THEピアニスト フジコ・ヘミング
フジコ・ヘミングさんが亡くなった。
ご高齢であるし、最近はずいぶん足腰が弱ってしまったようで、体全体がすっかり衰えてしまったように見えた。だから致し方ないことと思う一方で、「フジコさんなら100歳記念コンサートをやってくれるかもしれない」とも思っていた。
やはり誠に残念である。
こう見えて幼い頃よりピアノを習っていた僕は、皆さま同様にフジコ・ヘミング(以下敬称略)との邂逅は衝撃であった。むろん、NHKのあの番組のおかげである。『受信料 払ってよかった これだけは』と一句詠みたくなる。
早速チケットを入手した。上野の東京文化会館であった。2階席であったが非常に見やすい席だった。そうして初めてのフジコ・ヘミングの特にタマゲタ曲目は、リストの「ため息」であった。ひとつひとつの音が、各種様々の宝石のようだった。本当にビックリした。
すっかりフジコ・ヘミングのファンになった。チケットを何枚手に入れたか、もう覚えていない。10回はゆうに超えている。
多くのファンがいたのも事実だが、フジコ・ヘミングの演奏に文句を言う人がいたのも事実だった。
自分で言ってしまうけれど、かなりピアノが上手だった僕は(社会人になってからピアノを弾かなくなったので、今では指がまったく動かない)たくさんのピアニストを見聞きしてきたが、フジコ・ヘミングのピアノほど興奮したのは空前絶後、後にも先にも無い。そう、僕にとってフジコ・ヘミングのピアノは興奮するのである。
「フジコさんのピアノは癒される」との声もあるが、その音色は僕の細胞を刺激し、血沸き肉躍る状態にさせるのであった。あれは4月だったか5月だったか、爽やかな気候の夜の演奏会だったが、終演後、会場から出た僕は汗が吹き出し止まらなかった。
それなりにピアノの勉強をしているこの僕にこれだけのインパクトを与えるピアニストを、あーだこーだと批判する連中は、ウルトラトンチンカンスーパーマックスユニバーサルと言わせてもらおう。
しかしながら、ミスタッチが多いことは否定できない。むしろ、なまじピアノがわかり、かつ、自身も弾いたことがある曲目ともなると、ミスタッチには瞬時に脳が反応する。
時にフジコ・ヘミングはミスタッチをきっかけに演奏が止まってしまうこともあり、少し前の楽章から弾き直すなんてこともあったから、やいやい言いたくなる気持ちはわからなくもない。
僕の知る限りでは、青柳いづみこ氏、中村紘子氏というプロ中のプロは、その著作の中で、当たり障りのない表現でフジコ・ヘミングの演奏について書いている。あげつらうことも褒めることもできない難しさが文章から伝わってきたものである。
さて、ここ数年は仕事が忙しく、仕事が終われば一刻も早く帰宅したいし、休日は家でゴロゴロしていたいという気持ちが強くなり、フジコ・ヘミングの演奏会からは足が遠のいていた。
それでもCDやDVD、各メディアはチェックしていたので演奏は聞き続けてきたが、演奏はますます不安定になっており、ファンである僕は、正直言って、聴いていられなかった。フジコ特有のテンポも、良く言えば「フジコ節」だし、悪く言えば「単なる衰え」であった。
音には力が無く思えた。
「これを演奏会で、生で、直で聴いたら、途中退出してしまうかもしれない」から「忙しくて演奏会に行けない」のは「僕にとって悪いこと」ではないと考えていた。
そこへ、フジコ・ヘミングの死去の知らせだった。
はじめ、フジコ・ヘミングの公式LINEに着信があったので、新しいグッズかCDの発売かしらと思ったら、何やら長文の画像が貼られていた。果たして嫌な予感はその通りであった。
僕の記憶の「最高のフジコ・ヘミング」のまま、フジコ・ヘミングは天国へ行ってしまった。僕にとってはこれでヨカッタ。フジコ・ヘミングには感謝、感謝である。多感な10代、20代に、ずっとピアノを届けてくれていたから。
僕の「フジコ・ヘミング論」は、本が一冊書けるくらい長大なので、今日はここまで。もう腰が痛い(笑)
これは、2004年…すなわち20年も前!!に演奏会後、出待ちをしてフジコ・ヘミングさんに頂いたサインである。フジコさんの著作の表紙をめくったところにお願いしたら、カバンから口紅を取り出して塗り直し、キスマークまで付けてくれたのである。
かつて、フジコさんは「いつか天国に行ったら、きっとショパンやリストは、私のピアノを聞いて、”そういう弾き方もいいね”と言ってくれると思う」というようなことを言っていた。
天国ではショパンもリストも、ご両親も弟さんも、みんな待っていて、楽しくお喋りしていると思う。
よし、次はフジコ・ヘミングのおすすめCDについて書くぞ!!!お楽しに!!!…って誰が待っているのだろう、いや、いない(反語)。というところで、今回は以上。
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