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生きることと、それ以外の時間

 東京から、住む場所を移ろう、と最近考えている。自分にとって、どんな場所がいいんだろう。分からないから、いろいろな場所を訪れている。木工の仕事をしながら岡山の県北の西粟倉村で1ヶ月ほど滞在したり、友人の移住した秋田の根子を訪れたり、和歌山の新宮から山間に入った小さな村に滞在したり。

 ぼくは今、東京都内に住んでいる。東京に来たのは二十二歳の頃だったので、7年目ということになる。そんな中で、継続で長らく行っていたデザインの仕事の契約を数ヶ月前に辞めさせてもらってから、ゆっくりとお金のことについて改めて向き合っていた。そして、もっともっと生活がしたい、と思うようになった。そして、より自分のものをつくっていけるようになりたいと思うようになった。その上で、東京は自分にとってよい場所ではないと感じることが多くなった。それは、東京が「もっと預けようとする」街だからだと思ったからだった。

 お金って、何だろう。お金の役割のひとつは「生きることのための自分の活動を、切り出して他人に預けること」だと思った。それはとても便利なことで、ぼくたちは、お腹が減ったときにもう動物を狩りに出かけたり、米を稲から育てる必要はないし、服が汚れたら手でゴシゴシと洗わなくてもいいし、電車に乗れば街から街への移動時間を大幅に節約することだってできる。

 これは、もともと個々人がそれぞれで生きるために行わなければならなかった活動を、誰かに託すことができるようになった、ということ。ぼくたちはお金をつかって、自分がもともと生きていくためにしなければいけなかった活動の一部を手放して、誰かに肩代わりしてもらっていたのだった。その分だけ、時間を余らせることができて、その時間をより自分の人生が豊かになることに充てることが出来るようになる。

 お金を得るために、労働をしている。労働をすることによってお金を得て、それによって自分が生きるための活動を、より多く手放すことができるようになる。そしてその余った時間で、ぼくはさらに労働をしている。労働をしているということは、「誰かが手放した、生きるための活動」の手助けをしているということになる。手放して、余った時間でさらに誰かの時間を手放す助けをする、というループが起こっている。経済は、こうやって回っているのだ。例えば東京のように、街の経済規模が大きいということは、このループをより速く、より大規模で行っているということなのではないか。


 一度、取り戻してみたい。ぼくにとっての「生きる」ということにおいて、どういう活動が必要で、どういう活動が元から不必要だったのか、ぼくはもうすっかり忘れてしまっている。七年での東京での生活と、仕事への努力を通して、ぼくは生きることの活動をどんどんと手放していくことだけに、慣れきってしまっていたのかもしれなかった。

 例えば、野菜や米や小麦を育ててみたい。コーヒーは焙煎しているし、料理も毎日しているのに、食べ物を育てたことが殆どなかった。本当に野菜を育てることは、ぼくにとって必要ではない行為だったのだろうか。それを確かめてみたい、と思うようになった。

 そういうことを突き詰めていくと最後にぼくに残るものは、生きることと、それ以外の時間、という2つのことだけになる。生きること以外の時間で、好きなものをつくることができる。ぼくの場合は、小説や文章を書き、絵を描き、歌をうたいたい。

 そういう、人間の原初的なことに、一度立ち返ってみたい、と思っている。もちろん、立っている場所が安定する踊り場みたいなものを見つけるために、またいつかは平衡化していくようなことにはなるだろう。だけど今は、あるひとつの方向にどんどんと傾いていって、回帰していく流れの中に自分がいるように感じている。

 どんどんと傾いていくときには、とても不安になるし、でもそれと同時に、それはとても楽しいことでもある。自分自身を大きく揺らしながら、その振幅によって、自分の心地よい場所をだんだんと見つけていくこと。それはお金を払うことで誰かに預けることは決してできない、他には代替できないような人生の喜びだなと思う。

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