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セックスにおける「与える側になることの安心感」について考えてみる

 何だか自分のするセックスがこれから変わっていきそうな感覚がある。ということについて、書いてみる。

 昨日、ジブリの「君たちはどう生きるか」を見た。

 ネタバレしたくないので内容には言及しないが、とにかく自分の無意識の栓をこじ開けられるような、そんな作品だった。

 昨日の夜はうまく眠れなくて、ずっと変な夢を見ているような気分だった。寝起きはちょっと悪い。もう朝の九時なのに、目がいつもの八割くらいの大きさでしか開いていないような気がする。

 じゃあ、無意識の栓が抜けてしまうと、どうなってしまうのか。
 それは僕の場合、自分が平常時に意識的に思考しているようなこととは全く関係のないような、とりとめもないイメージが頭にどかどかと湧いてくるようになってしまうのだ。

 それは、天国を見ているような感覚だったり、はたまた地獄を見ているような感覚だったり、澄み渡った大きな湖の水の中に浮かびながら気持ちいい〜って言ってたと思ったらそのまま身体が沈み始めて息が苦しくなってくるとか、まぁなんだろう、とにかく荒唐無稽(に思えるよう)な、象徴みたいな何かたちが、次々と頭の中を埋め尽くしていくような状態になるのである。

 それはあたかも、夢を見ているときのようだなと思う。

 そんな無意識のイメージの横溢の中の、あるひとつのことが気になった。

 それはセックスに関わることだった。

 僕はセックスの夢をよく見る。そして何だかいつも同じような苦い感覚になる結末を迎えているような気がする。その苦さが何なのか、ずっと分からなくて、何だかずっと気になっている。

 セックスではないが、性的な感覚に基づいた夢のイメージを元にした短編小説を一度書いた。『腕枕』という作品だった。

 それは、僕のことを気にしている女性に、腕枕をしてあげるという内容だった。だが、僕はこの女性のことが好きではない。むしろ見ていると、イライラしてくるような感覚さえあるくらいだ。

 でも僕は、彼女に優しくする。優しくなろうとする。そして彼女を受け入れる。彼女が僕に近付きたがっているなら、それを拒まない。腕枕をしてほしそうな雰囲気を受け取ったら、してあげてもいいよという姿勢を見せる。
 
 僕は腕枕をしてる間、女性の方を殆ど見ていないし、注目もしていない。何の気なしに、本を読んでいて、本の内容に夢中になっているフリをしている。
 
 それが『腕枕』のざっくりとした内容だった。

 そして僕の夢にも現れているこの性質によって、セックスの快楽を自ら制限してしまっているのではないか?と感じたのが、今朝の無意識の栓の決壊のひとつの成果(?)であったのだった。

***

 僕が女性とセックスするとき、これまで受け側になることは殆どなかったような気がしている。

 それは言い換えれば、基本的にこちらが相手に与える側になろうとしているということだ。これまでのセックスでは、相手のことを気持ちよくさせる側の役割しか殆ど経験したことがなかった。

 じゃあ、なぜそうしてきたんだろう?

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