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『泉御櫛怪奇譚』第五話

第五話『拝み虫の鎌 恩送りの櫛』
原案:ととやす堂
著:紫煙

――『情けは人の為ならず 己が心の慰めと知れ』とは、新渡戸稲造の有名な詩でございますが、この言葉……何も、人間の為だけとは限らないことをご存じでしょうか?
鶴、亀、獺、狐……長崎の方では、なんと蛙が恩をお返しする昔話があるとか、ないとか。
本日は、貴方に珍しい恩返しのお話を、お聞かせいたしましょう……。


 北風が足を通り抜ける。山野の錦が鮮やかに色づく頃のこと。
 都心から、電車を乗り継いでやっと辿り着く大きな大学病院のロビーで、駿人は落ち着かない様子で椅子に座っていた。右脇には仕事終わりと思われるビジネスバッグとスーツの上着。左脇には可愛らしい薄桃色の旅行バッグを大事そうに抱えている。
 ロビーの放送を気にしながら、駿人はアイフォンの画面を両手で操作する。
【今ロビー】
【もう直ぐ着くよ】
 連絡用のアプリにコメントすると、直ぐに既読マークが付いた。返事の代わりに送られてきたのは、可愛らしい猫の【了解】スタンプ。駿人は綻ぶ頬を隠すことなくアイフォンを優しく撫でた。
「やぶきさーん。矢吹駿人さーん」
 放送で駿人の名前が呼ばれた。受付の看護師の声につられて跳ねるように席を立つと、手袋と帽子とマスクを手渡される。
 駿人は緩んだ顔のまま、歩き慣れた病院の廊下を速足で通過して行く。すれ違った看護師たちは、彼の表情を見ても特段不思議に思う様子もなく、
「あら、今日は矢吹さんが来ているんですね」
「奥さんの臨月が近いからって、毎週来ているみたいよ。ホント、最近では滅多に見ない愛妻家よねぇ」
「私もあんな旦那さんに巡り合いたいです……うぅ」
 と、彼の背を見ながら噂するのだった。
 駿人は長いエレベーターの中で渡された物を身に着けると、旅行バックから大きなビニール袋を取り出し、仕事用の荷物を全てその中に詰め込んだ。
 向かった先は、産婦人科の階の入院病棟。手術室に一番近い病室の前で立ち止まると、名札に書かれた【矢吹 姫奈】の文字を見て扉を開けた。
「ひな! 姫奈、ただいま!」
 病室のベッドの上にいたのは、体の節々をギプスで固定された妻の姫奈だった。左腕には素人には分からない難しい機械へと繋がれた測定バンドのような物が巻き付けられており、如何にも病人。と言った様子ではあるが、本人は至って元気そうな表情で大きいお腹を撫でていた。
「駿人君! お帰りなさい、今日もお疲れ~」
 姫奈は固定された首を労わるようにゆっくりと身体を駿人の方に向けると、変わらない笑顔を向けてくる。
「調子はどう?」
「大丈夫! 今日は、調子良いんだよ。朝の診察で、先生も今日は熱出てないね。大丈夫だねって」
 駿人がベッドの周りを掃除する間、姫奈は会っていなかった時間を埋めるように話し続ける。
「駿人君のお義母さんが来てくれたよ。あと、やっちゃん覚えてる?高校の頃同じクラスだった……」
「え~誰? 矢島さん?」
「そうそう! やっちゃんも結婚するよって、わざわざ言いに来てくれて」
「へぇ! 今、顔思い出した。おれの前の席にいた、女バレの部長か」
「そうそうそう!」
 楽しそうに話す姫奈の隣で、駿人は旅行バッグの中の着替えを一式入れ替えると、ようやくベッドの横にあるパイプ椅子に腰を落ち着けた。姫奈がベッドのリモコンを操作して上体を更に起き上がらせると、初めて顔を曇らせて彼の顔を覗き込む。
「あのね、やっぱり赤ちゃんが動くたびに、体中が痛くなっちゃって、鎮痛剤の量が減らないの……だから、最初の陣痛には気づけないで、そのまま破水しちゃうって……」
「そっか……大丈夫。先生が、お腹の子には影響がないヤツを選んでくれたんだし、帝王切開のレクチャーだって何回も受けただろ?」
 駿人はそう言うと、姫奈の顔を両手で包んで、柔らかい頬をもにもにと解した。指定難病を抱えた姫奈にとって、お産は文字通り、命を賭けた選択だった。今日まで何度も過酷な日々を過ごしてきた彼女を、駿人はいつもこうして元気づけてきたのだ。
「今は少しでも姫奈が元気でいてくれるだけで、おれは嬉しいんだよ。今日も笑顔でいてくれてありがとう」
 マスクを外さずに、姫奈の額に優しくキスをする。姫奈は照れくさそうに笑うと、ゆっくりと首を伸ばして駿人のマスクにキスを返した。
「えへへ。どぉいたしまして」
「うん。それじゃあ、今日も髪、梳かすよ」
 駿人はベッドの下からブラシと大きなぬいぐるみを取り出すと、そっと姫奈の体を支えて手際良くベッドを倒した。ぬいぐるみを姫奈の背中と駿人のお腹でサンドイッチにして背もたれの代わりにすると、ひとまとめにした彼女の髪を丁寧に解いていった。
「髪、もう姫奈の腰くらいまであるんじゃないかな? 元から長かったけど、大分伸びたよね」
「ねー。安産祈願のおまじないだから伸ばしているけど、お風呂入るとき大変なの」
 姫奈はそう言って、横に流れた髪を一束摘まんで傷んだ毛先を気にしている。懐妊した時から切らずにいる為、カラーリングした髪の境目も目視できる。
「薬とかの影響もあるみたいなんだけど、枝毛がね、凄いの!」
「枝毛って、これ?」
「ああ! 裂いちゃダメだよ! 更に髪が傷んじゃうんだから」
「ふはは。大丈夫、しないよ」
 丁寧に髪を梳かす駿人に対し、姫奈は気持ちよさそうに目を細めると、お腹を撫でて、まだ見ぬ我が子に話しかけた。
「よかったねー赤ちゃん。生まれてきたら、パパが毎日髪を梳かしてくれるからねぇ……」
 舞い棚には女の子用のおくるみやぬいぐるみが置かれている。駿人の母親が置いていったお土産も、乳児用のピンクの靴下だ。お腹の子の性別が判明しているのは、誰の目から見ても明らかだった。
「ふふふ。みんなせっかちだよね。私たち何も用意してないのに、オムツも哺乳瓶もベッドも揃っちゃった」
「おれの方は初孫だからな。母さんが余計に張り切ってるんだろ。勝手にやってることだから、姫奈はお礼とか気遣いとか、そう言うの大丈夫だからな。自分とお腹の子のことだけ考えてて」
「それ、お義母さんにも言われた。私たちが勝手にやってるだけだから~って」
 仲睦まじい時は瞬く間に過ぎていく。面会の時間が終わると、駿人は名残惜しそうに病室を出た。エレベーターの中で身に着けていた物を全て外し、ロビーに備え付けられた専用のごみ箱へ捨てる。実際、姫奈の病気に対して、彼がここまでする必要は医学的に無いのだが、ただでさえ人の多い事務所で働いている駿人自身が「やれるだけのことは、根拠がなくてもやっておきたい」と志願したものだ。
 その後、担当の医者と二つ三つ話した駿人は、病院を出て再び長い電車の帰路に着く。しかし、彼は真っ直ぐ帰らずに、道の途中にポツンと建てられた無人神社へ足を運んだ。
 出勤前とお見舞いの後の一日二回。この、なんの縁起かも分からない神社で安産祈願の参拝をするのが、駿人の日課の一つだ。
(神様。どうか、姫奈が無事に子どもを産めますように。元気な我が子に、会えますように!)
 どこで調べたのかは既に分からないようだが、きちんと三回お願いを念で唱えて、丁寧にお辞儀をする。これが、彼の日常だった。


 ある日の休日。いつもより冷たい朝日に起こされた駿人は、テレビの天気予報を見ながら病院へ行く準備をしていた。
(今日からめっちゃ冷え込むんだ……温かい恰好していかないと……姫奈にひざ掛けとか持って行った方が良いかな?)
 姫奈と二人で選んだこの小さなアパートには、病院で受け取った子供用のプレゼントや、懐妊祝いの品がそのまま置かれている。一人暮らしで身に着けた最低限の家事は出来ているが、それ以外には手が回っていないようだ。
(……今度、お母さんに連絡して、片付け手伝ってもらおう)
 そんなことを考えながら、押し入れの中にあるひざ掛けと毛布を引っ張り出す。除菌スプレーをかけてから旅行バッグに仕舞うと、駿人は冷蔵庫から食パンを取り出して、齧りながら身支度を始めた。
 いつもより早く外へ出ると、キンと冷えた風が駿人の鼻を噛んだ。身震い一つしてバッグを体にくっ付け、足早に駅までの道を進む。
 当たり前のように神社の鳥居で足を止めると、今日は珍しく先客がいた。すれ違うように神社から出てきたのは、芸能人がプライベートで掛けているようなサングラスをした、長身の男性だ。
「あ、おはようございます」
 神社に向かって一礼をするついでに、その男性に会釈をする。すると、男性は少しだけ足を止めて、優雅に頭を下げた。
「これはこれは……おはよう、ございます……」
「っ!」
 耳に鳥肌が立つ程の声に、思わず男性を二度見する。
(うっわ……落ち着いた綺麗な声だったな……本当に芸能人か何かなのかも……でも、あんなに派手な格好でお忍び? しかも、こんな小さな神社に??)
 男性の歌舞伎のような派手な着物は、駿人が知る限り他に着ている人を見たことがない。しかし、不思議と彼が身に纏っている姿は、なんの違和感も感じられなかった。
「はぁ~……あんな人も居るんだな~……」
 ひとしきり堪能して、慌てて神社の境内へ向かう。いつものようにお賽銭を入れ、丁寧に手を合わせる。
(おはようございます神様。どうか、姫奈が無事に子どもを産めますように。元気な我が子に、会えますように……!)
 参拝を終え、これでようやく病院へ行けると駿人が思った、その時だった。
「……あれ?」
 車通りの少ない車道の真ん中で、木の葉のような影に目が留まる。ユラユラと揺れていたのは、茶褐色のカマキリだった。
(枯葉かと思ったら、違うや……。そう言えば、この時期ってやたらとカマキリ見かけるよな)
 駿人の視線を、一台の車が通り過ぎた。カマキリは運良く巻き込まれなかったものの、逃げようにも逃げる先が分からない。といった様子でユラユラと体を揺らしている。普段は猛威を振るっているであろう両手の鎌も、心なしか不安そうに折りたたまれている。
(う~ん……帰りに死体と再会しちゃったら、寝覚めが悪いしな……予定の電車までは時間もあるし……よし!)
 駿人は左右を確認して車道に出ると、慌ててカマキリの所まで駆け寄った。カマキリは突然の大きな存在に驚いたのか、今度は鎌を大きく広げて威嚇してくる。
「ちょちょ、こっわ! えっと……カマキリってどうやって掴むんだ?」
 駿人はカマキリと同じように両手をバタバタさせながら、結局『捕まえる』というよりも『包み込む』といった感じで捕獲に成功した。虫を捕まえるのはほぼ初めてで戸惑ったが、手の平のカマキリは威嚇こそしたものの、逃げることなく彼の肌に全ての足の爪を引っかけて大人しくしている。
「良かった……えっと……それで、と……」
 駿人は急いで歩道に戻り、どこか安全な草陰や細木はないか辺りを見渡す。すると、神社からそれ程遠くない距離に、不思議な店を見つけた。
(あれ? こんな所に店なんてあったかな?)
 駿人は首を傾げながら、吸い込まれるように店の前まで足を進める。開店前のようだが、ガラスの扉から店内を見る限り、そこは櫛の専門店のようだ。
(へぇ~……覚えていたら、今日の病院帰りに寄ってみようかな。姫奈の櫛も買ってあげたいし)
 そう思いながら、店の前に置いてあった鉢の中にカマキリをそっと放す。駿人がよく見ると、カマキリのお腹は今にもはち切れそうで、どうやら産卵前のメスのようだった。
(ああ、カマキリの産卵時期って今くらいなのか。知らなかったな……虫も人間も、子どもを産む時はお腹がパンパンになるんだな……大変だよな)
 駿人はふと姫奈の臨月を迎えたお腹を思い出して、恐る恐るカマキリの腹を指で撫でてあげた。
「お前も、元気な卵を産むんだぞ。頑張れ!」
 小声でカマキリにエールを送って、今度こそと、バッグを持ち直す。駿人は改めて地面を踏みしめ、小走りで病院へ向かった。


「そんなことがあったんだ……へぇ~」
 病室に着いた駿人は、早速、姫奈に今朝の話を聞かせた。姫奈は髪を梳かされながら、すれ違った男性に興味があるようで、
「ねえねえ、派手な着物ってどんな感じ? 振袖みたいな?」
「振袖よりも男向けって感じ? なんだろう……あの、時代劇のさ悪人に見せる刺青あんじゃん。あんな感じの、青い生地に桜錦の……」
「おお! めっちゃ豪華だ! 声優さんみたいな声ってのも気になるな~。高い感じ?低い感じ?」
 と、ずっと駿人に質問をし続けている。駿人はなるべく詳しく説明したいのだが、刹那の出会いを具体的に思い出せるはずはなく。
「え~? 分かんないよ。おれより低いけど、でも低すぎるってわけじゃなくて……」
「顔は? イケメンだった?」
「サングラスかけてたから分からないよ。も~……質問攻めは止めてくれ」
「えへへ~。だって、聞けば聞く程不思議なんだもん。ねえねえ! その人、実は神様とかじゃないかな?」
「そんなことないよ。だって足あったよ?」
「神様は幽霊とは違うよ~……っく!?」
 姫奈はころころと笑うと、突然苦しそうにお腹を押さえた。
「姫奈!? 姫奈、大丈夫?」
「うん……最近ね、いっぱいお腹を蹴ってくるの……ふ、くっ……えへへ、早く出たいよぉって、バタバタしてるのかも」
 何度か息を整えて、嬉しそうにお腹を撫でる姫奈に、駿人はブラシを置いて彼女の背中をさすった。腕を伸ばしてお腹に触れると、我が子に向かって心配そうな声を出す。
「頼むよ~赤ちゃん。嬉しいけど、ママが苦しいのはパパ嫌だよ~」
「大丈夫。ママ苦しくないよ~。元気だよって、いっぱい教えて良いんだよ~……っくぁ!」
 お腹の中の命は、駿人の不安を跳ね返すように彼が触れた部分を蹴り上げる。薬が効いている影響で激痛には至らずとも、姫奈の負担になっていることが声で分かる。
「はぁ~……姫奈、頑張れ、頑張れ~!」
「うん! 頑張るよぉ~!」
 努めて明るい声でガッツポーズをする姫奈の背を、駿人は抱きしめることしか出来なかった。


 数日後、外はみるみるうちに冷え込み、天気予報は軒並み曇り空を示している。ニュースキャスターは都心でも雪が降る可能性があるとコメントしているが、半月前まで猛暑日だったことを考えると、そこまで大袈裟に構えることもないだろう。駿人はいつものように食パンを齧りながら仕事の支度をして、安物のマフラーをしっかり首に巻いて家を出る。
 神社で参拝を終わらせて振り返ると、珍しく人の気配を感じた。視界に入る鳥居の下に、細長い女性が立っていたのだ。女性は駿人にとって珍しい和装に包まれており、帽子の代わりに手ぬぐいで頭をすっぽり包み込んでいる。
 駿人が軽い会釈をして通り過ぎようとしたその時、女性の体がユラリと動いた。
「もし……そこの方」
「え?」
 駿人が反射的に振り返ると、女性はユラユラと視線を揺らしながら、小走りで駿人に近づく。向かい合った女性は、鋭い八重歯が特徴の、釣り目がちな面立ちをしている。
「ああ……やっとお会い出来ました! 先日、貴方に助けられたモノです」
「お、おれですか?」
 女性は歓喜のあまり、黒目の大きな瞳をいっぱいに見開いて駿人を見つめているが、彼には女性を見た覚えもなければ、最近人助けをした記憶もない。
(先日? 最近助けたのなんて、産卵前のカマキリくらいしか覚えがないんだけど?)
「あの……失礼ですが、人違いではありませんか? おれは貴方を助けた覚えはありません」
 駿人は詰め寄る女性に両手で距離をとると、やんわりと否定してみる。しかし、女性は左右に体を揺らしながら、興奮気味に声を跳ねさせ、嬉しそうに続けた。
「いえ、いえ。確かに貴方です。貴方のお陰で、ワタシは無事に、子どもたちを産むことが出来たのです!」
「お、おめでとうございます……? じゃなくて……やっぱり人違いですよ。おれ、妊婦さんを助けた記憶なんてな……」
「あの、時間が! ゆっくりお話しする時間がないのです。これを、どうか、これを受け取ってくださいまし」
 女性は早口に言って、先ほどからずっと握りしめていた包みを駿人の手に押し付ける。
「これ、御礼に受け取ってくださいまし。きっと、お役に立ちます! お役に立たせて見せますから……」
「ちょっ……⁉」
 半ば強引に握らされた駿人は、ギョッとして手の中を確認する。乱れた包みから見えたのは、一本の高価に見える櫛だった。櫛には偶然にも一匹のカマキリが描かれており、立派な鎌を威嚇するかのように広げている。
 駿人は直ぐに包みを整え直して、女性の方に差し出す。
「も、もらえません。お礼をもらうようなことは何も……え⁉」
 駿人が再び前を見たとき、女性の姿はどこにも居なかった。慌てて道路を見渡し、神社の横の細道も確認したが、再び見つけ出すことが出来なかった。


 その日、怪しげな女性に櫛を贈られる体験をしたことを病院で話すと、姫奈は目を輝かせてカマキリ模様の櫛を眺めた。
「凄い! なにその不思議体験! 私もそこに立ち会いたかったな~」
 消毒スプレーをかけた櫛をおもちゃのようにクルクルと回し、香ばしい木の香りを気持ちよさそうに吸い込む。
「へぇ~。櫛ってこんな匂いがするんだ。しかも、カマキリ模様なんて珍しくない?」
「そうそう。多分、一点物とかじゃないかな? どうしよう……」
 複雑そうな顔の駿人は、包みを丁寧にたたんで膝の上に置いている。姫奈は一巡り思案すると、唸る駿人に向かって提案した。
「ねえ、せっかくだし、この櫛で髪を梳かして!」
「え⁉ 使ったら返せなくなっちゃうよ」
「でも、その人どこに住んでるかも分からないんでしょ? 時間が無くて急いでたってことは、もしかしたら電車の時間が決まってる遠方の人か……逆に、遠方にお引越ししちゃったのかも? 人違いだったとしてもさ、お礼だって言って渡されちゃったら、使わないと逆に失礼じゃない?」
「ん~……そうかなぁ……」
 渋い顔をした駿人だが、無邪気に櫛を差し出して「ね? これで梳かして」とねだる姫奈に敵う訳はなく。仕方なく姫奈の言うとおりに櫛を受け取った。髪を梳かす準備をしようとした刹那、看護師が病室の扉を叩く。
「矢吹さーん。失礼しますね~。お薬一つお忘れですよ」
 看護師はそう言うと、楽しそうに茶色い紙袋を揺らして見せる。袋には洋菓子店のロゴが入っており、仄かに甘い香りが広がり、看護師が駿人たちに近寄るにつれて香しくなっていく。
「きゃぁ! そーじゃん、私買い物したのに買った物忘れて……バカじゃん私!」
 姫奈は顔を赤くして両手をバタバタと動かすと、ベッドの上で看護師から紙袋を受け取った。
「本当にすみません! ありがとうございます‼」
「いえいえ、やっぱり矢吹さんのでしたね。購買のクッキー大好きだったから、もしかしてって思って」
「大正解です~。本当にありがとうございました。お手数おかけしました!」
 看護師はなんてことないと手を振って病室を出ようとした。しかし、
「あれ? カマキリの櫛ですか? 珍しいですね」
 ふと駿人が手にしている櫛に目を向けて、帰ろうとした足を少しだけ留めた。
「奥さんにプレゼントですか? 縁起がいいですね」
「えんぎ? 縁起物の縁起ですか?」
 駿人が首をかしげると、看護師は違うのかと話を続ける。
「あれ? 違いましたか? カマキリは子孫繁栄の縁起の良い虫として有名なんですよ。こっちの文化じゃないんですけど、カマキリって、卵を産む時、絶対にその年雪が積もらない場所を選ぶんですって。だから、無事に赤ちゃんを産むことが出来る縁起物。みたいな?」
「へぇ~!? 知りませんでした! おまじないとか縁起物系は結構調べたんですけど……駿人君、知ってた?」
「いや……? おれも初めて知った」
「虫を縁起物にするって、あんまり注目されないせいもあるかもですね。あ、カマキリには、鎌をこすり合わせている様子から『拝み虫』としても言われがあるそうなんですよ」
 看護師は一通り縁起物の雑学を話した後、仕事に戻ると部屋を出ていった。駿人は感心しながら、改めて櫛の中のカマキリを見つめる。
(そうだったんだ、気まぐれとは言え、道路でカマキリを助けておいて良かった……もしかして、あの時の女性は……)
 姫奈が言っていた『神様』と同等くらいの非現実的な想像をしてしまい、慌てて想像を消すように頭を振る。駿人が姫奈の方を向くと、彼女は駿人とは逆に目を輝かせて櫛を凝視していた。
「駿人君、これ毎日使おうよ!」
「……絶対、言うと思った」
 溜息をつく駿人に対し、姫奈は興奮気味に彼の手ごと櫛を握りしめる。
「偶然かもしれないけど、運命の可能性もあるじゃん! 本当に、神様が毎日お参りしてくれる駿人君に持たせてくれたのかもしれないじゃん!」
「う~ん……そうかなぁ?」
「そうだよ。ね! 全部ダメもとでやってきたじゃん。これも使ってみようよ」
 姫奈の提案を押し切られ、それから毎日、カマキリ櫛は姫奈の病室に置かれることになった。


 出産予定日まで一ヵ月となった。あの櫛は、今も姫奈のベッドの横に置かれ、中のカマキリが隣で華やぐ花瓶を見つめている。不思議なことに、この短期間にも関わらず、櫛を使うたびに姫奈の髪は艶めき、しっとりと潤ってきたのだ。彼女の体調も良好で、駿人の心配などどこ吹く風のようにしている。
 街路樹の最後の枯葉が地面に落ちる頃。その日は突然やってきた。
 一ヵ月後と予想されていた出産が、半月程早まったのだ。姫奈が破水した、と連絡を受けた駿人は仕事を早退し、タクシーで病院に向かう。
(姫奈……! 姫奈、頑張れ、頑張ってくれ……‼)
 病院に着くと、慌ただしくマスクだけ身に着け、長いエレベーターを足踏みしながら待つ。やっとの思いで手術室に向かう直前に立ち会えた駿人は、ベッドに横たわり、睡眠薬で朧げな姫奈を覗き込んだ。
「ひな! 姫奈、おれ来たよ! 来たから、ここにいるからね!」
「はやと……くん? えへへ、おかえり~……」
 姫奈は力なく笑うと、握りしめていた櫛を駿人に差し出した。病院で唯一駿人が贈ってくれた櫛が、密かに姫奈のお守り代わりとなっていたのだ。
「祈ってて……ちゃんと……元気な……赤ちゃん……」
「大丈夫! 大丈夫だから‼」
 咄嗟に上手い言葉が出て来ずに、反射的な言葉をかけながら櫛を受け取る。看護師が彼らの間に入り込み、手術室へ向かっていった。
 駿人は呆然としながらそのまま廊下に取り残される。静かな空間で彼が出来ることは、ただ祈ることだけだった。
(かみさま……神様、神様、神様‼ どうか、姫奈と赤ちゃんを連れて行かないでください! おれと生きさせてください! 神様……‼)
 櫛の歯が手の平に食い込むことも忘れ、手術室前の椅子に座ることもままならずに願う。
(姫奈! ……姫奈‼)
 どれほど長く祈っていたのだろう。短くなった西日が早々に見えなくなって暫く。
「……―――――びゃあ、んぎゅぁ! あぎゃぁあ‼」
 突然駿人の耳に届いたのは、確かな産声だった。
 しかし、駿人が顔を上げた途端に産声は遠くなり、やがて聞こえなくなってしまう。
「ああ、そんな……そんな‼」
 駿人が出入口の扉に耳を擦り付けるが、一瞬聞こえたはずの我が子の声は一向に聞こえない。駿人が扉を叩こうとした瞬間、今まで動く気配すらなかった扉がようやく開いた。
「おめでとうございます! 元気な女の子です。お母さんも、元気ですよ‼」
 看護師が汗だくのまま報告してくる。想像と真逆の言葉に、駿人は瞬間的に思考回路が追い付かなくなる。
「……えっ」
「お母さんも大丈夫です! 出血は少し多いですが、産後処理が終われば病室に戻ってきますよ」
「お……おぉ……」
「お父さん。おめでとうございます。ですよ! お母さんも赤ちゃんも、元気ですよ‼」
「お、ぉあっ……ああ……うわーーーーー‼」
 ようやく感情が追い付いた駿人は、喉が痛くなるまで叫んだ。涙が滝のように流れて、上手く前を見ることが出来ない。
「うわーーーーーー‼ あーーーーーーーーーっ‼ おあぁあ~~~~~~‼」
(姫奈! やったー‼ 神様ありがとう、本当にありがとうございます‼)
 手の平がじんわりと熱くなる、そこで初めて、血がにじむまで素手で櫛を握りしめていたことに気付く。
「お母さんの方は、まだ麻酔が効いていて話せないのですが、赤ちゃんは抱っこできますよ」
「あ……おで、おれ……てぶく……あの……」
「ふふ、落ち着いてください。マスクもドロドロなので、替えを持ってきますね。あ、手袋は大丈夫ですよ。素手で赤ちゃんを抱っこしてあげてください」
 看護師はそう言うと、直ぐにマスクと帽子を用意してくれた。涙が止まらない駿人を気遣って、温かいおしぼりも持ってくる。駿人はモタモタと身支度をすると、おしぼりを交互に目に当てながら看護師の後をついて行く。
「ご出産の後、赤ちゃんはへその緒を切ったり体液を洗ったりするので、直ぐに別室に連れて行っちゃうんですよ。」
「あ……だから、直ぐに声が消えちゃったんですか……よかった……」
 震える足を懸命に動かして案内された部屋に向かう。そこにいたのは、たくさんの看護師に囲まれた、頭に少しだけ毛が生えた駿人と姫奈の赤ちゃんがそこにいた。
「んぐぅ……ううぅん……」
 赤ちゃんはまだ口の中でモゴモゴ言いながら、初めての外の光に刺激されて手足をピクピク動かしている。
「うう……うえぇ……」
 再び感極まった駿人が、赤ちゃんと同じ反応をする。彼を連れていた看護師は、慣れた手つきで赤ちゃんにおくるみを着せると、ゆっくりと駿人の腕の中に入れた。
「ぶえぇ……あやぁ……」
「ううぅ……ありがどう……うばれでぎでぐれで……ぶえぇ」
 駿人は声にならない言葉をかけながら、まだ力の入らない我が子を懸命に抱っこした。既に二枚目のマスクはドロドロに濡れて、見かねた看護師がマスクを取り換えるように促す。
「ありがとう……本当に、本当にありがとう……」
 三枚目のマスクをかけてようやく落ち着いてきた駿人は、姫奈にそっくりに見える我が子に向かって、何度も感謝の言葉をかける。
「お母さんが起きたら、一緒に会いに来るよ。お母さんにも、ありがとうって言おうね」
 赤ちゃんを看護師に預け、よろよろと病室へ向かう。既に頭痛がするほど疲弊しきっている駿人だが、姫奈が目覚めるまでは意識を手放すわけにはいかなかった。
 病院の一室に移された姫奈は、少し顔色が悪そうに見えるが、穏やかな寝顔を浮かべている。駿人は姫奈の隣にずっと座りながら、先ほど新生児集中治療室で撮影してきた赤ちゃんの写真を眺めては幸せな時間を過ごしている。その写真を家族に送ると、直ぐにたくさんの返信が届いた。
(えっと……母さんには【姫奈まだ寝てる。来るなら明日か今週の休みにして】で、送信……)
 アプリのコメントに反応を返しながら姫奈の様子を気にしていると、ふと、姫奈の髪の毛先が絡まっていることに気が付いた。
(姫奈も頑張ったんだよな。お疲れ様)
 ずっと持っていたカマキリの櫛で優しく梳いてあげていると、姫奈がゆっくりと目を覚ました。
「ひな! 姫奈、大丈夫?」
「はやとく……あ、かちゃん……は?」
「姫奈‼ おはよう! 赤ちゃんも元気だよ。二人とも頑張ったね!」
「あかちゃん……生きてる?」
 姫奈の瞳が、喜びの涙で潤っていく。つられた駿人も、今日何度目か分からない涙で頬を濡らした。
「うん……ん……い、生きてるよ……元気な女の子だよ‼ ありがとう姫奈……頑張ってくれて、本当にありがとう……‼」
 夜が明けて、姫奈の病室に連れて来られた赤ちゃんは、既に元気に体を動かしていて、まだ開かない瞳は瞼の中から光を追いかけるようにキョロキョロとしている。
 赤ちゃんを抱っこした姫奈は、赤ちゃんの小さな手に大粒の涙を溢す。たまらず流れた鼻水をグジュグジュとすすりながら、何とか声を絞り出そうと喉を震わせた。
「赤ちゃん‼ 産まれてきてくれて、あ、あり……うぇ~ん! 嬉じい~~~‼」
「ひな~! 姫奈も頑張ってぐれで、ありがどうぉ~‼」
 駿人は姫奈よりも号泣しながら、愛する妻と我が子を抱きしめる。用意された哺乳瓶で赤ちゃんにミルクを与えると、赤ちゃんは夢中で飲み始めた。
「えへへ……可愛いね。駿人君に似てるのかな?」
「絶対姫奈の方が似てると思う」
 仲睦まじい時間はゆったりと過ぎていく。花瓶の方を向いていた櫛の中のカマキリが、ユラユラと揺れて親子の方を見ていた。


 外はみるみるうちに冷え込み、天気予報は軒並み曇り空を示している。ニュースキャスターは都心でも雪が降る可能性があるとコメントしているが、果たして今年はどこまで降るだろうか。
 異国情緒あふれる解通易堂の扉の前では、細身の女性が心配そうに辺りを見渡していた。今時珍しい着物を身に着け、帽子の代わりに手ぬぐいを巻いている。時間はまだ朝を迎えたばかり。開店しているのはコンビニと駅前の本屋くらいだ。解通易堂もまだ開店するには早い時間だが、女性が細長い手で閉ざされた扉を叩くと、軋んだ音を立てて扉が開かれた。
 中から優雅に出てきた男を見て、女性は安心したように胸をなでおろす。
「泉様! ああ、良かった……!」
 泉と呼ばれた男は、丸い眼鏡の奥で何かを悟るような瞳を宿すと、直ぐに普段通りの笑顔を浮かべる。
「いらっしゃいませ……ご来店、誠にありがとうございます……今日は、冷え込みますでしょう……どうぞ、中へ」
 深々と一礼して店の中へ案内しようとする泉に、女性は首を振って頭の手ぬぐいを外した
「いえ、いえ。もうここで。ワタシの身体は、もう……」
 ユラユラと身体を揺らしながら今にも倒れそうな女性の頭には、人間の体には絶対に存在しない『触覚』が生えている。瞳には白目の部分が無く、どこか『異形』を彷彿とさせる姿に、泉は驚かなかった。よく見ると、先ほどまで人間の手の形をしていた前足は大きな鎌に変形しつつあり、歪に変態していく。それでも、女性は晴れやかな笑顔で泉に言った。
「無理なお願いを聞き入れてくださり、誠にありがとうございました。泉様のお力添えがあったから、あの方に『恩送り』が出来ました……」
「……左様でございますか。恩送りとは……また粋な計らい、ですね」
 恩送りとは、受けた恩を本人に返すのではなく、そのお身内やご界隈に送ることである。女性は嬉しそうに鎌で顔を擦り、泉に向かって鎌を拝むように合わせた。
「これで、もう思い残すことはございません。泉様、本当に、ありがとうございました」
「いえ……私には、お礼を言われる程のことは……何も……」
 泉の反応に、女性は鋭い八重歯をちらつかせながら笑う。
「ふふふ……あの方も、そうおっしゃっておりました。ニンゲンとは、なんとも不思議な生き物ですこと……それでは、失礼いたします……」
 言葉と共に、女性の姿がふっと消えた。泉は眼鏡を外すと、もう一度深々とお辞儀をした。
――その先には、天寿を全うしたカマキリの死骸があった。

【完】

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