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「すぐに行動したくなる」僕たち 【お金と仲良くなる④】

 この一年半、お金の実験を自分の身を呈して行ってきました。たくさんあった貯金ももうすっからかんで、来月生きていけるのかどうかもわかりません。実験の内容はこれからだんだんと書いていくとして、その中で感じたこと、考えたこと、お金と仲良くなっていくということについて、これから書いていきたいと考えています。

 これからのいくつかの文章(多分2~3記事分、原稿用紙20〜30枚分くらいかな)を通して、「待つ」ということについて、考えてみたいなと思っています。この「待つ」ということが、お金の健康的でとめどない流れのためにすごく大切なことだと感じたからです。とっても大事なことを、いきなり書いてみようと思っています。

 この章では「待つ」ということを書いていくために、その行動の前にある「すぐに動きたくなる」ことの原理について考えていきます。

 僕たちは怒涛な速さで流れている時間の中を、生きています。都市生活は特に、お金も、人も、情報も、時間も。全ての流れが本当に速いような気がしています。すっごい大きな波が、すごい勢いで満ちては引いて、を繰り返していて、僕もその中の一員として波に 呑まれたり、時々乗ったり、傍観したりを繰り返している。

 そんなものすごく速い流れの中で、現実はどんどんと移り変わります。そしてその移り変わりの度に、僕たちは選択を迫られます。

 例えば、仕事。僕は30歳になったばかりなので、もちろん別に年齢がどうとかいう問題ではないとは思うのですが、何となくこれまでの仕事の仕方でいいのだろうか?もっと僕自身の個性を大切にしてあげられるような仕事がこれからできるのではないか?なんて考え始めるわけです。

 でも、差し迫って問題になってくることがあります。僕みたいに30歳になってキャリアを見つめ直したくなっているような人であれば、20代でもないのでポテンシャルだけで仕事をさせて頂けることはもう殆どないですし、今になってキャリアを大きく変えるのだってとても勇気がいることですし、さらに転職となってくるともうすごく考えることがたくさんあるはずです。

 僕の場合はこの1年と半年の間、全然仕事をしていませんでした。それまで朝から晩まで休みなく毎日やっていたデザインの仕事も、本当に好きな友人からの依頼以外を全て断っていました。(というより、そういう気分になると不思議と相談自体が少なくなってきます。不思議なもんだなぁ。)

 CIALという株式会社を立てて、それなりに継続的に一緒に仕事をしてくれるメンバーもいたので、それ以前は本当に毎日がむしゃらでした。デザインで旗を立てなければと意気込んでいたと思います。ずっと緊張状態というか。

 そして仕事を全て辞めてしまったその間に何をしていたかと言うと、ずっと小説を書きながら、絵を描いていました。そしてときどき曲をつくったりしていました。その時期は、純粋に僕自身のためだけに制作をするということが必要だったのかもしれないなと思います。心の警告として仕事が段々と億劫になっていって、鬱っぽくなったんだと思います。僕に制作活動をさせるために、体が強制的にアラートをかけたというか。

 そして1年半、それまで頑張って働いて貯めたお金を使い尽くしながら、ひたすらに小説を書き、絵を描いていました。小説は、新人賞に応募した長編一本と途中になっている長編一本と短編を12本この期間に書くことができ、絵は54枚も描けてしまいました。音楽の最盛期は2ヶ月間だけでしたが、その間に三曲作りました。

 その制作期間の中で、お金が不安になることもたくさんありました。1ヶ月に一度くらいは突発的にお金のことが不安になって、唐突に求人サイトを見漁り始める、みたいなことが起こりました。

 でも、求人サイトに並んでいる仕事を見れば見るほど、元気がなくなりました。やっぱりこんなこと、やりたくないな。僕は、僕の才能を全て開かせてしまって、仕事がしたい。求人サイトを開いて、元気がなくなってきて、また閉じる。その時にはもう、「それでもやるぞ。甘いことなんて言ってられっか。」と自分を奮い立たせるような体力さえなくなっていました。それくらい、許せなくなっていました。

 そんな、社会からしたら「なんて甘いこと言ってんだ」と糾弾されてしまうようなことをずっと考えていました。

 でも、そこでふとすごく気になったことがありました。何で、こんなにもお金がなくなることが不安なのだろう。

 お金がなくなってしまっても、実家に帰れば家もある。ご飯も多分、つくってくれる。知り合いに、お金を払わずにいつまで滞在してもいい自給自足のコミューンを運営している人もいる。僕は別に、お金なんてなくても生きていけるのに、何をこんなにも怖がっているんだろう。それがとても不思議になってきました。

 みんな、お金がなくなることが不安なんだと思います。でも、お金がなくなって本当に死ぬなんてことは今の世の中もうほとんどなくなっていると思います。

 生活保護を受ければ、10~13万円くらいは国から(いろんな人の税金から)もらえちゃいます。それくらいあれば、別に地方に住んで、野菜も自分で育てちゃえば、生きていけます。別に生活保護をもらわなくたって、実家に帰っちゃえばしばらくは生きていけるという人だっているかもしれません。

 じゃあ、なんでこんなにもお金がなくなることが怖いんでしょうか。

 僕の場合はそれは、お金が社会(つながり)の中で自分が存在していることの証明、だと感じているのではないかと思いました。預金残高と今月の収入を、そういう自己の存在価値のパラメータとして認識してしまっている。

 もちろん意識的にそうしているわけではなく、無意識で。心の奥底に、自分の存在が薄れていく恐怖がある。ずっとずっと心の底に降りていってみると、お金が減ることは、社会の中で自分の輪郭が半透明になっていっていくような感覚がありました。それを想像すると、すっごく怖い。あぁ、怖い。

 現代社会では、確かにもはや肉体的な死を迎えることと、お金がなくなることはあまり関係がなくなってしまっているかもしれない。ですが、むしろ実質的な社会的な死に紐付いているように感じられるんです。都市生活では、肉体的な死はもう僕たちのもとから遠ざかって分からなくなっていて、むしろ社会的な死の方が切実になってきているんです。

  僕たちは、社会的な死を恐れるあまり、お金がなくなってしまう恐怖から逃れられない。そしてその社会的な死というものは、肉体的な死には結びついていない。

 そして社会的な死への不安から、ついつい反射的に対処法を実践してしまう。僕の場合それは、求人サイトを開くことでした。求人サイトを開くことは、僕のやりたいことでもなく、暇つぶしなんかでもなく、紛れもなく死への不安からとっていた反射的な行動でした。だって、サイトを見たらぐったりして元気がなくなるんですもん。求人サイトをスクロールしている僕の目は水分を失って真っ黒になっているような気さえする。

 元気がなくなることは大体が、不安への対処としての行動をとってしまっているんだと思います。ここからは、これを「回避行動」と呼んでみることにしましょう。死を回避するための行動なので、回避行動。

 注意しなければいけないのは、求人サイトを見たとして、そこから「仕事を見つけて一旗立てるぞ」というポジティブっぽい行動も、回避行動である、ということです。闘争も、逃走も、不安が根源になっている限りは回避行動ということなんです。

 この回避行動をとっている限り、遅かれ早かれ、ぐったりしてしまう未来が訪れるんだと思います。なぜならそれは自分が楽しくてやっていることでもなく、やりたくてやっていることでもなく、ただ単に死から逃れるためにやっていることだからです。

 気合いが入ってるんです。肩の力が入ってる。でも人間、自然体になったときに肩に力は入ってません。ゆったりリラックスしている。

 時々、虎や狼が村に現れて命の危機が迫ったときにだけ、自分と家族を守るために気合いを入れればいいのに、現代社会で僕たちはいつでも緊張しています。それが社会的な死というものの恐ろしさだと思います。社会における死がいつも近くにあるということは、ひと昔前でいうと常に虎や狼が村の中を闊歩しているようなものです。とっても怖いです。

 じゃあ、この「回避行動」をとらないとしたら、僕たちはこの死の危険に満ちている都市生活の中で、どう行動したらいいんでしょうか。次回はそのことについて書いていこうと思っています。


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