書けなくなった

昨年の7月から今年の7月までのおおよそ1年間。(ほぼ)毎日このnoteを更新していた。

発信することに挑戦する、なんてかっこよく聞こえるがとあるきっかけから半ば意地になって1000字程度の文章を書いてやろうと思い、続けてきた。

ちらほらと言っているので、ご存じの方もおられるが、私は他のSNSも頻繁に更新したり使っているが、twitterでの発信、というかやりとり、はどうも向かない。140字で発信することが苦手なわけではないが、どうもみなさんのtweetが紋切り型になることに対して、即レスで「ムッ」としてしまう。なんだろう、ことばが尖鋭化して入ってくる感覚といえばいいのだろうか。絡んでトラブルになることもあって、情報収集とFBの補助的な発信程度に使い方を落としている。

実は6月にものすごく衝撃的で精神的にしんどいことがあって、だんだんと書くこと、発信することが億劫になっていた。ちょうど、うち(寝屋川市民たすけあいの会)の建て替え工事がはじまり、発信も必要なときだったので、それでもがんばってやっていたのだが、工事も終わった辺りで、疲れてしまった。そして、noteの更新をはじめて一年を機にやめた。

それでも、もともと書くことが好きなので、だいたいしばらくすると書きたくなるのだが、いっこうにその気配がない。それどころか、メールやメッセージのレスまで、筆が重い。

実は6月にうちで関わっている方がお二人相次いで亡くなられた。おふたりとも40歳前後の方。お一人は罹患されていた病気の再発で救急車で運ばれたが残念ながら数日後に亡くなられた。
そして、もう一人はずっとコアに関わらせていただいた方だったのだが、ありえない事故で亡くなってしまわれた。特にこの方の死がどうしても、自分の中でいまも落とせずにいる。詳細を書くことは守秘義務にかかわってしまうのでかけないことが、また、自分を苦しめてもいる。
そう、自分の心の中の葛藤やしんどさを共有したり、話あったり、語り合ったりすることによって、心は動いていく。
そのことができない発信になんの意味があるのだろう、と。
その答えを見いだすことができないのだ。

気がつくと、インターネット上につながっているこういった発信は、自分の思いをそのまま受け取ってはいただけず、切り取られたり、曲解されたりということは頻繁に起こる。それはずっとわかって発信を続けてきた。しかし、気がついてみると、自分の思いや考えを稚拙で不十分であっても、あえてでも発信することすらできなくなってきている。
みんなが「怖い」という感情を強く持ち、「責任」を背負うことが当然であると言われ、おそるおそる文字を綴る。
それでも、自分が確認したい思いを相手と共有したいから、こわごわと発信をする。
そんな中にどっぷりを使ってしまったいま、書けなくなってしまっている。
心の中に、書きたいおもいと書きたくないおもいが錯綜している気持ちを記したくて、いまこうして文字にしている。

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