見出し画像

自分に興味をもたせてあげる

  今日は西粟倉での木工のお仕事の最終日。3週間ほど働かせて頂きました。ひたすらに毎日木と向き合い、木を触り続ける日々。アルバイト形式でのお手伝いなのでそこまで複雑な業務というわけではないのですが、少しずつ木のことをより知っていく日々は、発見の興奮に満ち溢れていた。例えば、傷の補修。水を含ませた布を挟んでアイロンをあてるだけで、みるみると膨らんで傷がなくなる。これは、木の幹が水分を葉や果実に運んでいくためにつくった道管を利用させてもらっている。ぼくらは、他の命が生きていくために身につけてきた機能を、利用させてもらって生きている。来る前とは比べ物にならないほど、木と仲良くなれたような感じがしていて、それがとっても嬉しい。早く帰って、自分のやり方を探りながら木に触っていきたい。それがとても楽しみになっている。


 この仕事を通して沢山の発見があった。その1つに「自分に興味をもたせてあげる」ことの大切さに気付いたということがあった。今向き合っていることに、自分が興味を持ってくれるようにしてあげること。何でもいいのだけど、感覚が何かに反応しているような気がしたら、その瞬間に与えてあげる。木が面白い、と思ったらすぐにホームセンターで木材を沢山買ってくる。ひたすら触ったり掘ったりしてみる。料理でにんにくが美味しい、と思ったら、その日の昼ごはんでは今までまだ試したことがなかったにんにくの切り方や火入れを試してみる。文章を書くのが楽しい、と思ったら気が済むまで書いてみる。自分の心が反応したら、できるだけすぐにその興味を満たしてあげる工夫をする。それが自分にはすごく大切なことだったのかもしれない。


 昨日の仕事の中で、気付いたことがあった。取り組んでいる作業に飽きてくると、退屈するから、適当にやってしまう。どうしても「こなす」感じが出てしまう。(あぁ、怒られそう…。)手を動かし続けながら、ひとまず時間が過ぎていくのだけを待っている感じ。そういう時ぼくは、知らない人が敷地に入ってきたときの柴犬のように「ううう〜」って唸りながら作業してる。多分、その状態を警戒しているんだと思う。こなしているのは、つらいし、しんどいんだと思う。その状態になっているときの作業は、興味を持って取り組んでいるときの50%〜75%くらいの効率しか出ていなかったことも分かった。飽きた途端に瞬く間にポンコツになってしまう自分。こんなこともできないとは、なんと情けない。


 それでも、興味を持って工夫しているときには、何でもできるような気がしていて、実際に作業効率も高かった。もっと速く精度も高く作るために治具を自分でつくってみたり、100個仕上げるごとに毎回何か新しいことを取り入れて工夫してみたり。右手と左手の役割を変えてみる、箱の位置を変えてみる、みたいなこと。そうやって工夫し続けているときの気持ちよさといったら、もう本当にすごい。ゾーンに入っているというか。大変な感じが全くない。自然と頭と手が動いてる。そして、結果も出る。それができている時のタイムが一番速い。


 人生で何度かの大きな気分の波の上下を経て、興味や好奇心は自分の意志や努力によってコントロールできることではないと思うようになった。だから、好奇心に仕える奴隷として自分の身体側の努力でできることと言えば、好奇心様のこれから走っていきそうな道を、これでもかというくらいに走りやすくしてあげることくらいしかない。砂利も取り除くし、草も刈るし、水分補給所もつくる。それさえしてあげれていれば、自分の好奇心はどこまでだって気持ちよく走っていってくれる。世界に存在している色々なことに興味を持ってくれる。興味を持ったら、夢中になるから、工夫をしてくれる。工夫をするから、何かに結実する。


 「努力する」「頑張る」みたいな言葉は、もう少し心に近い声で翻訳してみると「心から本当に大好きで楽というわけではないんだけど、やるべきだと考えているから踏ん張ってやります。」みたいなことを本当は言いたいような気がする。今までは、そういうことが偉いことなんだと思っていた。「努力している人は偉い。」「頑張っている人はすごい。」そんな言葉を沢山きいて育ってきた。いつからか当たり前のことだと思っていた。でも、ぼくにとっては「頑張る」なんてことはせず、興味を持って楽しんでいる時が一番いいものがつくれている。楽している時が一番結果も出ている。

  心と身体を楽にする。それでよかったんだ。自分が一番心地いいと感じることだけをさせてあげよう。そうしていればきっと、自分の才能が発揮されていく。空気が自然と漏れ出して、伝わっていく。もっともっと自分に興味をもたせてあげよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?