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言葉が好きだったことを思い出した

 日曜日であることをいいことに、FUJI ROCKのストリーミング配信をききながら、パイプたばこを吸ってビールを飲んでいた。奇妙礼太郎のライブを見ていて突然、自分は言葉が好きだったんだ、ということを思い出したような感覚がした。素直に、言葉っていいなと思ったというのも勿論そうなのだけど、もう少し正確に説明してみると「元々言葉のことが好きだったはずだった。」というような感覚を覚えた。

 思えば昔からどこかしらに、文章を書き続けている。ずっと続けている日記のようなものと、日記とさえ言えない文章の羅列のようなもの、大学一年生のときに始めたブログ、エンジニアをしていたときの技術ブログ、今のnote。そして大学の授業で自然言語処理とプログラミング言語の分野に感動していたことも思い出した。でもいつからか、多分かなり昔から、言語や言葉は信じられないもの、虚しいものだと思っていたような気がする。言葉はその人の内面からはとても遠いところにあって、虚しいものだと思ってしまっているところがある。

 言葉にするという行為には、とても体力がいる。わざわざ感じていることを、言語という共通化された体系に置き換える処理を行っている。言葉を喋ったり書いたりすることは、とんでもなくエネルギーのいることなのだ。かもめんたるのう大さんが「セリフには必ずメリットがある。」というようなことを話していた(はず)。何か人間が言葉を発することにはメリットが存在する。それだけのエネルギーを使って、わざわざ言語に変換して発話するということには、必ずそれをしなければならなかったその人なりのその場での理由がある。発話した言葉そのものの意味よりも、それを発話する必要をもたらしたその人の心の反応にぼくは興味があるんだなと思った。だから言葉はいつも、本当の感覚からはすごく離れたところにあると感じ続けていた。そんな文章や何かに出会うたびに虚しくなって、悲しい気持ちになっていた。

 でもそれも、ぼくが出会ってきた中でのほんの一部の文章や言葉の中でそういう虚しさを感じただけであって、それを見てあたかも言葉の全てが虚しいものだと勝手に絶望していただけなのかもしれない。もちろんそんな言葉ばかりではなくて、真剣に実体のあることに迫ろうとしていると感じる言葉だってたくさんあったはずだったし、そういう小説や、映画のセリフ、歌詞など沢山の言葉に自分自身いろいろなことを気付かせてもらったはずだった。

 「言葉にする」という行為は、もっと自分に近付いていこうとする、とても個人的な試みのことなのかもしれない。言葉にすることによって、自分の分かっていなかったことを、もう少しだけ分かってあげれるような気がする。そういうことを繰り返していく。どんどんと自分が心地よかった状態に近づいていける。そうやって自分の身体に合った言葉を選んできた人の選ぶ単語や文章は、とても優しくて温かい。

 その言葉がなぜその人にとって必要でその単語を選びたいと思ったのか、なぜその単語を選ぶ必要があったのか、ということに向き合っていたい。その人の個人的なことだけをもっと知りたい。だから、言葉に出会ったときに「それは遠いものだ」と絶望して切り捨ててしまうのではなく、その言葉を必要としたその人の感覚を、言葉を通して感じるというふうにしたい、と思った。そう思えたら、言葉は自分にとって虚しいものではなく、目の前にいる人と向き合うための、そして自分と向き合うための、とても大切な媒体だったんだと気付いた。そんなふうに考えてみると、言葉っていいな、言語っていいな、と素直に思えるような気がする。

 最近、方丈記を初めて読んだ。鴨長明の琵琶や和歌のような軽やかな楽しみ方で、ぼくも言葉を扱ってみたいと思った。このやり方で文章を書き続けていたら、不思議と段々と鴨長明みたいになっていくような気もしている。言語って面白い、言葉って楽しいな。

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