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イタリア料理と一汁一菜

 土井善晴さんの『一汁一菜でよいという提案』という本を読み始めて、自分のつくる料理ががらっと変わってしまったと感じている。本当に、驚いている。これまでイタリア料理ばかりつくっていた自分が和食(?)をつくり始めたということだけでも個人的には大きな変化なのだけど、それと同時に、イタリア料理に対しても、つくることへの姿勢や考え方が大きく変化してしていると感じている。

 「ハレとケ」の、「ケ」の料理って、何だろう。一汁一菜の料理をつくり始めてから、そんなことをよく考えるようになった。「ケ」の料理は、毎日食べても飽きない。そして、毎日つくることができる。それはとても自然的な生活の循環の中にいることだなと思う。人間の感情的な豊かさには儀式性みたいなものがとても重要だなと思っているのだけど、「ケ」の料理では、逆にその儀式性みたいなものは極力抑えられているのかもしれない。それよりも、一生懸命に生活するということ。生きるということ。そういうことが重視されているように感じる。それは、そもそもの人間の生命の維持に関わってくる活動だ。一生懸命に生きるために、やっているのだ。

 「ケ」の料理において、飽きないことが重要だと書いた。じゃあ、食べることにおいて「飽きる」ってどういうことなのだろう。ぼくたちはどうして飽きるのだろう。
 
 それは、自然を味わえていないからかもしれないなと思った。自然は、絶えず変化している。特に日本では、四季の変化によって、一年を通して同じような気候が続くということがほぼないのではないかとさえ思える。その気候的な変化に適用するような形で、野菜や果物などの命も変化を重ねて、進化してきた。それが彼らにとっての、生きるということだった。

 そうか、命は、常に変化をしていたんだ。ハウス栽培やF1品種などの発達によって、一年中同じ形の同じ色の野菜を食べれるようになっていたから、ぼくはすっかりそんなことも忘れていたんだなと思った。一年を通して変化していく、その命の変化を味わう。そういうことをしていれば「飽きる」ということはないはずだったんだ、と思った。

 一汁一菜の料理では、その時にとれる野菜を、まるごと味噌で煮込むだけ。本当にほとんどそれだけで料理を終えるのだ。その分、そのまま直接的に、野菜の味がする。野菜の味が変われば、汁の味もがらっと変わってしまう。その変化を感じたときにぼくは「命を味わっている」という感覚になってくる。「ケ」の料理は、そういう命が生きているという、その生命活動を感じて、自然という大きな生態系とぼく個人が繋がっていたということを感じ直すことなんじゃないかなと感じている。

 もしかしたら、ぼくがイタリア料理が好きな理由も、似ているんじゃないかなと思った。イタリア料理は、そもそもはそれぞれの土地でとれた食材を素朴に使った、お母さんの味だった。伝統的なレシピが守ろうとしているのは、それぞれの地域の、それぞれのお母さんの味だったんだと思う。

 一汁一菜も、それぞれの土地の、それぞれの命の変化を感じていく、とても素朴な料理だ。素朴だからこそ飽きない。小さな変化を感じて、それが本当はとても大きな命の変化だったことに気付く。そういう喜びがある。

 一汁一菜でも、イタリア料理でも、何でもいい。ぼくはそんな、身体が喜んでくれるような日常の料理を、生きるための料理を、これからもつくって生活していきたいなと思う。一生懸命に生きていきたいなと思う。

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