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泉御櫛怪奇譚 第六話

第六話『禍世(まがつよ)の目 現世(うつしよ)の櫛』

原案:ととやす堂
著:紫煙

――『弱り目に祟り目』とは言いますが、実際、不運が続いて気持ちが弱り切ってしまうと、更なる不運を呼び込んでしまうことが多いようで……。
ほら、貴方も思い当たる節がございませんか。携帯用の雨傘を忘れた日に限って雨が降ったり、小さなミスが原因で、その日の内に会社やアルバイトを辞めることになってしまったり……おっと、これは話が大袈裟でしたね?
そういった御方の中には、稀に、その不運や穢れなど『悪いモノ』が絡みつきやすい体質をお持ちの御方がいらっしゃいます。例えばほら……彼女のような……ね?――


 紅葉がようやく見頃を迎え、大学や専門学校では秋学期が始まっている。
 安いアパートの一室で、葎は今日も憂鬱な表情のまま洗面所の前に向かった。身長が178センチもある彼女は、備え付けの鏡の前に立とうとすると、自然と猫背になってしまう。
しかし、物の配置が低いだとか、手足が大きいせいでお洒落が限られるだとか、そういった不便は彼女にとって微塵も問題ではない。
 葎は、誰にも相談出来ない『悩み』を抱えていた。
(今日も、何事もありませんように……『何か』に追いかけられませんように!)
 葎は溜息をつきながら、伸びきったボサボサ頭をブラシで念入りに梳かし始める。特に、顎まで伸びた前髪はブラシから櫛に変えて丁寧に梳いて整える。時間をかけて髪をセットすると、どんなに頭を振っても顔の前に戻る前髪を確認して、ビクビクと家を出た。
 葎の目に見える世界は、大多数の人間とは少し違う。すれ違う人の顔に張り付くどす黒いシミや、電柱や側溝の影。監視カメラの如く街中に生えている『目玉』のようなモノ。その『何か』は、生物、建物問わず不規則にくっついたり離れたりしている。中には、一人の人間に無数の『何か』がくっついていて、おぞましい化け物のように街を闊歩しているのだ。
 形状は様々で、スライムの様にべったりとしているモノ、シンクのカビの様にこびり付いているモノ、生ごみをミキサーで混ぜた様な、異臭を纏っていそうなモノ。その黒い影のどれもに、一から数えきれない『目』がギョロギョロと動いているのだから、もしも集合体恐怖症の人間が『何か』を見てしまったら、十中八九卒倒するだろう。
「……っ!」
 葎は反射的に下を向いて、猫背になった体を更に小さく丸めて歩き始める。
(我慢……我慢して葎! 大丈夫。こうやって下を向いて歩いていれば、絶対に大丈夫だから……!)
 地面に落ちている『何か』と目を合わせないようにしているが、知らない人に体を触られているような『視線』を感じて、全身に鳥肌が立つ。実際、葎が『何か』に近づくと、それらは彼女に反応しているかのようにユラユラと揺れ蠢いている。
(また見られてる……気持ち悪い……!)
 葎は前髪を押さえるように手をかざして、逃げるように専門学校へ向かった。目を合わせてはならない。絶対に『何か』に関わらないようにすることを最重要点としてアパートを選んだ為、学校までは徒歩10分圏内だ。
 葎の通う学校は、美術系の専門学校だった。怯えながら門をまたぎ、講義室へ向かう途中。廊下に飾られた、夏休み前に行われた学年別フリーアートの選考結果を見つけた。
(あ……私、銀賞だ……)
【銀賞 ファインアート専科 1年 斑目 葎】と書かれたパネルの上には、葎が描き上げた油彩が飾られてあった。F25号の大き目のキャンバスに、無表情でこちらを見つめる少女。彼女の周りには綺麗にラッピングされたプレゼントボックスやぬいぐるみ、おもちゃの宝石などが散りばめられているが、少女自身はみすぼらしく、髪もボサボサでまるで背景を釣り合わない。
(審査する先生の好みに合わせて描いたヤツだから、まあこんなもんだよね……顔もアニメっぽくなっちゃったし、描きたかった絵とは程遠い……あれ!?)
 葎の油彩の隣には、葉書程のサイズにも関わらず、廊下を歩く人間全ての足を止める程インパクトのある【金賞 ファインアート専科 1年 川田 新奈】が飾られていた。
「うわ! 凄い……」
 葎の口から思わず声が零れた。『何か』が一切写らないフォトアートには、カラフルな睫毛とポップなボディペイントを施した老若男女が楽しそうに表現されていた。一見するとサーカスの雑技団の様に見えるが、背景はぼかしを入れてある為場所が特定できない。
(おじいちゃんまでメイクしてる。なんか可愛いな……私が見ている『何か』も、これくらい綺麗で可愛い目だったら良かったのに)
 圧倒的な実力差と劣等感に苛まれた葎は、前髪で視界を塞ぎ、速足で講義室へと向かった。


 そんなある日、葎は課題であるデザインアートのラフを提出して、専門学校を出ようとしていた。
 在籍している学生の多くは個性的なファッションが特徴的なサブカルチャー系で、すれ違う誰もが奇抜な容姿をしている。葎は彼らの服の色や靴を目印にしながら、器用に人を避けて出入り口まで向かった。
(さっきすれ違った人、私が好きな漫画のアクキー付けてた……マイナージャンルだから、ネットで探しても、中々好きな人いないんだよね……っと!? いけない、今は外だった)
 ふと意識が漫画に反れてしまい、慌てて乱れた前髪を元に戻そうとした、その時だった。
「あ、やっぱり! ねえねえ!」
 無意識に見つめていた先に、顔も分からない程ドロドロの『何か』に覆われた学生が声をかけてきた。
「君、同じ専科の子だよね。課題出してきたの?」
どうやら、話しかけてきた男性は同級生らしい。
「えっと……あぅ……」
(無理! これ以上『何か』が近づいたら、いつ目が合うか分からない! お願いだから、それ以上こっち来ないで‼)
 津の願いも空しく、声の後ろからも、何人か葎に気付いて近づいて、あれよあれよと集団が形成されていく。
「誰?」
「ほら、今、廊下に飾られている油彩の……」
「斑目さんダヨ! ニーナ、名前覚えてるモン」
 最後から勢いよく前に出てきた女性が、一瞬の不意を突いて葎の目線までかがんできた。彼女の鼻から上を覆う一つ目の『何か』と目が合ってしまい。反射的に体を仰け反らせた。
「きゃぁ‼」
「ン? どしタノ?」
 視界が開けたことにより、集まってきた同級生たちに絡みついた『何か』が一斉に葎を見る。
 葎は反射的に視線を逸らして、この場から逃げようと足に力を込めた。
「……や……あの、ごめんなさい‼」
「うわっ! ちょっと斑目サン!?」
 覗き込んできた女性が引き止めようとする前に、葎は脱兎のごとく駆け出す。彼女を取り巻いていた人間たちの声は直ぐに遠くなり、代わりに、べちゃべちゃと『何か』が追いかけてくる音が迫って来る。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい‼」
 呪いの様に何度も叫びながら、平均よりも大きな足を最大限活用して逃げる。向かった先はアパートではなく、駅へ向かう途中にある無人の神社だ。葎が鳥居の中に足を踏み入れた刹那、執拗に追いかけてきた『何か』が、まるで蜘蛛の子を散らす様に逃げていく。
「はあ……はぁ……」
 葎は息を整えながら、汗で濡れた髪を一生懸命整える。前髪の隙間から見えた『何か』は、早速新しい人間を見つけて背中にくっついた。
「……っ!」
 悪寒が葎の全身を駆け巡り、肌が泡立つのを感じる。もう一度深く息を吸うと、足音を立てないように神社の奥へ足を進める。震える手で形だけの参拝を済ませ、境内に備え付けられたベンチに腰を落ち着ける。鞄から携帯用の櫛を取り出すと、絡まった髪を丁寧に梳く。彼女にとって、髪は『何か』から身を守る唯一の盾だ。直接視線を合わせないようにするだけでなく、例え『何か』が髪にくっついても、そこだけ切り落とせば難を逃れられる。その為、毎日の手入れだけでなく、こうしたひと時の休息にも髪を整えることが、葎の癖になっていた。
(ここの神社だけ、何故かベンチがあるんだよね。普通、神社の中って休む場所じゃないから、こういうのは置いてないはずなんだけど……)
 なるべく『何か』について考えないようにしながら少しずつ心を落ち着かせていると、静かに雨が降り始めた。雨と言うよりも霧にちかいそれは、サラサラと風に乗って葎の火照った体を冷ましていく。
(神社にくると、よく天気雨に遇うな……ホント、昔から雨女だな、私……)
 本降りになる前に、と、葎は鞄の中から折りたたみ傘を取り出す。葎はゆっくりと立ち上がって、もう一度神社に向かって手を合わせると、今度は速足で帰路に着いた。


 霧の様だった小雨は次第に大粒の雨となり、翌日には豪雨となって街中に降り注いだ。天気予報にはなかった突然の雨に、学生達は各々の判断で学校に向かう。葎も例外なく大きな傘を用意して、普段通りの時間にアパートを出た。
(雨の日は、傘のおかげで無理に前を向かなくて良いから、気持ちが楽になるんだよね)
 葎は少しだけ表情を緩めながら、水たまりを避けて歩く。傘同士がぶつかることはあっても、傘に付いた『何か』は、水滴と共に振り払えるし、折りたたみ傘と違い、通常サイズの傘は『何か』を追い払うための武器としても使えるのだ。
 葎が学校へ着くと、廊下前の掲示板に、いくつかの講義が休講になったとの知らせが貼られていた。葎が今日受けるはずだった授業も該当されており、閉じた傘をくるくる回しながらため息を吐く。
(この先生、アナログだからメーリスで休講連絡してくれないんだよね……あ~あ、昨日の課題の評価も聞きたかったのに……今日は雨で歩きやすいし、画材でも買って帰ろうかな……)
 葎は再び傘を目深に開くと、薄暗い街に向かって歩き始めた。
無人神社を通り過ぎて徒歩数十分程度の距離を大股で進んでいく。駅に向かうバスは通っているが、葎が公共交通手段を利用することは稀だ。
 足に心地よい疲れを感じながら店に入り、必要最低限の買い物をして建物を出る。
(絵具が売り切れてるなんて珍しい……まあ、通販で買えばいっか……)
新調した画材に心弾ませながら傘を差そうとした、その時だった。
「……え?」
 目の前の車道を、スリップしたトラックが通り過ぎていく。ギャリギャリと音を立てた鉄の塊は、葎が理解するより先に対向車線の車を巻き込んで、動きを鈍くしていく。彼女だけでなく、一部始終を目撃した人々が揃って右方向の事故現場を見ると、運転席から倒れるように脱出している運転手の姿が見えた。
「なに……あれ……?」
 葎だけは、大量のヘドロの様な塊が『ドルン』と流れ落ちるのが見える。運転手が人間かどうかも分からない程くっついている『何か』が、一斉にこちらを向いている。
「……っ!」
 頭で考える前に、体が既に動いていた。傘を捨て、事故現場とは反対方向に向かって走り出す。『何か』は百目鬼の如く葎に向かって動き出した。雨の影響で『何か』の動きは遅くなっているが、それでも、数えきれない目と対峙したら、誰だって逃げ出したくなる。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
 必死で逃げる葎は、近くに神社がないか視界を巡らせた。しかし、足を緩めれば『何か』に髪を引っ張られ、視界を広げようと前髪を上げると他の『何か』と目が合ってしまう。
神社を探すことを諦めた葎は、ふと目に留まった店に向かって方向転換する。
(あの店! あそこだけ扉が開きっぱなしだ! あそこに逃げ込もう‼)
 どうやって辿り着いたのかも分からないまま、店らしき建物の扉を潜った。
 途端に、花の香りがする布の群れに体当たりしてしまう。
「うわっぷ! ふわっ……ごめんなさい! 私濡れて……」
 水を含んだ髪を慌ててかき上げて見上げた先に、人生で初めて出会った『何か』が付いていない人間がいた。
「はっ……あ、の……すいません、事故が……じゃなくて、服が‼」
「ふふ……。いらっしゃいませ……ようこそ、解通易堂へ」
 SNSでしか見たことが無いような派手な衣装を違和感なく身に纏い、丸眼鏡越しの猫目は緩く微笑んでいて、無意識に見入ってしまう程美麗な男性。葎が唖然としていると、男性は店の外を眺めながら、ほうと息をついた。
「本日は大雨の予報でしたが……傘をお求めですか?」
「は? あ……違います、傘はその、無くしちゃって」
「それはそれは……どうぞ奥へ、お入りください。生憎……傘は販売、していないのですが……」
「あ、すみません」
 全力疾走して汗だくになっていた葎は、休憩用の椅子と蓮の茶を用意されて、ようやく一息ついた。それらを用意してくれたのは帳場の奥にいた目つきの悪い寡黙な男性で、彼にも『何か』が付いていないことに、葎の思考が停止する。
(え……? 店の中だって、学校の中だって、全く『何も』ついてない人なんて居なかったのに……なんでこの人たちには『何か』が寄ってこないの?)
 ポカンと口をあける葎に、寡黙な男性は浅く一礼して、見かけによらず丁寧に店の出入り口を掃除し始めた。慌てて手伝おうとした葎を、美麗な男性がふわりと止める。
「大丈夫ですよ。お客様はどうぞ……お寛ぎください」
「すみません。お店を汚してしまって……えっと……」
「申し遅れました……解通易堂の、泉……と、申します……」
 泉と名乗った男は優雅に一礼して、葎の隣に座った。彼の美貌よりも、至近距離に感じる人間の存在に慣れない葎は、反射的に泉の服に視線を落として口ごもる。
「あ……えと……斑目と言います。あの、服のクリーニング代は、こちらで……」
「いえ……この程度のものであれば、直ぐに片付けられます……ので、どうぞお気になさらず」
 泉が再びふわりと微笑む。葎は顔から火が出そうな程体温が上がったのを感じると、急いで前髪で顔を隠し、覗き見る様に店内を見渡した。
 ようやく『解通易堂』が櫛の専門店であることを理解した葎は、改めて趣ある内装に溜息を溢した。壁と言う壁を覆いつくす装飾品の中で、きちんと商品に目が留まる仕組みが分からず、前髪を暖簾のようにかき分けて凝視する。すると、店内の至る所に置かれていた猫の様な置物が、突然ふにゃりと動いた。
「えっ⁉ ええ‼」
 動物に例えるには異形過ぎて形容できない『何か』は、ウロチョロと店内を練り歩き、中には柱を舐めるモノ、中には動物のようにお腹を出して寝ているモノ、中には商品の櫛を一生懸命拭いているモノ。と、大小関わらず自由気ままに動いている。
「は……うわ……」
 初めて見た目以外の『何か』に言葉を失っていると、泉は興味深く葎を見つめて口を開いた。
「おや……お客様も、彼等が何をしているのか……『見える』のですね」
「え⁉」
 葎は初めて真正面から泉と視線を交えた。『何か』について家族にすら言えずに過ごしてきた彼女にとって、誰かから話題を振られてきた体験が無かったのだ。
「えっと……その……」
「ふふ……。安心して、ください……彼等は外のモノとは、違います……」
 泉はゆったりとした口調で、まるで共通の知り合いについて話題にしているかのように話し始める。その間にも、形のある『何か』は自然と泉の腕の中に収まり、服の汚れをひと吹きで綺麗にしてしまう。
「すご……!」
「『彼等』は……綺麗なモノが、大好きなのです。お陰様で……過ごしやすい店内が、保てております」
「じゃあ、もしかしてあの人も『何か』なんですか?」
 葎がおずおずと寡黙な男性を指すと、泉は口元を隠して楽しそうに笑った。
「ふふ……。彼は列記とした人間、ですよ……」
「で、ですよね‼」
 葎は耳まで赤らめながら、慌てて前髪で顔を隠す。泉は気にする素振りも無く、戯れに来る『何か』を片手で撫でている。
「斑目様は……彼等のことを『何か』と、呼称しているのですね……」
「あ、はい……」
(こんなに『何か』について自然に話すの、初めてだけど……もしかして、この人だったら相談しても良いのかも……よし!)
 葎は生唾を飲んで決心すると、注がれた蓮茶に視線を落として打ち明けた。
「あの……私、子どもの頃から『何か』が見えるんです。普段は、今みたいに生き物みたいな形は見えなくて……もっとこう、黒いヘドロみたいにドロドロしてて、視線が……目だけが鮮明に見えるんです」
「ほう……」
「しかも、その『目』と視線が合うと、近づいて、追いかけてくるんです。逃げ切るか、神社の中までいかないと、髪を引っ張ったり、鞄を盗ろうとしてきたりして……今まで、ずっと……怖くて……」
 葎の目から大粒の涙が零れた。狐の様な『何か』がそろりと葎の髪を分け入って、流れる涙をぺろりと舐めとる。初めて触れた『何か』の体温はなく、学校の講堂に流れる隙間風のような感覚がした。
「ごめんなさい……これは、同情して欲しいとかじゃなくて……えっと、初めて、こういうこと話すので……」
「ええ。ですが、得体の知れないモノ程恐怖を感じるものはありません。斑目様は、とても長い間、不安だったのですね」
「……ズッ……すみません」
 涙を我慢しようとして、鼻水をすする。ぐっしょり濡れたバッグから入れっぱなしのハンカチを取り出して、化粧ごと涙を拭き取る。泉は『何か』に静かに声をかけると、優しく葎の肩を撫でた。
 一息置いて、先程店内を掃除していた男性が、冷たいおしぼりを用意して持ってきた。
「ありがとうございます」
「……いえ」
 短い挨拶を交わしておしぼりを受け取ると、男性は数体の『何か』を引き連れて、帳場の奥へと消えてしまった。葎は前髪を耳にかけて顔におしぼりを当てると、穏やかに話す泉の声に耳を傾けた。
「斑目様が見えている『何か』とは……敢えて具体的に、申し上げるなら……『妖怪や怪異の類』なのです」
「……妖怪って『げげげの』的なアレですか?」
「ふふ……。はい。間違いでは……ありませんね。もう少し、現実的な言い回しだと……最近多くなっている孤独死や自殺でしたり、突然の交通事故でしたり……原因がはっきり分からない事件や事故は、彼等がきっかけになっている場合が多い……ですね」
「あっ……!」
 葎はつい先程起きた交通事故を思い出した。しかし、大雨とは言え、車通りの少ない平日。特に危険でもない大通りで、スリップ事故が起きる理由が直ぐに見つからない。
(確かに、運転手さんの顔が見えないくらい『何か』が付いていた……)
「じゃあ、やっぱり『何か』は……あ、妖怪とかは、悪いモノが多いんですか? 近付かなくて正解だった……?」
「ええ……ですが、少し……補足させて、いただきますと……先程申し上げました様に、彼等は『きっかけ』に過ぎません。最近は……斑目様の様に、五感のどこかで……彼等を感じてしまう人間が増えております」
「きっか……え? 私みたいな人多いんですか?」
 さらりと知らされた真実に、葎の思考が追い付かなくなっていく。
「はい。斑目様程……はっきりと『異形』として、認識出来る人は稀……ですが、例えば……そう、朝起きたら……なんとなく体が重い。でしたり……理由が無いのに、お誘いを断りたくなる……でしたり」
「ああ、それなら分かります」
「そういった方々は……彼等が悪戯している場合が、多いです。と……申しましても、この手の怪異は……直接傷つけたり、呪い殺したり……明確な悪意は、持っておりません。例えるなら……『少し袖を摘まむ』程度です。結果的に……それで人間が不幸になろうと、逆に幸福になろうと……彼等はどちらでも、構わないのです」
「……それ、大怨霊とかより、質悪くないですか?」
「ふふ……では、言い回しを変えて……『少し道を尋ねる程度』……でしょうか?」
 泉は、いつの間にか店内の『何か』が集まってきても驚かない葎をみて微笑みを宿すと、一口だけ自分の蓮茶を飲んで言葉を続ける。
「このご時世では……道を尋ねることも、減ってきました……。巷では……知らない人に、声をかけるだけでも……不審がられますよね? 葎さんの不快感は……もしかしたら、誰かに道を尋ねられる程度……の、ものかも知れませんよ」
「……‼」
 葎は、目から鱗が落ちたような表情で泉を見ていた。次いで大きく深呼吸をした後、乾いた髪で遊ぶ『何か』を見つめる。
(本当にそうだとしたら? ……『何か』が近づいてくるだけで、直接何もしてこないって分かったら……)
「でも……としたら、どうやって……?」
一人で考え込んでしまった葎に、泉は音もなく立ち上がると、店の棚から一つの櫛を取り出し、彼女の前に差し出した。
「斑目様……こちらを」
「え? 櫛、ですか? ……っ‼」
 櫛には、爬虫類のような両目と片方の髭が焼き付けられていた。フェミニンな柄が多い商品の中で、彫刻とも見紛うスタイリッシュなデザインが一際異彩を放っている。葎が櫛の方を向くと、まるで反応しているかのように、ちろっと髭が揺れた様に見えた。
(え? 動いた!? 目も合ってるような……気のせい……だよね?)
 同様する葎を楽しそうに眺めながら、泉は手の平で櫛を指して説明を始める。
「この櫛には……魔除けの龍の目が、宿っております。本日……斑目様がご来店なさる前に、入荷されたもので……まだ値段を付けていない為、非売品と……なっております」
「魔除けの龍? これが、龍の目なんですか?」
「ええ……これも、何かのご縁かと思い……ご案内させていただきました。よろしければ……斑目様にお贈り致しますので、お守り代わりに……お使いください」
「お贈り……ええ!? ダメですよそれは、お店なんだから、タダでこんなに高そうな櫛、受け取れません!」
 両手を振って櫛との間に壁を作る。心なしか、龍の目が寂しそうに揺れたように感じた葎は、幻覚を疑って必死で首を横に振る。
 泉は指を顎に当てて一巡り思案すると、宥める様に櫛を撫でて、再び口を開いた。
「では……もし使ってみて、斑目様が今後必要だと……感じられました際に、再び解通易堂へ……お越しください。そこで……斑目様のお気持ちを、収めていただければ」
「う……」
 葎は改めて龍の目の櫛を見つめた。焦がし付けられた柄とはいえ、彼女が見てきた『何か』と同じ目の筈なのに、彼の目はどこか優しく、温かみを感じる。
(もし……もし、この櫛が『何か』から守ってくれたら……もっと歩きやすくなるのかもしれない……誰かに話しかけられても、平気になれるのかもしれない)
 葎は恐る恐る櫛を撫でる。すると、初めて触った筈なのに、櫛は葎の手にひたっと馴染んで、まるでいつも使っている櫛やブラシの様な親近感が沸く。
「……っじゃあ、買います! 買わせてください」
「……よろしいの、ですか?」
「はい。今日はそんなに手持ちが無いんですけど、あるだけ全部払います。櫛はよく使うので、お守りじゃなくて、ちゃんと、櫛として使わせてください」
「左様で……ございますか。お買い上げ誠に……ありがとう、ございます」
 葎は財布から僅かばかりの現金を渡すと、泉は微笑みを絶やすことなく櫛を包んで渡してきた。
 外へ出ると、いつの間にか雨は止んでいた。後にSNSで知ったのだが、先程の交通事故による死亡者はおらず、運転手含めて全ての被害者が軽傷で済んだという。


 その日から、葎は毎朝の前髪の手入れに龍の櫛を使うようになった。猫背になって鏡の前に立つと、のばしっぱなしの髪に櫛を通す。
「あ……おはよう、ございます……」
 ふと鏡越しに映った龍の目と目が合い、反射的に挨拶をしてしまう。目は葎の声に応える事はなく、代わりに片方しかない髭をひょろりと揺らした。
 ペットとも違う不思議な櫛との距離感に戸惑いながら、直ぐに取り出せるポーチの中に櫛を仕舞ってアパートを出る。
 すると、あれ程嫌だった『何か』が、あからさまに少なくなっていることに気付いた。
(あれ……? この道、一番『何か』が多くて歩きづらいはずなんだけど……?)
 少なくなっているとはいえ『何か』がいることは確かなのだが、葎に近寄ろうとする『何か』は、彼女が逃げようとする前に、途中で踵を返して逃げてしまうのだ。
(もしかして、本当にこの櫛が悪い『何か』を追い払ってくれているのかも……?)
 ポーチから櫛を取り出すと、龍の目は何食わぬ表情を宿し、猫の尻尾の様に片髭をユラユラと揺らしている。葎は疑問を残しながらも櫛を仕舞い、改めて景色に目を移した。
(うわぁ、この道、結構色んな店があったんだ……あそこの看板はカフェかな? デザインが可愛い)
 葎は初めて歩く道の様に景色を楽しみながら、丸めていた猫背を伸ばして学校へ向かった。

 櫛を使い始めて一か月。人の顔にへばりついていた『何か』も気にならなくなった葎は、学校の女子トイレで前髪を直していた。
(本当に、この櫛のおかげで見える世界が変わっちゃった)
「龍様、おかげで、前髪が乱れても直ぐにトイレに逃げなくて良くなったよ」
 『何か』ではなく『龍様』と名前を呼ぶと、櫛に宿る目は表情を変えることなく、ただし、片髭を満更でもなさそうにチョロッと揺らす。
(最近、龍様の機嫌が分かるようになったかもしれない。今は髪も梳けて、私に褒められて、嬉しいんだと……思う。泉さんにもお礼を言いに行きたいけど、お店の場所覚えてないんだよね……)
「まあ、いざとなったら龍様がなんとかしてくれるよね」
 櫛の中で揺れる髭を指でツンツンしながら穏やかな雰囲気に浸っていると、前触れ無く女子トイレの扉が開いた。余りにも勢い良く押されたようで、葎が反射的に身構える程大きな音がトイレの中に響く。
「あ……あーーーっ!」
「……っ!?」
 入ってきたのは、葎が『何か』に怯えていた時、俯く彼女を覗き込んできた同級生だった。
 慌てて逃げようとする葎だが、持っていた櫛が不意に重くなった気がして、咄嗟に踏み留まってしまった。
「わーーー! 斑目サンだーーー‼」
「っ!?」
 背中に汗を感じながら同級生の顔を見ると、その子はピンクと水色の髪をして、ゲームのキャラクターが着るようなポップな服を身に纏った奇抜な格好をしていた。横顔にこびり付いた『何か』はこちらを見ようとはせず、にゅるりと彼女の背中に移動してしまった。
(こんなエナメル素材みたいな服、通販だって見たことない……何かのコスプレ衣装をリメイクしたのかな?)
 呆気に取られている葎の前で、同級生は少女の様に飛び跳ねながら持っていたゴテゴテの鉄の塊を高速でタップする。
「ちょちょちょ、ちょっと待って、とりまこのメッセ返すまで待っテネ!」
「え……あっ」
(あ! あのぬいぐるみ? みたいなのがくっついてるのって、アイフォンケースか……え? アイフォンってこんなに嵩張るっけ……? じゃなくて!)
 葎は必死で逃げようとする足を理性で押さえて、心配そうに見上げる龍の目の櫛を両手で握りしめた。
(落ち着け、逃げるな葎……! ちょっと袖を摘ままれるだけ。ちょっと道を尋ねられるだけ……!)
 深く深呼吸をして櫛に目を落とすと、龍の目が応援しているかの様に髭を揺らした。
(うん……大丈夫。龍様がいるもん。大丈夫……!)
「あ、の……ごめんなさい。私、同じ専科の人の名前、全然知らなくて……」
「ああ! そうなんだ‼ アタシはニーナ! よろよろ~」
 ニーナはアイフォンをリュックに仕舞うと、葎の腕を掴んでトイレを出た。突然のゼロコミュニケーションに、人付き合いに慣れていない葎は目を白黒させながらついて行く。
「斑目サン、ヘアモデル興味ない? ヒューマンアートって知ってる? あ、この前その講義あったんだケド、斑目サンも出た? ニーナあれめっちゃ可愛いって思って、美容師のフォロワーに頼んで挑戦しちゃおうって考えてるんだヨネ‼」
「え……あ……お……!?」
「テーマは『実写版VTuber』なんだケド、フォロワーが『本物の髪でチャレンジしたいー』って、もう超欲張りだヨネ! でもニーナもめっちゃそう思うから、髪の長い人でなるべく映えそうなの探してたんだヨネ!」
「……はあ……」
 それは、道を尋ねられるどころか、葎が全く知らないジャンルへの勧誘だった。ニーナの話によると、実は、彼女は入学した時から葎のことを気にしていたらしい。
マシンガンのような一方的な会話の中で、彼女は葎に対して、
「最初はさ、斑目サン、今までのアタシの友達に居ないタイプだったから、声をかけてみたいと思ったんだヨネ。前と後ろで髪の長さ同じとか超スゴくない? あ! あの時はピロポンが突然止めたりしてゴメンネ。体調悪かったんだヨネ。今は大丈夫? 大丈夫だよね! だってめっちゃ髪きれーになって、授業中前髪耳にかけてたりするけど、お顔もお人形さんみたいに小っちゃくて可愛いって、専科で噂になってたんダヨ? 気づいテタ?」
「えっと……あの日の事は、気にしてないです。体調は……悪かったかもしれません。授業中に関しては、視線は気になっていましたが……」
「すご‼ アタシの話、誰も全部聞き取れる人いないのに、斑目サン耳いーね‼ てか、タメ語で良イヨ。同い年なんダシ」
「……はぁ……」
(この人、人の言葉最後まで聞かなくても反応出来るタイプだ)
 ニーナの話に耳を傾けながら、葎が連れてこられたのは学校関係者以外も利用が出来る食堂だった。既に何人か人が集まっている一角があり人の数だけ『何か』が蟠っている。反射的に急ブレーキをかけて止まった葎に、ニーナは気にすることなく振り返る。
「あ、あれがピロポンで、隣がカノジョのみっちゃん。二人とも同じ専科ダヨ。奥が近くの美容院で働いてるマッサンとあいさんとテンチョー」
「はい……えっと……」
「斑目サン、しんちょー高いし、髪切って、メイクして、オシャレしたら超スーパーモデルになれちゃうよ! 皆にも紹介するから、やってみようよ!」
 ニーナはどこまでも明るく、幼いが飾らない言葉遣いに裏を感じさせない。きっと、お世辞でも建前でもない素直な気持ちを伝えてくれているのだろうが、葎は首を横に振ってしまった。
「ご、ごめんなさい……お誘いは嬉しいですが、集団がまだ少し苦手で……ごめんなさい」
「えーーー!? ここまで来たのに?」
「ごめんなさい……ニーナさんのことが嫌とか、そういうんじゃないので……また声かけてくれると……」
「うんうんうん! 全然良いよ! あ、連絡先交換しよ‼」
 逃げる様にその場を離れた葎は、再び校舎の中で一番遠い女子トイレに入ると、握りしめていた櫛を見つめた。目は怒りを宿しながら彼女を睨み、髭はピンと真っ直ぐ伸ばしている。
「……分かってるよ龍様……そんな目で見ないで」
(興味がないわけじゃない……でも、髪をいじられるってことは前髪も切られるってことだよね……それはまだ、怖い……!)


 家に帰宅して、寝る前に櫛で髪を梳く。最近は毛玉が目立たなくなった長い髪をブラシで梳かし、前髪を櫛で念入りに整える。
(でも、視線を気にせずに授業を受けられるようにはなってるんだよね……)
 鏡の前で少しだけ前髪を持ち上げてみる。一気に視界が広がり、部屋の隅に『何か』を見つけてしまう。
「ギャッ! びっくりした……」
 直ぐに前髪を戻して、慌てて前髪を整えようと櫛を握る。
「……っ‼」
 ふと櫛と目が合った。どこか攻めているような、何かを訴えているような様子の龍の目に、視線を背けたくなる。
「本当に、本当に……変われると思う? 龍様、私を見守ってくれる?」
 葎を見つめる目が、一瞬だけ瞬きをした様に見える。ハッとして先程の隅を見ると、漂っていた『何か』が一瞬にして消えた。
(大丈夫……大丈夫……! 龍様がいれば、もう、私を見てくる『何か』はいない! 私を見てくれた人のことを、私もきちんと見てあげたい!)
 葎は大きく深呼吸をして、普段使い用のハサミを取り出した。
(どうせヘアモデルで切ってしまうなら……その前に、自分で切って、覚悟を決めよう……!)
「……っ! よし!」
 前髪を掴んで目を閉じる。ハサミを持つ手に力を込めて切り始めた。ジャキジャキという音の中に、獣のような鳴き声も聞こえる。
(龍様? もしかして、櫛から出てきてくれているの?)
 ハサミを置いてゆっくりと目を開けた葎の視界に広がったのは――


 翌日、ニーナは鼻歌を歌いながら学校の校舎に向かっていた。視線は原型が分からない程装飾されたアイフォン画面で、引っ切り無しに何かをチェックしている。
「ニーナ、おはよう!」
「はよはよ~ん」
 声をかけてくる学友たちに手を振って、再び画面に視線を落とそうと思った刹那。
「に、ニーナ、ちゃん!」
 真後ろから聞き覚えのない音量の声が届く。反射的に振り返ると、そこには、前髪が不揃いに切られた葎の姿があった。所々焦げたように縮れ毛になっているのは、一体、何で散髪を試みたのだろうか。
「ま、斑目サン!? おはよー!」
「はあ……はあ……おはよう。えっと……あのっ!」
 葎は片手に櫛を握りしめて、朝日に晒された顔を真っ赤にしながら、叫ぶようにニーナに言い放った。
「あの……昨日の話! もう一度お願いしても……いいでしゅかっ!?」
 悲しみでも怒りでもない、まっさらな葎の感情が、涙となって目から零れる。ニーナは一瞬だけ呆気にとられた後、顔をパッと輝かせてアイフォンを放り投げた。
「~~~~っ! もっちろんダヨ‼ その前に、私にその前髪、整えさせて! マジウケる~‼ なんで切っちゃっタノ? どうして髪が焦げてルノ!?」
 二人は頬染めて笑い合うと、ニーナのアイフォンを探してから校舎を素通りして食堂の方に足を進めた。猫背を真っ直ぐに伸ばして、胸を張って歩く葎を、今度は『何か』ではなく、すれ違う人々の視線が集まるようになるのは、もう少しだけ先の物語――

【完】

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