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「読んでいたら、筆者が消えた。」

 友人が家に遊びに来てくれた。どら焼きを持ってきてくれた。家に来てくれる時に美味しい食べ物を持ってきてくれる人は、無条件に好きだ。美味しい食べ物というのは、それくらいに尊い。餡から台湾茶の香りがぶわっとしてくる、とても美味しいどら焼きだった。羊羹づくりが趣味なので、台湾茶を使った羊羹を今度つくってみよう、と思った。

 お茶を飲んでどら焼きを食べつつ話していたら、あっという間に3時間ほど過ぎていて、帰る時間になってしまった。ぼくはこのために色々な飲み物と、和菓子と、その人に合わせてお花を選んでお手洗いに置いていたりしたのだけど、そのうちの95%を発揮できずに終えてしまった。悔やまれる。後からそういうことを直接伝えるのはとてもかっこわるいことだということは分かるので、そんなことはしない。もしかしたらこの文章を読んでくれるかもしれないから、それによって直接伝えていない感じでその事実が伝わってしまったとしたなら、それはしょうがないだろう。紳士さを失っていない、パーフェクトなプランだ。よし。

 友人とは色々な話をしていたのだけど、その友人の本の読み方の話がとても印象的だった。本を読むのが好きらしく、そして本を読んでいる間は常にそれを書いた筆者が頭に浮かんでいるらしい。筆者のことを頭に浮かべながら読んで「この人はこういうことを書くんだなぁ。ふむふむ。」という感じで楽しむらしい。それが趣味だと。中々にクセが強い。

 そして本の読み方の話に続けて、ぼくの文章を読んでいるとも伝えてくれた。ぼくの文章を読んでいたら、「途中から筆者が消えた。」とその友人はぼくに伝えてくれた。最初読み進めているときは、いつも通りぼくが頭にいるらしい。あいつこんなこと書いてるんだなぁ、ふむふむ、みたいなことを考えているということだろう。それがいつもの楽しみ方らしいから。それが、段々と読み進めているうちに、ぼくの存在が消えた感じがしたと言う。それをきいて、ぼくは何だかすごく嬉しくなってしまった。何で嬉しかったのかは、その時はっきりとは分からなかったのだけど、どちらかときかれたらハッキリとポジティブな気持ちになったことはよく覚えている。あれは、自分にとってどういうことだったんだろう。

 本の読み方のクセが強い、などと言っておきながら、筆者のことを頭に浮かべながら読むみたいなことは、自分も少しは分かるような気がする。文章のリズムや、選ぶ言葉にはその人の人間性が出ているわけで、その筆者へのイメージとの差分を感じながら読む、みたいな感じのことをしている時がある。そこに納得感があると「そうだよなぁ、この人らしいなぁ。」と楽しくなってくるし、逆に意外な言葉を使っていたりすると「こんな内面なんだ!」とびっくりしたりする。それが楽しい。

 「筆者が消えた。」と言われてから、ぼくはまず村上春樹の小説がなぜか頭に浮かんだ。彼の小説を読んでいる時に、自分の場合は同じことが起こったりする、と思ったからだ。村上春樹の小説は、構成的であったり情報的であったりはせず、とても個人的な意味のある出来事が断片的にどんどんと起こっていくことを重ねる、というような内容の印象を持っている。それは起承転結の綺麗で感動させるような構成でもないし、筆者の巧みなトリックが隠されているわけでもない。インタビューで、彼が小説を書くときには「家の地下室に深く深く入っていく」というような表現をしていた(と思う)。そこには意味性や社会性みたいなものから離れた、1人だけの気持ちがあり、そこからしか見えない世界があるんだと思う。それを文字として写しとったものを、読者は見させられている。そして、そんなふうに1人の人間の、最も社会性みたいなものから離れたところにある、自分の内面の心象風景みたいなものに触れた時、それと近い風景を持っている人にとって、これは自分の風景だと錯覚するということが起こるんじゃないかと思う。そんな文章に触れたときぼくは「これは自分のことを話している。」という感覚に陥る。これが村上春樹の小説を読んでいてぼくに起こっていた現象だったのだと思う。

 ぼくは文章を書くことを通して、自分の内面に潜っているという感じがしている。自分でも知らなかった自分に遭遇し続けることが、自分が文章を書いている理由でもあるんだと思う。もっと深い自分の悲しみに触れたい。そこに触れられたなら、それを許してあげたい。そしてこの行為は、誰かの悲しみに触れるということでもあると感じている。文章を書くことで自分の悲しみに触れていく、と同時に誰かの悲しみにも触れている。文章を書くことで、自分のことを許してあげていくことと同時に、誰かのことを許してあげている。それは喜びにもつながっている。そんな感覚を持ちながら、いつも文章を書いている。

 そうか、だから嬉しかったのか。「筆者が消える」ということは、「自分になる」ということだとぼくは勝手に感じたから、だから嬉しかったのかもしれない。傲慢かもしれないけど、言葉は受け取った人のものになるんだから、それでいいじゃないか。存分に勝手に解釈させてもらって嬉しがろう。「筆者が消える」ということは、筆者というフィルターを通して筆者の考え方に触れている、という関わりから、自分の行為を通して自分のことに触れていく、という関わり方に切り替わったということだとぼくは勝手に思ったから、とても嬉しかったんだと思った。また誰かにそんなことを言ってもらえるような文章を書きたいなと思った。誰かにとって、その人が自分自身を覗く、自分自身のごく個人的な悲しみや喜びに触れていくような行為になってくれるような、そんな文章を書いていけたら、それはとてもとても嬉しいことだなと思う。

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