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一人一人が自分だけの物語を携えて生きている

 小説を原稿用紙で書き始めた。これまではパソコンやiPadを使って書いていたのだけど、どうしても、新しい情報が入ってきてしまって、何となく集中できていないような気がした。自分とつながって、深く潜っていくことが邪魔されてしまっているような気がしていた。

 原稿用紙に書くことを始めてみて、自分の中に深く入り込んでいく感覚がとても大きくなったと思う。これは個人的に、すごい発見だった。

 年末から書き始めた短編を一通り書き終えた今日。とても気持ちがよくて、安心している。書き終えたときには、達成感みたいな感覚というよりも、とっても安心している、というような感覚に近くなるなと思う。

 ぼくは結局、自分を安心させてあげるために、書いているのだなと思う。今、とても安心しているし、そのことにすごく嬉しくなる。自分自身を救ってあげるための、ささやかに続いていく、ぼくの中に少しずつ積み重なっていく行為。

 思えばこれまでもずっと文章を書いてきたけど、意識的に、自らにとって重要な、つくる行為として文章を書いたのは、今年が初めてだったように思う。

 個人的なブログ、技術ブログ、note、デザインの仕事など、色々に文章を書いてはきたけれど、ぼくにとって文章は、他の何かの力を強めてもらうための手段のような役割だった。だからこれまで、もしかしたら、ぼくの内面にとってここまで親密な形で文章を書いたことはあまりなかったのかもしれなかった。

 物語を書くこと、ないし文章を書くことは、自分自身のための治癒行為のようなものだなと感じることがある。これまで書いてきた物語に一番救われているのは、紛れもなく自分自身だった。物語の中で出現しているモチーフは、ぼく自身の解放の過程そのものでもあって、物語は、それが最も具体的に、そして直接的に表象されている媒体になっていると思う。

 そして、ぼく自身が喜んでます、という話もこんなふうにあるとして、そうではなく、ぼくの書いた物語を誰かに読んでもらって、そのときに感じたことなどについて話してもらえることには、また全然異なった色の深い喜びがあった。

 ぼくが文章を読んでもらって一番に嬉しかったことは「これは、自分の物語だ。」と言ってもらえたことだった。人は、それぞれ一人一人が、自分の中に、自分だけの物語を携えて生きている。誰もがそんなとても個人的な物語を、心の中で撚り重ねていくことによって、矛盾する社会や内面を抱えながら生きていくことができる。そんな大切な、ごく個人的な物語の中に、ぼくが書いた心象風景のようなものがほんの断片であれ取り込まれていってくれるとしたならば、これほどに嬉しいことはないと感じる。

 ぼくの去年の一番の大きな出来事は、物語を書いた、ということかもしれない。特に一番最初に書いた、長編の『滑らかで痛い』は、刻一刻と変わっていく現実世界の自分自身の内面に、不安になったり、迷走したり、絶望したりと、常にヒリヒリとしながら書き進めていたなと思う。そういう感覚を味わう度に、内側から外側に向かってゆっくりと現実の変化が起こっていくということを体験した。

 そこから、途中になっている1つの長編と、3つの短編を書いたけれど、あの頃のヒリヒリとした張り詰めた感触が恋しくなることがあるくらいに、今でも特別だと感じるような物語になった。そんな物語をこれからも書いていきたいなと思いながら、新しい年の一杯目のコーヒーを楽しんでいる。

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