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自分のリズムをつくる

 相変わらずキッチンでビールをあけつつ、昨日の夕食はカルボナーラをつくった。パスタを茹でる蒸気で熱々になったキッチンで飲むビールはなぜあんなに美味しいのか。最近ますます料理にカタルシスを感じるようになっている。特にイタリア料理が大好きだ。地域の家庭のお母さんみたいな人がつくっていたレシピが、伝統的で1番正統で、大切にしたいレシピとして守られている。それを守りたいとする意志を、イタリア料理をつくるほどに強く感じる。とっても大好きな料理の時間。ぼくの興味を満たすための試みの連続。自分が心地いい、独特なリズム感がそこにはあるような感じがする。

 今、岡山県北部の山の中にある西粟倉村というところに短期間だけ住んでいる。最近木にとても興味があるので、木工のお仕事を手伝わせてもらうためだ。そして西粟倉で今住んでいる家には、インターネットの固定回線がない。インターネットがないと、Youtubeも見れないし、Netflixも見れない。料理したり、お酒を飲んだり、パイプ煙草をふかしたり、音楽をじっくりきいてみたり、本を読んだり、色んな退屈つぶしを楽しむんだけど、ついにはやることもあんまりなくなってきて、早々に寝てしまう。この生活がとても心地いい。インターネットがないだけで、こんなにも自然に楽しくて開放的な生活ができるんだ、ってびっくりしている。

 思えば高校生くらいの頃からのお決まりで、ぼくが生活リズムを大きく崩してしまったり鬱っぽくなってしまうときのパターンがあるなと気付いた。それは、「インターネット上の無限のコンテンツで、ずっと満たされない退屈つぶしにふける」→「夜寝るのが遅くなる」 → 「朝起きれなくて夕方くらいまで寝てしまう」 → 「あぁ、今日ぼくは何もしていない…。という自己嫌悪に陥る」というパターン。思い出しただけで嫌な気持ちがフラッシュバックしてくるほどに、そういう時には鬱屈とした気持ちになっている。

 インターネットはそれほどに、手軽でかつ体力を消費せずに退屈潰しができてしまうし、次を次をと求めたくなる工夫に満ちているので、そのコンテンツによってお腹いっぱいになって満足するということがないんだろうと思う。(高校生の頃のぼくの永遠に満たされない退屈つぶしは2ちゃんまとめだったなぁ、懐かしい。)

 例えば本なんかでも、ある程度の時間集中して読んでると段々と疲れてくるし、満たされてくる。読むのに満足する感じ。うん、楽しかったな。今日はもういいや、って。

 インターネットがないだけで、こんなにも自分のリズムに乗っているような生活ができるんだ、って驚きながら一週間ほどを過ごした。

 昨日の木のお仕事も、すごく楽しくて終業時間があっという間にきてしまった。学びたいことがまだまだある。どんどんと新しいことが分かってきてるという感じもするけど、本当に全くまだ木と仲良くなれてないとも感じる。昨日作業をしながら面白いなとふと思ったことがあった。ある作業に対して少しずつ工夫を加えて、段々と早く作れるようになったり、上手くつくれるようになったりするんだけど、それは「自分のリズムをつくる」ということなんじゃないかという気分になったことだった。

 手を動かしている回数を重ねていくと、段々と自分なりのリズムが出来てくる。気付いたらそのリズムに乗りながら作業している。ズンズンって。それがとっても心地いい。作業に没入していくと、8ビートが頭の中に鳴り始めてくることに気付いた。比喩とかではなく、そのままの意味で8ビートがズンズンってなりながら作業してる。そしてそのBPMが段々体に馴染んできて、無意識に体が動くようになってるときに、作業効率が実際に記録でも最大になっていたりする。自分なりのリズムをとれるようになると、体が自然と乗ってくる。

 木を削ることも、本を読むことも、コーヒーを淹れることも、イタリア料理をつくることも、パイプ煙草を吸うことも、休憩することも。その全ての中にそれぞれの独自のリズムがあって。そのリズムの集合によってもっと大きなぼくの生活というリズムが生まれてる。もしかしたらぼくは、自分なりのリズムをつくっていくことで、自分なりの世界との心地いい関わり方を探そうとしているのかもしれないと感じる。

 自分にとっての生きることの自由さ、素直に生きているという状態は、体が気持ち良く動いてくれる自分なりのリズムをつくっていくことなんだろう、と思った。そういう自分なりのリズムを、これからも探し続けるんだと思う。

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