整備された道路から外れざるを得ないときには
この記事は、つくるためにつづけていることや、つくるときに考えていることなどを書いているマガジン『つくるためにつづけていること』の文章です。つくったもの以外を世の中に公表するというのは、ちょっと恥ずかしくて気後れしちゃうので。。
みんなの歩んでいる"整備された道路"から外れるのって、とても怖いです。
偏差値の高い大学に入るためにセンター試験に向けて猛勉強している中、自分は道草を食っているような気がしてしまったり。
周りの優秀な友人が就活をしているときに、自分はその仕組みに何となく乗り切れずにいたり。
ぼくが今こうしてつくる仕事をしていたり、小さな会社をしていることに関してかっこいいじゃない、って見てくれたり伝えてくれる人もいるんだけど、自分の感覚としては「どうしてもここに逃げ込んでくるしかなかった...」という気持ちでした。
周りのみんなが当たり前にできていることを、ぼくはできなかったなって感じることばかりでした。(今もそう。)
例えばですが、友達がいないわけではないのになぜか毎日学校に行くのがすごくしんどかったことがありました。
家を出てから寄り道をしながら田舎道をひたすらに自転車を漕いで彷徨っていたり。(給食の時間が最後の砦。そこに間に合えば出席、間に合わなかったら欠席。)
漫画みたいに友人とかっこよくサボれていたらよかったんですけど、日常はそんなことはなくて、毎日悶々としながら1人でどこに行くでもなく永遠に自転車を漕ぎ続けていました。
そして、就活もそうでした。就活を経ずに今に至っているのですが、今振り返ればとにかく就活が怖かったのかもしれないです。
21,22歳やその頃には「もっとぼくだからできることがあるんだ。」みたいに意気込んでいる風にいろいろな活動に取り組んでいたような気がするけど、本当は周りの優秀な人たちの中で一直線に並んで競争をするのが怖かったのかもしれない。
そうして一緒にみんなと並んでしまったら、自分が他の人に比べて劣っていて、欠損しているという事実を突きつけられるんじゃないか、って。
目の前にある、皆も通っている道。
社会が「こうしたらうまくいくよ」と用意してくれている道。
でも、自分はこの道をどうしても受け入れてあげることができない。
心の中から溢れてきそうな水分を何とかして蓋をしてあげながら、漠然とした息苦しさと共に足を前に出し続けている。
そうやって続けていると、いつかそれが溢れてしまう。どんな人でも、いつかは溢れるものなんだと思います。
そしてその結果のうちの一部が、適応障害だったりうつ病だったり、もっともっと体力があってムキムキな人はパッタリと自分で命を断ってしまったり、そういう社会的に認知できるラベルとして現れるのかなって思います。
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