らないだろう。ダラダラと好きなことだけやって、何の責任も果たさなくてもいい。そんな理想的な生活。それが、何でそんなにも楽しくなかったのだろう。あれほどに苦痛を感じていたのだろう。

 人は生きているだけで、とてつもない量のものを受け取って生きている。僕が野菜を受け取るために、スーパーという流通の仕組みを日々動かしている人がいる。野菜を育てている人がいる。そして、野菜そのものの命から、たくさんの栄養を受け取っている。

 僕はすでに世界からたくさんのものを受け取っていた。生きているだけで、様々なものを与えられているのだった。そのことに気付いていくことは、僕自身の命を愛し、自然の全ての命に感謝させてくれることだった。僕は生きているだけでよかった。

 そして、与えたい。僕の命が、他の命を応援することを求めている。与えるという行為において大切なことは、自分の命を信頼することから始まるのかもしれない。自分のことを愛する力を使って、他の命を応援する。自分を愛することなしに誰かに愛を与えることは、天秤の中で取引の関係をつくることに終始する。与えたことが、返ってくる(または返ってこない)という前提に立ってしまう。

 与えるとは、自分の命を表現することなんだと思う。そしてそれは、命を応援するということと同義であることに気付く。そこに自分の命であることと、他の命であることの境界はない。これまで僕は、取引の関係を築くことばかりしてきた。相手にとって価値あるものを提供することに必死だった。相手にもらう報酬の、その分に見合った仕事をすることに一生懸命だった。

 だけど、もっともっと、自分の命を救うことそのものが、誰かの命を応援することになりうるのだと思う。僕を救うことが、そのまま誰かの命を救うことになる。そういうことが起こり得るんだと思う。自分を救うことと、誰かの命を応援すること。このどちらが欠けたとしても、命はバランスを失ってしまうのかもしれない。

 これまでの僕は、誰かのために命を使ってきた。そうやって仕事をしてきた。そして、会社の経営規模を大きくすることを諦めてからのこの二年間と、そして仕事さえ辞めてみたこの五ヶ月間、自分の命を救うためだけにものをつくってきた。それを他の人に与えられる形に変換するということについて考えてもいなかった。

 今度は、誰かの命を応援することができるようになるのかもしれない。自分の命を深く救う力を使って、誰かの命も深く救えるようになるのかもしれない。

 お金になることは、案外と誰かに見出してもらったことから始まるのかもしれない。今は、意思による意識の変容、ということに興味がある。物語も、絵も、音楽も、アイデンティティデザインも。僕の持っている興味や活動の根もとは、意思による意識の変容みたいなことに結びついていたのかもしれない。

 そんな仕事ができたらいいな。見つかるだろうか。分からない。でもそれを探っていくことの過程そのものが、人生の喜びなのだと思う。今は、段々とそのことに近付いていくこと自体を喜びたいという気持ちになっている。

 仕事を始めてみよう。生計を立てるための仕事だってやってみよう。その仕事の中から、もっともっと自分だけが持っている才能を使って、誰かの命を応援することになるような活動に変容させていく。その移り変わる過程を楽しむことが、今なら改めてできるような気がする。

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