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『泉御櫛怪奇譚』第三話

第三話『御縁お摘まみ 櫛狐』
原案:解通易堂
著:紫煙

――『縁起物』と一口に申しましても、様々な物がございます。どれも『良いことがありますように、祝福がありますように』と願いを込めた品々ですが、さて、貴方が選んだ『縁起物』は、本当に無償で『良いこと』を運んでくださるでしょうか……?


「すみません。ここ、辞めたいんすけど」
 もう早朝になろうかと言う時間帯。直登は自分より年下の店長にぼそりと言った。深夜のコンビニに客は一人もいない。今、店内では定年をとうに過ぎた男性が、ヨレヨレと品出しをしている。
 コンビニの店長は、スマホ画面のアプリを切りの良い所まで進めた後、片手でシフト表が挟まれたバインダーを引っ張った。二、三枚紙を捲った後、直登を見ずに、
「あ、そう。じゃあ、明日から来なくていいよ」
 と、軽く言って、シフト表に書いてある直登の名前を消した。
「今日までのは来月振り込むから。制服はクリーニング出すからロッカー入れっぱでいいよ。はい、お疲れ」
「……はい。お疲れっした」
 なんともあっさり辞められた事にショックを受ける訳でもなく。
 直登はコンビニの店内に顔を出すことなく帰路に着いた。まだ品出しをしている店員とは悪い仲ではなかったが、最後の挨拶をする程の義理は、直登には残っていなかった。
 始発の電車で最寄り駅まで揺られ、安いアパートまでノロノロと歩く。重たい扉を開けて、既にダンボール箱だけになった部屋に帰宅する。安い髪ゴムでまとめられた髪をほどくと、好き勝手に伸びた髪で首が全部隠れた。大きなあくびをして髪を解す様に頭をかいていると、突然アイフォンがポケットの中で震えた。
着信は、地元の母親からだった。
【今日、お母さんが迎えに行くから、電車の時間教えて】
「……」
 直登は面倒くさそうにため息をつくと、
【今バイト】
【終わったから寝る】
【起きたら】
とだけ返事をして、むき出しのフローリングに体を預けた。
 直登が実家に帰るのは、四年制の大学を二浪してから三十歳の今日まで一度もなかった。最初に就職した職場が合わなかったことがトラウマで、ずっとアルバイトを転々としてきたのだ。痺れを切らした父親に電話で叱咤されたのが先週のこと。今の直登には、断る理由も言い返す言葉も持ち合わせてはいなかったのだ。
(はあ……俺の人生、なんでこんなんになっちまったんだろ)
 直登はもう一度大きくため息をついて、浅い眠りについた。


 その日の夜、直登は大人しく実家に帰省していた。高校生の頃まで使っていた彼の部屋は綺麗に掃除がされており、久しぶりのベッドでもうひと眠りしようと思った矢先、父親に呼び出された。電話で怒られた時は委縮していた直登だが、普段は温厚な父親である。面倒くさそうに和室のリビングに向かうと、そこには不安そうな両親がいた。
「……何。オレ眠いんだけど」
「寝る前に、先ずは話を聞いてくれないか」
父親はそう言うと、机の下から何枚かの紙を取り出した。直登は仕方なく両親の向かいに座ったが、紙の正体を知った途端に座ったことを後悔する。
「あのさぁ……オレ、今朝までバイトしてんだよ。そんな直ぐに転職活動する気ねえし」
 恐らく、実家から通える圏内だけで検索されたらしい何件かの求人情報は、職種も福利厚生も月収さえもバラバラだ。うんざりしながら突き返そうとすると、母親が慌ててそれを拒んだ。
「直登、せめて見るだけ見ておいてちょうだい」
「いらねえってんだろ! 働く場所くらい自分で……」
「直登!」
 母親の強い声に、父親の機嫌が悪いことを察した。だからなんだ。と、言わんばかりの表情を浮かべる直登に、父親も心労を隠すことなく懇願する。
「高い大学に通わせて、卒業までさせてやったんだ……少しは親孝行してくれないか」
「……」
「直登。お父さんもお母さんも、もう直登に結婚まで高望みはしないから。せめて、お父さんお母さんが居なくなっても、この家を手放さなくて済むようにしてほしいの」
 母親の声が震えた。涙もろい母親が、涙をこらえているのだ。流石の直登も、アルバイト生活の中で少しずつ助けてもらっていた母親には逆らえなかった。
「ん……まあ、気が向いたら……今日はとにかく寝る」
 直登は雑に求人情報を鷲掴みにして、足音を立てながら自室に向かった。機嫌が悪い時の足癖は、昔から変わっていないようだ。
 部屋の扉を勢いよく閉めて、今度こそベッドに倒れ込む。持っていた紙は雑に机に放ったため、何枚か床に散らばったが、直登は気にする素振りもなく眠りについた。
 翌日になっても、更に数日が過ぎても、直登は転職活動はおろか、両親が用意してくれたあの紙に目を通すことすらせず、堕落した毎日を過ごしていた。正確には、一番上にあった会社の名前をチラ見だけして、今は荷解きをしていないダンボールの上に置き去りにされている。
ある日、特にすることもなくリビングでテレビを見ている直登に向かって、母親が声をかけた。
「直登、お父さんもう腰が悪いから、倉庫の片づけ手伝ってちょうだい」
「はあ? なんで……」
「どうせ今日もテレビとケータイ見て時間潰すんでしょ? お母さん一人じゃあの中掃除しきれないのよ。お願い」
「……いいけど……要らないヤツ売っていい?」
 直登は体を起こしながらテレビを消す。給料日はまだ先で、出かけようにも娯楽に耽ろうにも身銭が足りなかったのだ。母親は少し渋い顔をしたが、せっかくやる気を出そうとしている直登を見て、諦めたようにため息をつく。
「……お母さんが良いって言った物だけね」
「ん。じゃあトイレしてから行くわ」
 直登はだらしない髪を母親の安い髪ゴムで結ぶと、ノロノロと家の裏にある倉庫に向かった。
母親と共に倉庫の中を整理し、外に用意したダンボールにガラクタを詰め込む。直登が率先して手伝うはずもなく、母親から言われたことをなんとなくするだけの手伝いもどきになっている。そんな調子で、曾祖父が健在だった頃から使われている倉庫が一日で終わるはずもなく、日が暮れる頃までに要らない方のダンボールが二箱埋まっただけに留まった。
「オレ、免許持ってないし、この分だけ今日中にリサイクルショップに持って行くよ」
 暗に「直ぐにお金が欲しいから質屋に持っていく」と言っているのが手に取るように分かる。しかし、彼の行動に、母親は何も言わなかった。
近くのリサイクルショップまで歩いて十数分程。直登は蓋が閉まらない程無理矢理詰め込んだダンボールを抱えて歩く。
「はあ、はあ……んっだよ、ナビだと直ぐ着くって言ってんじゃねえか……くそっ!」
 悪態をつきながら休み休み進む直登を、すれ違う人は冷ややかな目で見ている。地方とは言え、怪しい中年男性を助けようとする人がいるはずもなく。
「チッ……これなら、明日母さんの車で一緒に持って行けば良かった」
 喉の奥で舌打ちして不貞腐れる。今更引き返すのも癪だと再び足を進めると、ふと道の端に気になる店を見つけた。
 直登は無意識に店の前まで足を進める。そこは骨董品屋のような佇まいで、開け放たれた出入口で辛うじて営業していることが把握できる程、閑散としている。
(こんな所に店なんてあったか?)
 直登が首を傾げながら中に入ると、店内に飾られているのは大小さまざまな櫛だった。あわよくば買い取り屋であれと期待した直登だったが、的外れだったと落胆して帰ろうとする。
「いらっしゃいませ……何か、お探し物ですか……?」
振り返った直ぐ目の前に、見上げる程の男がいた。
「うおっ⁉ びっくりした‼」
直登の持っているダンボールが、音を立てて動揺する。男は着物をアレンジしたスーツに、透けるほど薄い黒の羽織を身に着けていて、風変わりなサラリーマン。といった印象だ。直登よりも長い黒髪を後ろの高い位置で結わえてあるため、髪は動くたびに長い尾のように左右に揺れている。
 男は優雅に一礼すると、混乱している直登を気にする素振りも見せずに挨拶を始めた。
「お客様……ようこそ、解通易堂へ……」
「ととやすどう……?」
 直登はオウム返しに呟いて、慌てて首を振る。
「いや、質屋と思って入っただけだ。櫛屋なんだろ? 直ぐ出る……」
「専門は櫛ですが……店内に飾られているアンティークは、全て私が買い揃えた品々……なのですよ?」
 男は、丸眼鏡をきらりとかけ直して愛想よく笑う。
「おや……なかなか、良い物をお持ちでいらっしゃる……どうですか? ここに飾れる物があれば、私が買い取りましょう」
「いいのか!?」
「ええ……そんなに詰め込んでいたら、この先……歩くのも大変では、ありませんか?」
「そうなんだ! 車も無いから、苦労してたんだよ!」
 直登は男の言葉に乗り、喜んでダンボールを櫛が並べられた隣の机に置いた。店内の通路沿いではあるが、他に客もいない。男の方も嫌がる素振りを見せなかったため、直登はお構いなしにその場にしゃがんで休憩をする。
「正直、もう歩くのが億劫になっていたんだ。助かるぜ、ええと……」
「ふふ……私のことは、そう……『店長』とでも、お呼びください」
「店長で良いのか?」
「はい……。これも一期一会、でございますが……お客様にとって、店員はひとまとめに『店員』……では、ございませんか?」
「確かに……オレもバイトで呼ばれる時は『店員』だったな。それじゃあ店長、これ頼むわ!」
 ご機嫌な直登を横目に、男は帳場から紙と万年筆を取り出して、ダンボール箱の中身を丁寧に品定めしていく。雑に放り込まれたせいで箱の中で壊れてしまった物もあったが、男が触れるとそれですら芸術品か何かに見えた。年齢は直登より若く見えるが、驚くほど所作が美しい所を見ると、もう少し年上のようにも感じる。なんとも掴みどころのない店長だ。
 査定は数分で終わった。男がついついと箱から出しながら、万年筆を滑らせて勘定する。
 不思議なことに、直登が高値を想像していた金品やそれっぽい彫刻には目もくれず、誰の作品かも分からない絵画や、耳が欠けてしまっている木彫りの招き猫などが選別されていた。
「これと、これ……ああ……これも良いですね……どうでしょう? 合わせて5万円分でお譲りいただけませんか?」
「そんなにつけてくれるのか⁉ いやぁ、ありがたい! 正直、こいつらは売りもんにならないと思ってたんだ」
 直登は二つ返事で快諾した。男は目をついと細め、万年筆に蓋をする。
「では……交渉成立ですね。今……帳場から、用意をして参りますので……少々お待ちくださいませ」
 男は羽織をはためかせながら踵を返し、長い足を上品に運びながら帳場に戻っていく。直登がダンボールの中を整理しながら待っていると、男は小さな封筒を持って直ぐに戻ってきた。
「いやあ、どうもどうも」
 封筒を受け取った直登は、その場で封を開けて中のお札を数える。ニコニコしていた顔が徐々に曇り、視線が男に向けられる。
「店長? お札が一枚足りない……4万しか入ってないぜ」
「いえ……確かに『5万円分』入っていますよ……」
「?」
 男の言葉に首を傾げて封筒の中を見ると、底の方にまだ何か入っていることに気づいた。
 手の平の上で封筒をひっくり返すと、煙管と胴の長い狐が描かれた櫛が滑り落ちてくる。
「櫛? 店長さんよぉ。オレは櫛なんか使わねえから、あと一万用意してくれねえか?」
 直登はそう言って櫛を差し出すが、店主は含みのある笑みで彼を見つめるばかりだった。
「この櫛には……お金より価値のある『もの』が、宿っているんですよ」
「ものが宿る? 店長、もしかして新手の詐欺か?」
「いえいえ、滅相もございません。ですが、どうぞ一度持ち帰りください……それでも、ご入用でなければ……お店に返しに来るも良し、他のお店に売るも良し。です」
「まあ……そんなに言うなら……」
 渋々承諾した直登は、櫛をダンボール箱に入れて店を後にした。
 太陽は既に西へ傾き始めている。幾分か軽くなったはずのダンボールが再び自身の腕に重くのしかかる。
 汗だくになりながらようやく目的のリサイクルショップに着くと、小太りの店長が対応してくる。先ほどの買い取り金額で自販機の飲み物を買って待っていると、櫛屋の時よりもあっという間に査定がおわった。
直登のせっかくの苦労も空しく、値段がついた品物はほんの僅かだった。
「たったの2,146円⁉ さっきの店じゃあ壊れたガラクタにだって値段が付いたんですよ? もう少しどうにかなりませんか?」
「申し訳ありませんお客様。当店じゃあこれが精いっぱいなんです」
 店長は謝り慣れている様子で頭を下げると、価値が付かなかった品物の中からあの櫛を取り出して、言い訳のように口上を並べる。
「特にね、お客様。この櫛は中古で売るには状態が良く、大変上質な櫛なのですが、うちじゃ値段が付けられないんですよ」
「はあ⁉ 1万円分はするだろ! ちゃあんと櫛の専門店で聞いたんだ!」
「はあ……ですが、櫛は中々買い手がつかないもんで、当店ではもう買取れないんですよ。本当に、申し訳ございません」
 店長はそう言うと、マニュアル通りに何件か同じ系列のリサイクルショップを紹介してきた。あくまで『当店』では値段がつけられないだけで、他の店舗だったらどうにかしてくれるかもしれない。とのこと。
 直登は憤慨しながらも、店長の言う通り、更に歩いて別のリサイクルショップに向かう。しかし、何件渡り歩いても、どこみも櫛を買い取ってもらえなかった。
「チクショウ! やっぱりあの店、オレを騙しやがったな!!」
 遂に疲れ果てた直登は、久しぶりの居酒屋で管を巻いていた。
「こんなもん、一万円を騙し取られたようなもんじゃねえか! クソ! クソッ‼ 店に戻ってつっかえしてやる!」
 しかし、いざ櫛屋のことを思い出そうとすると、頭に靄がかかったように湿り気を帯び、上手く思い出すことが出来ない。
「アレだ……えーっと……やたら綺麗な顔の……そう、櫛の店の……名前は……?」
 店を梯子したせいで、直登は櫛の店の名前はおろか、店長の顔すら覚えていなかった。
 渋々帰宅した直登は、疲れた体を休めよう自室に戻ろうとする。しかし、自室に繋がるリビングで待っていたのは父親だった。
「遅かったじゃないか。母さん、もう寝たぞ」
「……」
 無視を決め込もうとする直登だったが、次に発せられた父親の言葉に、言葉を失って足を止めた。
「明後日、父さんの知り合いが紹介してくれた会社の面接を入れたから、行きなさい」
「……な、ん……」
 なんでそんな急に余計なことをした。と問うほどの体力は残っていなかった。
「……倉の掃除手伝って眠いから、その話後にして」
 回らない頭でも、うんざりすることは可能だった。自室の扉を勢いよく閉めると、冷めかけたお酒の余韻を探るように眠りについた。


 翌日。洗面所の鏡を睨みつけていた直登は、重たい溜息をついてから、面接に行くふりだけでもしようと決意した。
(美容院行く金……あるけど勿体ないな)
「母さん! ブラシとハサミどこ?」
 台所に向かって叫ぶが、母親からの返事はない。仕方なく文房具入れからハサミを取り出すが、母親が使っているものは毎朝きちんと仕舞われてしまっているため、やむなく自室からあの管狐の櫛を取り出した。
(ブラシと櫛の違いなんて分からないけど、まあ大体一緒だろ)
 美容の技術など直登にあるはずもなく、散髪の下調べもせずに髪を梳かし始める。櫛は女性物といったイメージが強く、香水のような甘い匂いがするのかと思いきや、櫛そのものからは燻製のような香りがして、髪を梳くたびに直登の鼻を擽る。
(ん~……やたら甘ったるい匂いよりはマシか)
 と、気にすることなく梳き始める。髪を切って髭も剃り、顔を洗って再び鏡を見上げると、そこには二十代の頃まで若返ったような直登がいた。
(うっわ。オレまだこんなに若かったのか……)
 ひとしきり自分の変わりように感動した直登は、櫛とハサミをそのままにして、今度はリクルートスーツを探すために家を練り歩く。直ぐ見つかるだろうと開けた自分のクローゼットには入っておらず、次いで母親の衣装棚、それから、リビングの母親しか開けない押し入れを、まるで泥棒のようにひっくり返す。
「ただいまぁ」
 リビングの畳が見えなくなる前に、母親が朝の野菜市から帰ってきた。
「母さん。オレのスーツどこ?」
「スーツ? 知らないけど、スーツなんてどうするの?」
 不安そうな声が玄関から近づいてくる。リビングに来た母親は、別人のように爽やかになった直登を見て息をのんだ。
「ちょっと……どうしたの直登⁉ 成人式の時みたいじゃない!」
「明日、父さんが無理やり面接入れたんだよ……で、スーツどこ」
「待ってね。お野菜片付けたら直ぐに探すから。あらやだもう、やっぱり直登はお父さんそっくりね!」
 母親は嬉々とした声で直登を誉めて台所に向かうと、直ぐにリビングを片付けて父親の部屋に直登を連れてきた。
「今更リクルートスーツなんて着ていける歳じゃないでしょう? お父さんが昔使っていたスーツがあるから、それ着ていきなさい」
「ええ……嫌だよ。父さんのスーツなんて……」
「うちにはお父さんのスーツしかないでしょ。今から買いに行くこともできないから、面接くらい我慢しなさい」
 母親はそう言って、父親がサラリーマン現役だった頃のスーツを取り出した。気品のある色合いと持った時のしっとりとした重みが、そこら辺で買えるような代物ではないことをかもし出している。
 直登が渋々スーツを身に着けると、母親は慣れた手つきで袖や裾の皺を伸ばした。きっと、毎朝父親の身支度を手伝っていたのだろう。周囲から珍しがられるような淑やかな女性だったことを思い出しながら、直登はされるがままになっている。
「あら。ズボンの裾が少し足りないわね。後で丈を調節しなくちゃ」
「良いよ。このままで」
「ダメよ。せっかく直登が就活してくれるようになったんだもの。それに、もうお父さんはこのスーツ着ないから、何したって構わないわ」
 久しぶりに楽しく笑う母親を見て、直登はそれ以上何も言えなかった。スーツからは、以前父親が吸っていた煙草の香りがする。リクルートには高すぎるスーツだったが、体に馴染むような感覚に、嫌な気にはならなかった。


 面接当日。言われるがまま向かった会社は、なんと父親が寄越してきた求人の一番上にあった工場だった。面接官も父親と面識のある社員で、なんとも居心地の悪い時間を過ごした直登は、工場見学のため一度休憩室に向かう。
(今までで一番面接上手く言った気がする……でも、出来れば面接だけにして欲しかったな……帰りてえ)
 面接のときに受け取ったペットボトルを空にして、力なくごみ箱に捨てる。父親が使っていたネクタイを締め直して面接官の所へ戻ろうとすると、ふと、懐に違和感を覚えた。
「……?」
 胸ポケットに手を突っ込むと、そこには身に覚えのないタバコと、あの櫛が入っていた。
(あ……父さんが吸ってたのと同じ銘柄だ。櫛は、こんな所に入れたっけか? どっちも、昨日試し着した時はなかったのに)
 不思議に思うが、今は現場の見学が先だ。直登は首を傾げながらも、タバコと櫛を胸ポケットに戻して休憩所を後にした。
 直登が受けた職種は取引先から受け取った図面を工場長に渡し、工場長の指示で図面を引き直したり、書類を整理したりする。簡単に言えば事務と雑務が仕事だ。
「今は人が少なくて、工場長の『おやっさん』が全て請け負ってくれてるんですよ」
「はあ……」
「正直、ボクが良いと思って採用しても、そのおやっさんとそりが合わなくて続かない場合が殆どなんです……なので、これは二次面接だと思っていただければ」
「えっ……⁉」
 心の準備など直ぐに出来るはずもなく。直登は背中に嫌な汗を感じながら、そのおやっさんなる人と対面した。
「……おう。また若いヤツが来たな」
 おやっさんはたくましい身体と如何にも職人のような顔立ちの、父親より年上そうな男だった。その体では、図面チェック用のノートパソコンが小さく見える。
「お前、名前は」
「あ……鈴木直登です」
「歳は?」
「さ……えっと、今年で三十歳です」
 短い質問がいくつか交わされ、おやっさんが再び小さな画面を睨みつける。
「……この図面、分かるか」
「え? ……ああ、高校も大学も工業系だったので、何が書いてあるかは、分かります」
「じゃあ、これをこっちの図面に合わせて、部品番号出せるか」
「は? あ、はい。多分」
 すると、おやっさんが席を立ち、顎で直登にやって見せるよう催促する。直登は久しぶりの作業に緊張しながらも、慣れた手つきで図面を整えていく。
(あ、オレって、まだ結構出来ることが残っていたんだな……)
「おう……出来るじゃねえか」
「うぉ⁉ あ、はい……」
 おやっさんが少し感心した様子で画面をのぞき込む。すると、何かに気づいたように鼻をひくつかせて、初めて直登の方をまじまじと見た。
「お前……煙草を吸うのか?」
「え? あ、いや、これは父さ……父のスーツの残り香で……よく煙草の匂いって分かりましたね」
「おれも同じ匂いの煙草を吸うんだ。今日はどっかに落としたから、昼休みまで禁煙しなきゃならないんだがな」
 イライラしてる様子のおやっさんに、直登はハッとしたようにポケットから煙草を取り出す。
「もしかして、これ……」
「おお! オレの煙草だ。なんでお前が持ってる?」
「え、ええっと……そう! そこの廊下で拾ったんです。め、面接が終わったら、誰かに渡すつもりで持ってて、その……」
 直登は曖昧に誤魔化して、冷や汗を拭う。おやっさんはタバコが戻ってきて機嫌が良くなったのか、その後はまるで当たり前のように直登に仕事を教え、昼休憩に入っていった。おやっさんに気に入られた直登は、久しぶりにやる気が湧いてくるのを実感した。
 翌日、直登の元に一本の電話が入る。母親が受けた受話器の向こうで、中途採用内定の連絡が聞こえた。


 その日以来、直登は毎朝身なりを整えるために、願掛けのように櫛を使い始めた。苦手だった早起きも、実家では母親がサポートしてくれるため、なんとか寝坊せずに出勤できるようにもなった。
 すると、みるみる内に好機が訪れ、やがて直登は図面を受け取るために向かったある取引先で、素敵な女性と巡り合う。
 会社に戻りおやっさんに女性の話をすると、
「ああ、日光プリントの嬢ちゃんだろ? あの人はうちの中でも人気があるから、欲しいんなら早めに唾つけとくんだな」
 と言われ、直登は仕事をしながら彼女のことばかり考えるようになった。
 取引会社に行くたびに話をしていく内に、彼女は普段から爪が綺麗で、上品な色合いのネイルを日によって使い分けていることが分かった。
 実家に帰ってからも、直登の思慕の念は消えることなく。今は丁寧に髪を乾かしてから櫛を使うようになった直登は、洗面所で管狐の模様をつっつきながら考えた。
(今度、その話をしてみようか……それとも、食事の好みの話の方が無難か?)
 すると翌日、櫛を入れてあった引き出しに、女性物のネイルが入れてあった。
「? 母さん、このマニキュア母さんの?」
「え? お母さんマニキュアなんて使わないでしょ」
「ああ、そっか……」
 母親ではないことを確認して、こっそりと会社のカバンに入れる。
 今日も取引先で女性と雑談していると、直登は思い出したようにカバンを開けた。
「あの……良かったらこの化粧品。使ってくれませんか?」
「え⁉ 良いんですか? 凄く嬉しいです、実は……」
 なんと、それは、彼女が買ったきり無くしてしまっていた、今年の春の新作ネイルだったのだ。そのまま好きな色の話に発展し、今度食事をする約束と連絡先を聞き出すことに成功する。
(やった! 会社で誰も知らない連絡先をゲット出来た‼ それに、彼女も何となく好印象だった気がする‼)
 一気に距離が縮まったことに喜ぶ直登。そして、面接の時の違和感が確信へと変わっていく。
(理屈は分かんないけど……どうやらこの櫛は、誰かの無くした物を呼び寄せる力があるらしい……凄い櫛だ! 上手くいけば、もっと良いことや良縁に恵まれるぞ)
 その後も彼女へのサプライズプレゼントを続けた直登は、ついに告白に成功した。
 彼女だけではなく、会社の無くし物や古い書類の話を聞くと、無くした場所で櫛を使うようになった。すると、翌日には無くし物がひょいとそこに現れるのだ。着々と見つけ出して人々に貢献していく内に、直登は社員やおやっさんからも重宝されることになる。
 就職して3年の時が経ったある日、彼女を実家に連れてきた直登は、温かい時間をリビングで過ごしていた。当時は絶対に分かり合えないと思っていた父親とも、今は老後の趣味の話で盛り上がれる仲になっている。
 翌朝、直登と一緒に洗面所に立った彼女は、彼が丁寧に使っている櫛を見て言った。
「あら、可愛い櫛を使っているのね」
「ん? ああ、これか。これは、お金より価値がある。オレだけの縁起物なんだ」
 会話を続ける直登たちの気づかない所で、櫛の中の管狐が、しめしめと笑って見えた。

――管狐に憑かれた家は『くだもち』と呼ばれ、最初の内は狐が『運』を運び、家は裕福になると言います。しかし、管狐が増え続けると、その先は……。
「管狐って妖怪は、他の家から物を盗む妖怪じゃねえのかい?」
 店内に置いてある妖怪の本を読みながら、ワイシャツを肩まで捲った和寿が、独り言のように問いかける。草臥れたジーンズに使い込まれたスニーカー。一見すると普段着のように見える。タオルで前髪ごと頭全体を覆い、片手には埃叩きを持っている所を見るに、どうやら店内を掃除している最中のようだ。
 風鈴の音が店内に響く。今日も、解通易堂は『お客様』が来るのを待ちわびているように、小さな出入口を開け放って佇んでいる。
「するってえと、くだもちってヤツァ、泥棒とおんなしってことにはならねえか?」
 和寿は、今度は帳場の奥に向かって怒鳴りつける。決して怒っているわけではなく、これで本人は至って素直に言葉を奏でているのだから、なんとも不思議な男である。
 しかし、帳場の奥にある作業台にいる泉は、櫛を椿油で手入れしながら、和寿より不思議な雰囲気を纏い、含みのある笑みを宿して静かに言った。
「私は……そうですね、お客様に『きっかけ』……を、差し上げただけですよ……その後の、彼の人生がどうなったか……それは、その方の『運』次第、なのですから……」

【完】

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