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シンカ論:㉕信じられるか?これ学者なんだぜ。

 前回、様々なフェミニスト達の「表象批判」について、彼女ら(ときどき彼ら)がいかに一貫していないか、場当たり的にものを言っているかを明らかにした。
 しかし、相当数の読者の脳裏に浮かんだのはこういう疑問ではないだろうか?

「そうは言っても、滅茶苦茶なのは単にツイッターで喋ってるだけの一般人だろ?」
「ちゃんとしたフェミニズムの”先生”だったら真っ当で一貫したことを言うんじゃないか?」

 なるほど、もっともな想像である。
 では、フェミニズムのちゃんとした「学者先生」がこうした表象批判をどんなふうにやっているのか、その最新版をお目に掛けよう。

 このリンク先にあるのは、きちんと社会学の博士号を持ち、なおかつ東北学院大学経済学部准教授を務める、小宮友根というフェミニスト学者の論考である。2019年12月8日に出たばかりの最新版だ。リンクを飛んで今読んでもらってもいいし、私の論を読んでから確認してもらっても構わない。
 では、その内容がどのようにマトモであるのか、あるいはそうでないのかを見ていこう。

1.「表現の自由」の再確認

 小宮先生は、このシンカ論でも今まで見てきたようなフェミニズムによる「表象」批判について宣言する。
 ちなみに表象とは、絵や写真などあらゆる「何かをあらわした表現」のこと、という意味で小宮氏は使っているようだ……が、学問的には普通はそういう意味ではない。むしろ表象とは「何かについての頭の中のイメージ」が正しい意味に近い。

 いきなり用語の使い方で躓いてもらっても困るから、そこはスルーしよう。小宮先生の言う通り、以後本稿でも「表象=何かをあらわした表現」とする。小宮先生はこう言っている。

 まず「表象はなぜフェミニズムの問題になるのか」の内容を簡単に解説しておきます。そこで私が述べたのは、表象の「悪さ」について、たとえば「子どもがマンガの中の暴力的な行為を真似してしまう」とか「広告に表現された差別的な価値観を身につけてしまう」といった「現実への悪影響」とは違った水準で考えよう、ということでした。

 おおう、いきなり引っかかる言葉の登場である。
 表象の「悪さ」について(略)「現実への悪影響」とは違った水準で考えようというのは、つまり「現実に悪影響など何もなくても悪いのだ」という考え方にほかならない。

 これは、日本人の生活を支える様々な法制度の根幹をなしている『日本国憲法』の考え方と根本から対立するものである。憲法第二十一条によれば「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」とされていて、これを含む全ての基本的人権は、第十一条によると「侵すことのできない永久の権利」であるとされているからだ。

 そうは言っても法律で禁止されていることだって沢山あるじゃないか、と言うかもしれない。実際、昔の憲法――誰でも歴史の授業で明治時代あたりを習ったときに聞いたことがあるはずの『大日本帝国憲法』には、第二十九条に「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」と書かれていた。

 しかしこの「法律ノ範囲内ニ於(おい)テ」という文言は、戦後この憲法が『日本国憲法』に改正された時、なくなってしまった。なぜなら、大日本帝国が様々な法律を作って人権を制限しすぎたことが、国や軍部の戦争政策に国民が逆らえない環境を作って、けっきょくは大日本帝国そのものを破滅へと導いたからである。日本国憲法はその反省の上に書かれている。大帝国でなくなった今の「日本国」では、公共の福祉に反しない表現を、禁止してはいけないのだ。

「じゃあ、表現の自由の為なら法律を破ってもいいってこと?」

 端的に言えば、そのとおりである。
 公共の福祉にさえ反しなければ、法律なんか破ったっていいのだ。

 ただし断っておくが、これは表現の自由だと言いはれば何を書いても描いても警察に捕まらないという意味ではない。警察はもちろん法律に違反した者は普通に捕まえるだろう。
 しかし捕まった後はもちろん裁判になる。裁判なしでいきなり刑務所に送られることはありえない。その裁判で「私は公共の福祉に反するようなことは何もしていない。それなのに私の行為を法律が禁止していたというのなら、それは法律が間違っている!」と主張して、それが認められれば、法律よりもあなたの行為の自由が優先される。そうなれば、あなたは晴れて自由の身だ。

 では、公共の福祉とはなにか。
 なんとなく「公共のためだ」「みんなのためだ」「日本全体のためだ」と言えば通るというのであれば、大日本帝国憲法の時代となにも変わらない。漫画『はだしのゲン』の世界である。

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(中沢啓治『はだしのゲン』中央公論新社)

 ここはどうしても公共の福祉とはなんなのかハッキリさせておかなければ、軍靴の足音が聞こえて来てしまう。

 憲法学者たちの多くは、この公共の福祉について一元的内在制約説を採っている。通説というやつだ。長ったらしいが分解して考えると、一元的とは「ひとつしかない」、内在とは「中にある」という意味である。
 つまり公共の福祉とは「人権そのものの中にもともとある、たった一つの制約理由」のことを指しているというわけだ。それは何かといえば、他のひとの人権である。
 我々の生活はものすごく多くの法律によっていろいろな制限が掛けられているわけだが、それら全ては、そうしなければ他の誰かの人権を侵害してしまうことになるから、(少なくとも建前上は)人権を守るために作られた法律なのである。もしも誰の人権にもこじつけられない法律があって我々の自由を縛っているとしたら、そんな法律は憲法違反であり、破っても裁判で無罪判決が出る(ことになっている)。

 ずいぶん遠回りしたようだが、ようやく話は小宮先生の発言に戻る。

表象の「悪さ」について(略)「現実への悪影響」とは違った水準で考えよう

 この言葉は、一見ただ「もっと広い視野で考えてみようよ」と無難な呼び掛けをしているだけに見える。
 しかし「表現の自由は、他人の人権を侵害しないかぎり無制限だ」と憲法が定めていることを思えば、「現実への悪影響がない表象の『悪さ』」などという発想がどれほど危なっかしさを孕んでいるか、おぼろげに見えてきたのではないだろうか。
 憲法によれば、表現の自由を制限する理由は、悪影響が「ない」ときにはもちろん、「ある」だけでも不十分で、あってなおかつそれが人権侵害と言えるほどのものである必要がある。

 が、小宮氏と彼が代弁する「フェミニズム」は人権を侵害どころか、ただの悪影響すら無かったとしても表象を攻撃する。そういうスタンスを、フェミニズムは取っているということになる。

 では「悪影響がない」悪さとはいかなる「悪さ」なのだろうか。

2.「女性観」の決めつけ

 小宮先生はこう言う。

女性表象は――なにしろ女性の表象として作られるのですから――多かれ少なかれ「女性とはこういうものである」という、私たちの社会にある考え(女性観)をもとに作られるものです。

問題なのは、そうした女性観の中には、歴史的・社会的に性差別的な意味を帯びて使われてきたものが多くあるということです。たとえば「ケア役割の担い手」という女性観があります。要は「家事育児介護は女がするものだ」という考え方です。こうした考え方が差別的であることについては現在では多くの人が同意するでしょう。

 もっともなように、一見みえる。
 たとえば2014年、人工知能学会という学会誌の表紙が、フェミニズムに槍玉に挙がられたことがある。

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 女性の姿をしたロボットが掃除をしているようだ。背後には操作用かエネルギー補給用かは絵では判然としないが何らかのケーブルが見える。このイラストにフェミニスト達は噛みついた。

 このイラストは確かに、女性は家事・仕事をする男性のサポート役というステレオタイプを表現しているように見える。だが、このシンカ論(第2回)でも取り上げたことがあるように、実はそうではなかった。

 このイラストは連作になっており、結論から言うと「女性科学者が自分をモデルに作ったロボット」なのである。つまりこのロボットは男性ではなく女性をサポートする役割を担っており、本物の女性は外で仕事を、しかも科学者という非ステロタイプ女性的な仕事をしていたわけだ。

 フェミニズムのこの失態で分かるように、女性表象がある「性差別的」価値観に沿って描かれているように見えたからといって、本当にそうであるかどうかは一見して分かるものではない。

 このことは特に漫画やアニメ、ゲームなど物語性のある作品において顕著である。むしろ男性消費者の欲望に迎合するような「エロ」や「萌え」作品であるほどそうだと言える。
 なぜなら現実に、このタイプの作品には男性消費者の多様な好みに応えるため、多彩な女性を登場させているからだ。より多くの顧客のニーズに応えようとすればそうなるのが当然である。家事に長けた女性が優しく世話してくれる快適な結婚生活を夢見る男性もいる一方で、逆にそれを苦手とする女性に可愛らしさを見出す男性もいるわけである。
 したがってこれらの作品には、家事が上手な女性も苦手な女性もいる。才女もいれば勉強が嫌いな女性も、スポーツが得意な女性もそうでない女性もいる。巨乳な女性もスレンダーな女性もいる。ピンクを多く使って描かれた絵もあれば、黒や青を多用して描かれることもある。

 となれば、何らかの理由でたまたまフェミニストの目についたヒロインが、そのフェミニストが「性差別的」だと思っている記号に合致するということは当然起こり得る。たとえば2019年10月に日本赤十字社がキャンペーンに採用した『宇崎ちゃんは遊びたい!』のヒロイン、宇崎花はたまたま巨乳であったことで、例えば下記リンクのようにフェミニズムの槍玉に挙げられた。これは「性的なアイキャッチ」だというのである。

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「性的なアイキャッチ」とは、要するにエッチさで目を惹かせることを目的にした画像という意味である。が、これも前述の『人工知能』表紙の例同様、フェミニズムの見立ては間違っていた。日本赤十字社はエッチさで人目を引くことなど狙ってはおらず、ただ「宇崎ちゃん」のコラボがあることを周知しただけだった。その宇崎ちゃんが元々巨乳キャラであっただけの話だったのである。

 これは過去の他のアニメコラボポスターと比較すれば一目で分かる。別に日赤は巨乳キャラメインの作品や、エッチな要素のある作品を狙ってコラボしているわけではないし、巨乳でないキャラを「性的なアイキャッチ」のために巨乳に描かせるといったこともしていない。

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 当たり前のことであるが、元のキャラが巨乳であればポスターでも巨乳であり、貧乳であれば貧乳であり、男性であれば男性であるだけの話である。日赤は「性的なアイキャッチ」のためにアニメヒロインを使っているのではなく、そのアニメとのコラボキャンペーンを告知するためにキャラクターを使っているに過ぎなかった。

 フェミニズムは、また間違えたのである。

 この2例から改めて分かることは、フェミニスト達には、ある表象が「性差別的な意味を帯びて」(小宮氏の言葉)使われているかどうかを見抜く眼力が全くない、ということである。なにしろ、ポーズが内股であれば「おしっこを我慢している」とありえないクレームを付けて来るのがフェミニストなのである。

 こうした考え方はまだ私の社会のあちこちに見られます。「女の子だからと家事の手伝いをしなさいと言われる(お兄ちゃんや弟は何も言われないのに)」というのは女子学生がよく挙げる不満話のひとつです。「赤ちゃんはママがいいに決まってる」と言って批判を浴びた政治家もいました。こうした発言は「家事育児は女性がするものだ」という考えのもとににおこなわれていると言えるでしょう。
 表象の作成も同様です。たとえば「家族」を描くとき、家事育児をしているのをもっぱら「女性」にするならば、その表象はやはり「ケア役割の担い手」という女性観を前提にして作られています。つまり、家事育児を女性ばかりがしているような表象を作ることは、「ケア役割の担い手」という女性観を前提におこなわれる、数ある現実の行為のうちのひとつなのです。

 小宮氏はもっともらしいことを言っているが、そもそもその「表象」が前提としている「女性観」をひっきりなしに見誤り続けている以上、フェミニズムの仕掛ける「炎上」に正しさがあるなどとは到底言い得ないだろう。

3.確証バイアスの罠

 小宮「先生」は続ける。

 このように考えると、表象の「悪さ」についての考えを少し広げることができます。差別的な女性観を当然の前提としている表象は、それによって「女性とはそういうものだ」という意味づけを繰り返してしまっているがゆえに「悪い」のです。

 だが、このような「意味づけ」が、「炎上」を仕掛けられた作品において本当に繰り返されているのか、フェミニストに判断する能力が実際にはないということは既に述べた。宇崎ちゃんは女性を「性的なアイキャッチ」とする前提のもとにポスターになっていなかったし、『人工知能』のロボットは男女の役割分業を前提にしていなかった。

 なぜだろう?

 フェミニスト達は誰よりもフェミニズムを勉強しているはずなのに、なぜこのように見間違え、素人のオタクたちに簡単に間違いを指摘される醜態を繰り返しているのだろう。彼女らが表象を見る目が、特別に劣っているとでもいうのだろうか。

 結論から言うと、そのとおりである。
 フェミニストとは表象の性差別性のあるなしを判断する眼力に、「特に」劣っている人達の集まりなのだ。

 なぜか。
 心理学では「確証バイアス」という現象が知られている。

ある仮説を検証する際に、多くの情報の中からその仮説を支持する情報を優先的に選択し、仮説を否定する情報を低く評価あるいは無視してしまう傾向のこと。自分の主観や信念を誤って強める可能性がある。迷信や超常現象を信じてしまうメカニズムや、占いや宣託が当たったと認識するメカニズムも確証バイアスで説明しうる部分がある。また自分の信念や予期にそった形で行動することで、自分の予期を達成してしまう現象を自己成就的予言(self-fulfilling prophesy)という。(時事用語事典)

 たとえば血液型性格判断を考えてみよう。B型の人はルーズで自己本位だという思い込みを持っていると、たまたまB型でそういう人に出会った場合にばかり「ほら、やっぱり!」と思ってしまい、そうでないB型の方が多かったとしても、自分の偏見に合致する記憶ばかり印象に残ってしまいがちである。こういう現象は誰しも身に覚えがあるものだ。

 ところで現代の社会で「この世は女性への偏見に満ちた表象で溢れ返っており、そこらじゅうの漫画やアニメやゲームや広告が常に自分達を差別している」という激しい思い込みを持っているのは、どんな人たちだろうか。

 言うまでもなく、それはフェミニストなのである。

 2019年9月にTwitter上で、タピオカを廃棄する『人間』を風刺したアートがフェミニスト達の襲撃を受けたことは『シンカ論:⑳タピオカミルクティー叩き叩き叩き』で触れた。この作品は男性女性いずれにも見える顔立ちであり、なおかつ作者にも性差別の意図など全くなかった。それでもフェミニストたちは「また女がタピオカ捨て犯人にされてる!女が差別されてる!」と噴き上がり、もはや作者本人の説明も周囲の制止も聞く耳を持たなかったのである。

 このようなフェミニスト達の乱視ぶりは、彼女らが敵視するものがとりわけ「オタク」文化・「萌え」文化と呼ばれるものであることからも分かる。

 実際、彼女らが敵視するオタク文化・萌え文化こそ「同じ女性観」で女性を描き続けないジャンルである。この分野ほど日夜、ある女性キャラクターを他の女性キャラクターといかに差別化するか、異なったものにするかに心砕いているジャンルも少ないだろう。

 しかしながらフェミニスト達はひとたび「性差別的だ!」と思い込んだ描写が目に入ると「この描写にはこういう経緯があってこうなっている」「全然違うキャラクターや描写が数多くある中で、その一部が旧来のジェンダーに合致するに過ぎない」といった説明は耳に入らなくなってしまう。というより、そのような訂正そのものが「マンスプレイニング」(男性が女性を見下して偉そうに説明することを意味するフェミニズム用語)として嫌悪の対象なので、ますます聞く耳を持たない。

 なお、本当にマンスプレイニングかどうか、本当に見下して言っているのかどうかは「見下しているに決まっている!」という確証バイアスでこちらも強化される仕組みになっている。

 オタク文化が敵視されるのは、オタクの嗜好や描き方が特に性差別的だからではない。むしろ旧来のジェンダー(すなわち「性差別的」とフェミニストがみなす価値観)に適合する女性もそうでない女性も、圧倒的に様々な女性を描いているがゆえに、各フェミニストの個人的な嫌悪スイッチに触れることが多いからという問題の方が大きいだろう。

4.累積的な抑圧経験は誰にでもある

 特に私が重要だと思うのは、ある表象が差別的な女性観を前提に作られているとき、日頃からその女性観に苦しめられている人にとって、表象はその抑圧の経験との繋がりの中で理解されるだろうということです。たとえば「家事育児は女性がすべき」と言われてその負担に苦しんでいる女性にとっては、女性があたりまえのように家事育児をしている表象は、「ここにも同じ女性観がある」というように自らの抑圧経験と意味的に繋がったものとして経験されるでしょう。

 なるほど。
 ここの小宮氏の指摘自体は、うなずけるものがある。確かに、普段家事を押し付けられていた家事で苦労している女性が、そうでない人よりも家事の描写に敏感であることはありうる。
 が、それは要するに「誰かにイヤなことを思い出させるかもしれない」という事に過ぎないわけで、それは何も差別的な表現や女性に関する表現に限らず、およそどんな表現でも起こり得ることに過ぎない。

 スポーツが苦手なのを学校で馬鹿にされ続けてきた少年は、オリンピックやワールドカップの広告を見ても、その劣等感に悩まされるかもしれない。
 ブス・不細工な容姿のために不遇な扱いを受けて来た人は、男女いずれにせよ、美少女アイドルやイケメン芸能人が雑誌の表紙や広告を飾る姿を見て、容姿がいかに人間評価の価値基準の多くを占めているかを再認識させられ、ますます落ち込むかもしれない。
 老人の暴走車に我が子を轢き殺された親は、車のCMを見ても、またオレオレ詐欺の防犯広告に出て来る老人を見ても、その突然の悲劇の記憶が蘇ってくるかもしれない。
 犬に咬まれて大怪我をしたことのある人は、同じ犬種の愛犬とともに笑っている微笑ましい家族像の写真を見て、その恐怖をまざまざと思い出すかもしれない。
 子供の頃に親から虐待を受けて育った者は、あらゆるジャンルのフィクションにひっきりなしに登場する家族賛美にますます孤独を深め、不幸な境遇を強く再認識するだろう。

 極端な話、地球は太陽の周りを回っているというような純粋な科学的事実の記述でさえ「それを知らなかったことでバカにされたことがある人」の苦い記憶を刺戟するかもしれないのである。
 しかしだからといって、彼らはそれら「イヤな思い出を甦らせる」ポスター・漫画・アニメ・ゲーム等々を、この世からでも「公共の場」からでも、消してくれなどとは言わない。
 そんな要求は明らかな過剰反応であり、正当でも現実的でもないことを「家事を負担に感じている女性」なんかよりずっとずっと不幸な人でさえ知っている。

 なぜ「女性」だけが、なぜ「差別」の記憶だけが、表現によって思い出させられてはいけないのか。

 差別による不快な記憶が、そうでない理由による不快な記憶よりも苦痛が大きいとは一意に言い切れないし、差別が不当であるからといって「差別を思い出すこと」が不当であることには全くならない。

「イヤな記憶を思い出させるきっかけを取り除いてもらう権利」などという人権は存在しない。もしそれが人権であるなら、表現の自由が保証される範囲はゼロになる。人権でない以上、それが公共の福祉であることもありえない。先述した一元的内在制約説によれば、公共の福祉は人権のみによって構成されるからだ。

 誰もが異なる不幸を抱えており、それらを思い出させるかもしれない表現をいちいち排除していたら、この世から全ての表現は消えるしかない。

 フェミニズムをはじめ、一部の歪んだ「反差別」運動だけがそのような特権を要求している。この不思議な特権の由来について、小宮氏はこの記事で一切説明していない。

5.すり替えられた視点

さてそのような視点から、ここでは性的な女性表象について考えてみましょう。

という導入で、小宮氏はラディカル・フェミニストとして知られるマッキノンやドウォーキンを持ち出す。

 性的な女性表象の持つ差別性は、フェミニズムの中では「性的客体化(sexual objectification:対象化やモノ化と訳されることも)」の悪さという観点から議論されてきました。この考え方を知るにあたって真っ先に理解しておくべきことは、それは「エロいから悪い」という考えとはまったく違うということです。
 たとえばポルノグラフィ批判で有名なキャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンが繰り返し主張していたのは、ポルノは「わいせつ(性欲を刺激するもの)」だから悪いのではない、ということでした。マッキノンたちのポルノグラフィの定義には、女性が「人間性を奪われ」「辱めや苦痛を快楽とし」「性暴力によって快感をおぼえ」「特定の身体部部位に還元される」ような「性的な客体として提示されている」という項目が含まれています。要するに、女性を「性的な客体」として提示することが悪いと考えられているのです。
ヌスバウムによれば「客体化」は7つの相互に異なる要素に区別できます。簡単に言えば次のとおりです。
「道具性」:対象を自分の目的達成のための道具とすること。「自律性の否定」:自律性や自己決定能力を欠いたものとして対象を扱うこと。「不活性」:行為者性や活動性を欠いたものとして対象を扱うこと。「交換可能性」:他の対象と交換可能なものとして対象を扱うこと。「毀損可能性」:壊してもよいものとして対象を扱うこと。「所有性」:買ったり売ったりできるような所有物として対象を扱うこと。「主観性の否定」:経験や感情を考慮しなくてよいものとして対象を扱うこと。
 その上でヌスバウムは人を「道具」として扱うことこそが「客体化」の悪さの中心だと考えました。

 だが、これはそもそも「そのような視点」と言えるのだろうか。

 つまり「性的な客体」として提示されている(とフェミニストがみなす)表現は、今まで自分が受けた差別を思い出させて苦痛を与える表現であり、性的な客体として提示されていない性表現は苦痛にならない……というのは本当なのだろうか。

 たとえば小宮氏が先程挙げたばかりの「女性があたりまえのように家事をしている光景」はこれに全く当てはまっていないではないか。「あたりまえのように」だぞ?

 家事を強いられ、その負担に苦しみ、抑圧されている女性が「あたりまえのように家事をする光景」にさえそれを思い出して苦痛に感じる……と小宮氏は言った。

 ならば、別に「人間性を奪われ」「辱めや苦痛を快楽とし」「性暴力によって快感をおぼえ」「特定の身体部部位に還元され」るシーンでなかろうとも、セックスに関連して差別や凌辱に苦しんだ女性は、ごくあたりまえのようにセックスしているシーンであっても同様に苦痛に感じるのではないだろうか。

 ドウォーキンやマッキノン、ヌスバウムらの主張する「性的な客体」とやらと、「差別を思い出させる表現」との一致は、どうも怪しそうである。

6.イラストへの眼力の欠如

6-1.「性的部位への焦点化」
 ここから小宮氏は得意満面、これが「差別的な」萌え絵だ!と言わんばかりにイラストを提示しながら、様々な「フェミニスト的にだめな」描写法を切り捨てるモードに突入する。

 なおこのイラストを描いたのは、前回の『シンカ論:㉔「萌え」というケガレ』で紹介した、「シスヘテ男性の性欲を喚起・満足させるかどうか」で「現実女性とコンテンツを分けられる」と言い放った漫画を描いた人物である。その論がいかに間違っているかも前回解説した。
 さて、今回はどうであろうか。

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顔をフレームから外すような構図などは、女性の自律性や主観性を軽視し、性的部位にのみ価値がある(その点で交換可能な)ものとして描いているという印象を強めるでしょう。

 そうじゃねえ! 

 逆だ!!  逆!!

 もうこの時点で小宮氏には漫画やアニメの技法を読解する能力が無いか、フェミニズムによって完全に狂わされてしまっているかのどちらかだ。
 漫画やアニメの技法において、顔だけをあえて映さないことは、むしろその心情・人格について受け手の想像を強烈に喚起する手法のひとつなのである。顔が見えないからこそ「ヒロインは今どんな表情をしているのだろうか」「彼女はどんな気持ちなのだろうか」と読者は想像力を刺激されるのである。

 描かない・書かないことによって、そこへの想像力を掻き立てる――創作の基本と言ってもいい。

 またそれ以外の巨乳や太ももなどの表現には、せっかくの「エロいのがいけないわけではない」というフェミニズムの言い訳を台無しにしてしまっているに過ぎない。

 いきなりの小宮氏の大ポカであるが、気を取り直して次に進もう。

6-2.「理由のない露出」

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  いわゆる「ビキニアーマー」であるが、これが既にかなり時代遅れの認識であることは他の人がツイッター上で指摘している。

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現実のゲームで描かれる男女(『Fate/Grand Order』より) 

「社会学者の考える女性差別ゲーム」と皮肉を込めて言われたこの女性のイラストは、80~90年代ころまでに多用されたデザインだ。コンピュータゲームは男児・男性向けの消費者が圧倒的多数だったので、女性の美しい身体を見せるキャラクターデザインが喜ばれたのである。

 とはいえ当時すでに、このような過剰な露出衣装は「不自然」なものとして、パロディの対象にもなっていた。たとえば1989年に開始したシリーズ『スレイヤーズ!』に、ギャグキャラクターとして登場している白蛇のナーガ(画像右)などはその一例であろう。

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 そして現在では「インスタ女子」の存在などでも分かるように女性だって誰もがゲーム機(になる端末)を持っているので、男性キャラのヌードも大いに見られるようになっているというわけである。

 では、FGOを遊びギルガメッシュはじめ男性キャラの半裸体に喜ぶ女性たちは「男性を差別」しているのだろうか。もちろんそんなことはない。異性の体を美しく感じることと、差別とは別の問題なのである。

6-3.性的なメタファー

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「性的なメタファー」は、直接性的な行為を描いたり、特定の身体部位に焦点を当てたりするわけではないけれど、メタファーを用いて性的な行為や関係を表現するような描き方です。以前「炎上」した宮城県の観光CMでは、女優の壇蜜さんが亀の頭をなでる描写がありました。ビールやマヨネーズのCMで商品が精液のメタファーになっていると批判されたこともありました。他にも、棒状の物体をペニスのメタファーとして、それとともに女性が描かれることで、性的な行為を連想させるような表現もあります。

 ……頭を抱えてしまう。

 2019年11月16日、「これからのフェミニズムを考える白熱討論会」というものが新宿で開かれた。「表現の自由」をメインテーマとするネット論客・青識亜論氏と、フェミニストの石川優実氏の対談イベントである。

 このとき青識氏は過去の「炎上」事例を様々に紹介したのだが、特に笑いを誘ったのがこの一枚である。

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 これが炎上したことの紹介がなぜ笑いを取ったのかというと、あまりにも理由がバカバカしかったからである――「楽器は男根のメタファー」だというその理由が。このとき巻き起こった笑いは石川氏やフェミニストにとって相当屈辱的な「晒し上げ」と映ったようで、まるで青識氏が邪悪な嘲笑家であるようにあちこちで逆恨みを述べていた。

 しかし今や我々は、この種の話がネタでも冗談でもなく、フェミニスト学者にとってさえ本気であることをまざまざと見せつけられている。

 まあ「棒状の物体をペニスのメタファー」はまあいい。フロイト先生もそう言っている(何のフォローにもならないが)。

 しかし小宮氏やこのイラストレーターは、アイスキャンディーを食べたことがないのだろうか。アイスを横向きに持っているのも、髪を耳に掛けるのも、ごく一般的な手や髪を汚さないための仕草である。別に無理にエロティックな表現と理解する必要はまったくない。
 小宮氏たちは知らないかもしれないが実は、アイスは放っておくと溶けるのである。

 さらに小宮氏らは、食べる時の表情にも注文を付けて来る。「性的な連想をされていることに無自覚な表情・態度」が駄目なのだそうである。そもそも現実の女性はたぶんアイスを食べる時に「私、いま性的な連想をされてる!」と思いながら食べてはいないだろうし、そんなことに「無自覚」な方が当然の描写なのではないだろうか。

 なお「髪を耳にかける仕草」については、こういう説もツイッター上ではあるらしい。まとめてくれた人がいるので紹介しよう。

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 ③についてだが、そもそも「顔が見えるようにしている」というのなら、AVの介在は不必要ではないだろうか。漫画でだって普通は顔が見えた方が良いのだから。
「AVのフェラシーンで顔が見えた方が良い→髪を上げさせる→それを漫画が真似している」などと想定する必要は別になく「顔が見えた方が良いのは漫画でもAVでも同じなので、どちらも髪を上げている」で済むはずである。

必要以上に突き出した舌」とあるのもおかしい。私はこのイラストのキャラクターが「必要以上に」舌を突き出しているとはあまり思えない。というのは、舌を出してアイスに届かせるのではなく、アイスの方を口に近づけたら、溶けたアイスは彼女の胸に垂れ落ちて、服を汚すことになるだろう(そしておそらくそれを見たフェミニストは「女性の体を汚す精液のメタファー」と解釈することだろう)

 つくづくフェミニズムはおっぱいに優しくない思想である。

6-4.「意図しない/望まない性的接近のエロティック化」

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 ツイッター上でもフェミニストがよく言っているが、どうもフェミニストたちは「ラッキースケベ」に厳しい。
 ラッキースケベとは、主人公(又はそれに準ずる男性キャラクター)が、女性キャラクターと衝突したことで不意にバストなどに触れてしまう、転倒した女性の下着が見える、何らかの事情で着替え中の女性に遭遇してしまうなど、主人公にとって不可抗力の事情で「エッチな」場面が受け手に見えることになる展開を意味する俗語である。
「お色気シーン」は提供したいが、さりとて感情移入されるべき主人公を性犯罪者として描くわけにもいかない。そういう事情が産んだ作劇上のテクニックである。

 フェミニスト達はこれを極端に嫌う。いわく、このような場合に主人公たちがヒロインに驚かれたり怒られたり殴られる程度で済まされるのは、性犯罪を軽視していてけしからんというわけだ。

 このような描写が痴漢や覗きなどへの抵抗感を弱め、性犯罪に走らせるというフェミニストも多い。しかしそもそも、こういう漫画やアニメが世界で最も盛んであるはずの日本の性犯罪は圧倒的に少ない(し、よくフェミニストが言うように認知されていない「暗数」(隠れた性犯罪)が日本にばかり多いなどという根拠もどこにもない)。
 また、故意に女性の身体に(同意なく)接触したり着替えを除いたりすることが「悪」として作者読者に認知されているからこそ、ラッキースケベという手法も生まれたわけである。ラッキースケベな場面を見たからといって、ラッキースケベでもなんでもない故意の性犯罪が正当化されるというのも飛躍が過ぎるであろう。

 現実の性犯罪の増減はともかく、描かれる女性側のショックや「覗いた側・触った側」が受ける制裁が、現実の性犯罪に比べて小さいともフェミニストのよく言うことである。
 が、これもそもそも故意のない行為が故意の犯罪に比べて罰則が小さいのは当たり前であるし「現実なら犯罪になることでもフィクションの世界ではスルー、あるいは軽いしっぺ返しで済む」ことも、別に性的なことに特有の現象ではない。

 引用したツイートで触れられているドラえもんにしても、のび太はジャイアンに日常的に(時にはバットで)殴られていても基本的な自認は友達であるし、神成さんも窓ガラスを割って野球のボールが飛び込んでくるなどという、いつ大怪我をしてもおかしくないことを繰り返されても叱ってガラスを弁償させる程度で許しているわけである。

 太宰治『走れメロス』では、人間不信から妻子や臣下などを次々に殺した邪智暴虐の王ディオニスが、メロスの友情に感動して改心しただけで「王様万歳」と群衆に叫ばれ、何の罰も受けない。というよりメロス自身もその王を殺そうとして捕まったのだが、もちろん無罪放免である。フェミニスト達はまずこんな作品が国語の教科書に載っていることを糾弾してから「ラッキースケベ」に文句をつけるべきであろう。

 フィクションの世界では、別に性的なアクシデントばかりが「女性差別」的に許されているわけでもなんでもないのだ。

 ラッキースケベそのものの批判だけでなく、表象の描き方についても触れておこう。イラストの解説ではこうなっている。

恐怖や強い嫌悪などではなく、羞恥などの対して嫌がってないような表情

 そうだろうか。
 羞恥が「大して嫌がっていない」感情なのかどうかは大いに疑義があるが、それは措いておこう。私の記憶する限り、いわゆる「ラッキースケベ」で裸を見られたりした女性が恐怖や強い嫌悪、怒りなどを示すケースは決して少なくない。ギャグ漫画などでも、先にキャーッと悲鳴を上げられ、直後に殴られたり物を投げつけられたりなど明らかに嫌がっているという描写が定番のように思える。

 より細かく言えば、おそらく現実に何らかのアクシデント(更衣室の壁が破壊されるなど)によって、男性に着替えを見られた女性は、

 ①驚き → ②羞恥 → ③嫌悪 → ④恐怖または④'怒り

 という感情の変遷を体験するだろう。
 実際の漫画ではどうか。着替えを覗かれた女性の表情は「怒り」「驚き」「羞恥」「嫌悪や恐怖」など様々に描かれている。

 つまり、いわゆるラッキースケベ場面における女性の表情描写が「恐怖・嫌悪でなく羞恥」を描いているという理解は間違いで、「恐怖・嫌悪に先行する羞恥」という理解が正しい。

 表情が驚きや羞恥である場合も、それは決して「女性は着替えを覗かれても大して嫌がらない」というメッセージなどではなく、単に短時間のうちに変遷する感情の、どの瞬間を切り取って描いているかという違いに過ぎないのである。

6-5.「利用可能性/受動性の表現」

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 手を上げていると、降ろしてるよりも無防備なのだろうか?
 格闘技なんかではガードというと大抵手を上げていると思うが。また、前掲した図1では手を挙げていないが「防備ができている」と小宮氏らは評価してくれなかったようである。してみると立っているか寝そべっているかで違うのだろうか。

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 あと、寝そべっているのなら添い寝でもしていない限り、大抵は上から見ることになると思うし、添い寝してるならその方が無防備(略)

 そしてここでもまた「表情」が問題にされている
「緊張や戸惑い、緊張の中に期待や覚悟など(受け入れる用意)が混ざった表情」だというのだが、この絵はそうなのだろうか? 画力の問題なのかもしれないが、どうもいまいち筆者にはこの絵だけから、そこまでのメッセージ性を読み取れない。むしろ「おしっこを我慢している」表情だと言われた方が、少なくとも駅乃みちかよりは納得できる

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(「おしっこを我慢してる様だ」とクレームを受けたキャラクター)

 これまで見た小宮論考のイラストでは、何度も表情が問題にされてきた。着替えシーンでは羞恥の表情がいけないとされ、アイスを食べるシーンでは性的連想に無自覚な表情がいけないとされ、顔を映さない描写もいけないとされ、今度は「緊張」「戸惑い」「期待」「覚悟」「カメラ目線」と一気に5つもいけないことになった。一体どんな表情なら良いというのだろう。

 ここでもう1つ、比較資料を挙げよう。
 2018年に発表された『HUGっと!プリキュア』の抱き枕カバーである。これに対してフェミニスト達が噛みついたのであるが、この時に噛みつかれた内容は、小宮論考と全然一致していない。

 見ての通り、プリキュア達は別に「緊張や戸惑い、緊張の中に期待や覚悟など(受け入れる用意)が混ざった表情」などという、何やらいかがわしそうな顔はしていないし、片手を挙げているのも5人のうち2人だけである。だからといって、はな(桃)やほまれ(黄)が特別「無防備」にも見えないし、裏表でカメラ目線だったり目を閉じていたりもするが、カメラ目線の方が特別ケシカランようにも見えない。
 実際、少なくとも筆者の観測範囲において、Twitter上でクレームを付けたフェミニスト達に、2人が手をあげていることに注目して文句を言った者も、目を開けている方のイラストに「カメラ目線だ!一人称視点だ!」と言っていた者もいなかったのである。

 私にはこの抱き枕が槍玉に挙げられていた当時、彼女らは単に「抱き枕」=オタク男が使うエロいもの、という先入観で攻撃していたように見えた。その根拠としていたのも、多かったのは「値段」であった。この抱き枕カバーは定価8,000円だが、その価格がフェミニスト達には「子ども向けにしては高価すぎる。エロのためなら大金を出すオタク男を狙ったものに違いない」と映ったようなのである。
 そしてそれさえも、単なる偏見であった。実際には8,000円程度は、抱き枕としても、この手の番組用商品としても法外な値段ではない(例えば下記リンクの商品のメーカー価格はそれぞれ、11,000円と9,680円である)。

7.「安全」なものなどない。

 つまりマッキノンらの「モノ化」とかヌスバウムの7つの要素とか関係なく、フェミニスト達はその時々で気に入らない表現に火をつけて回っているわけだ。
 ドウォーキンやマッキノンやヌスバウム、そして小宮氏のような「アカデミック」な地位にいるフェミニスト学者達は、しばしば自分なりの理屈で表象を「燃やす」ことを擁護しようとする。しかしそれは多くの場合、実際のフェミニスト達の行動を理論化しているのではなく、自分で勝手に作った概念を語っているに過ぎない。

 彼らの言っていることを守ったからといって、クレームや迷惑行為をしてくるフェミニストがいなくなるわけでもなんでもないのだ。

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 たとえば「西瓜をモチーフにした水着は、女性を『食う』(セックスの隠語)ことを表現する性的客体化だ」とか「ドーナツの浮き袋は『女性は甘いものが好き』というステロタイプを強化している」とかなんとでも言えることだろう。

 また、右から2番めの少女の腕の組み方に注目して頂きたい。何かを思い出さないだろうか?

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 こんなイラストで「これだったら安全ですよ! フェミニズムは理性的ですよ! 罪もないものを焼いたりしませんよ!ちゃんと理由があるんですよ!」と学者先生に語られても、そんなものは全く何の保証にもならない。そのことは、前回のシンカ論でいやというほど例示したはずである。

 彼女らのうちの誰かがひとたび、「ねえねえみんな!これってキモいよねー!!」とツイッターで叫ぶだけで、彼女たちはこぞってこの手の、いやこのイラストそのものにさえ、平気で火を放つことだろう。

 小宮氏は言う。

要するに女性表象の問題を論じようと思うなら、表象作成/理解に用いられている技法、その技法が表現する女性観とその歴史的・社会的意味、そして表象の提示される文脈について、自覚的な読解をした上での議論が求められるようになるのです。

 筆者の見るところ、そのための素養に最も劣っている集団のひとつが、ほかならぬフェミニストであると思う。なぜなら彼女らは、こうした技法や歴史の知識が実際には無いのみならず、フェミニズム流の誤った説の蓄積や、「差別してるんだろう!」という被害者意識によって、単なる素人よりもさらに感覚が狂ってしまっているからだ。

ここで書いたことは、表象についての考察の出発点に過ぎません。表象を作り/理解することが、言葉を発し/理解することと同じかそれ以上に(良くも悪くも)豊かな意味を湛えた社会的営みであることを、私たちは本当はよく知っているはずです。女性表象について、それがいったい誰のどのような視点から作られているのかに注意しながらその意味を読み解くことの必要性を、フェミニズムの議論は教えてくれているのです。

 小宮氏、最後はいいこと言った(評価)。

 その通りである。
 フェミニスト達がこれまでやってきた議論や主張は、たしかに表象の理解が「誰のどのような視点から作られているのかに注意しながらその意味を読み解くことの必要性」を、私たちに強く教えてくれている。

 その試みの、大いなる失敗例としてではあるが。

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