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20220721ワークショップ④豊平

開催日時:2022年7月21日 13:30~15:30
場所:グレイスヴィルまいづる-東京(Zoomオンライン)
内容
4人の参加者とそれぞれ1対1で砂連尾さんとワークショップ。
1. Kさんと1対1で20分程度
2. AKさんと1対1で20分程度
3. KKさんと1対1で20分程度
4. Aさんと1対1で20分程度

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豊平豪(文化人類学・torindo)

 今回、砂連尾さんがAさんとのワークショップについてくわしく書いている。Aさんはリアルでもオンラインでもダンスワークショップに参加してくれている常連さん。
 以前から歌を唄ってくれたり、声をはってくれたり。
 もちろん認知症の人なので、砂連尾さんとは毎回出会い直しているんだと思う。そして、確かに元気がなくなってきた。

 そんなAさんの今回の動きを砂連尾さんは「ルーティーン」と書いた。ルーティーン、つまり「繰り返し」にみえるのは、3回~4回と歌われた2曲の歌と、「あーあ」という脱力されたため息ともつかない声が曲の間に発せられたからだ。

 砂連尾さんの動き、発話に呼応し、曲→声→曲→声→曲、と繰り返されるAさんの行為。

 とてもゆっくりした運動だったけれど、僕らはそこにはっきりと似た部分を見出すことができた。わざわざ相違点を探す気にはならない。

 先日、映画監督の友人とお茶していたら、「あだち充の漫画は小津安二郎の映画に似ている」という話になった。彼曰く、小津安二郎作品にもあだち充作品には「繰り返し」と「類似」が重要だという。類似した画角、シーン、構造、セリフ、背景。どちらも同じ作品内に頻出する。

 たとえば、あだち作品のなかで起きているドラマはなかなかハードだ。
双子の弟が、恋人が、母が、友人が夭折する。でも、そのこと自体はもちろん、残された人々の日常も「淡々と」描かれる。淡々と感じるのは、それらがすべて作品内世界の日常の類似で描かれているからだ。上述したように、類似した画角、シーン、構造、セリフ、背景の繰り返しによって、これでもかと言わんばかりに、淡々さが強調される。

 そこ結果、どんな出来事もすべからく日常のなかに埋没していることが伝わってくる。どんな悲劇も、何が起こっても、それは日常の延長にあるだからこそ切なくなる。日常の延長にない出来事が人を真に切なくさせることはない。

 ぼくはそんな作品を読むように、Aさんの今回のルーティーンを第三者として眺めていた。繰り返されているようにみえるAさんの行為という出来事は、ぼくとAさんと砂連尾さんと浦岡さんの日常に埋没していた。それはほんとうに作品のようにみえた。

 浦岡さんの掛け声によって繰り返し行為は止まる。それでもAさんは手を伸ばし、画面の向こうの砂連尾さんと握手しようとする。

 ほんとうに切なく、気づいたらぼくは息をひそめてじっと眺めていた。

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