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泉御櫛怪奇譚 第二十話

第二十話『焦がし猫たちの夜 ~弐夜目~』
原案:解通易堂
著:紫煙

――櫛には、様々な絵や彫り物があしらわれておりますが、その『柄』によって売り手や買い手が込める想いは大きく変わってゆきます。中には、巡り巡った遠い誰かの想いが込められた柄が、偶然櫛に焦がしつけられてしまう様な、奇跡とも言える現象が起こったり、起こらなかったり……。
おや? 今夜の『焦がし猫』達の夜会に、どうやらそれらしい猫が紛れ込んでいるようですよ?


 とある地方の繁華街に、小さな飲食店が建っていた。看板には『ら~めん庄造』と書かれているが、入り口に貼られた紙には、明日開店する旨のお知らせが記載されてある。
 まだ一人の客も訪れていない店内に、店長が『そのコ』を連れて来た。
「アンタ、そんな場所に置いたら会計の邪魔やんか。あからさま過ぎて恥ずかしないんか?」
 夫の予想外の行動に驚いたのか、厨房で作業をしていた妻が慌てて出入口の会計カウンターまでやって来る。
「そういうんは神棚か、風水で決められた方角へ置くんやないん? 知らんけど」
「いいや! ここでええんや‼」
 妻の反対を押し切って、店長は重たい『そのコ』をカウンターの端、取り分け入口に近い場所へ乗せると、愛しそうにその頭を撫でた。
「こんな無名のラーメン屋、予定通りに開店出来た所で、この繁華街じゃ直ぐに埋もれちまうやろ。ほんなら覚えてもらえるように、なんか一つでも目立つものを見える場所にってワケや」
「はぁ……アンタ、ラーメンの腕と思い切りの良さだけは天下一品やね」
 妻は溜息を吐きながら苦笑すると、夫と同じ様に『そのコ』の頭を撫でた。
「まぁ、ウチに来たからには、精一杯お客さん招きこんでや」
「任セロ! ソノ為ニ、オ父チャンガオイラヲ買ッタンダカラナ!」
「ちょっとアンタ、変な声でアテレコせんとってよ!」
 そう言って夫を叩いた彼女の表情は、面白そうに笑っていた。
 それから店長は、翌日から毎朝『そのコ』を磨いてから店を開店させた。
「おっしゃ、今日もお客さん沢山呼んでくれよな。お前はウチの看板っコなんやから!」
 開けっ放しにした入り口から見える『そのコ』は人目を引くらしく、興味本位だったり写真目的だったり、様々な理由で訪れる客が増えていった。
 何年も経過すると『そのコ』の視界には席いっぱいのお客さんと、忙しそうに厨房で手を動かす店長の様子が映っていた。
「お勘定! てんちょー、今日の新作ラーメン美味かったで。アレ期間限定やなくて、通常メニューにしてくれへんか?」
 開店当初からの常連客が席を立つ。店長は厨房を妻とアルバイトに任せて『そのコ』が乗っているカウンターへ移動してきた。
「おおきに! ほな毎日来てくれたら裏メニューで出すわ」
「お! 上手い事言うやないか。全く、口だけは達者なんやから……ちょっと褒めたら直ぐこれや」
 悪態をつくのは信頼の証拠。現に、笑いが絶えない店内は時代が変わっても続いて行った。そして、まるで挨拶の様に、会計を済ませたお客は皆が『そのコ』を撫でて店を出て行く。

―ラーメンのにおいも、あじもわからにゃいけど……おいら、ここがだいすきにゃ!―

 誰でもない声が、ふと耳に響く。今日も変わらず店長は店内の掃除をして、丁寧に『そのコ』を拭く。
「おおきになぁ。お前が皆を呼んでくれたから……■■■■」

―……? おとうちゃん?―

 刹那、視界が不自然に暗転し、店長の言葉は途中で途切れる。まるで浅い眠りから覚めたかの様な、急な生々しさが全身に広がる。
「……っにゃ!?」
 次に聞こえたのは、自分の口から出た鳴き声だった。徐々に見えるようになった視界には、薄暗いアパートの一室が映っている。
「ここは……どこにゃ?」
 ぐるぐると自由に動く視界で目が回りそうになる。ふと焦点が合ったのは、鏡に映る猫の姿と、後ろの布団で寝ている知らない女性の姿だった。足元には自分の身体と同じ臭いのする木の板が転がっていて、そこから飛び出してきた事だけは理解できる。木の板は長い面の片方がギザギザに加工されていて、表には自分が抜けだしたであろう跡がくっきりと残っている。
「おいらは……おいらは、なんにゃ? どうなっちまったんにゃ!?」
 混乱した猫は自分が動いている事に心底驚いて、文字通り部屋を突き抜けて飛び上がった。天井がぎゅんと近くなって思わず目を閉じたが、身体は天井を、更には屋根をすり抜けて、夜空でふわりと停止する。恐る恐る目を開けると、最初にキラキラのお星様と三日月が目に映る。空から見下ろす視界は新しい景色ばかりで、不安と恐怖で落ち着かない。
 ふと、同じような猫が、すぅっと違う家の屋根から出てくるのが見えた。一匹だけではない。何種類もの猫がふわりと現れて、一直線に同じ方向へ移動していく。
「あいつらは……なんにゃ? おいらと、おなじなのかにゃ?」
 猫は不慣れな手足を動かして、必死に他の猫たちの後をついていった。

――これが、一匹の『焦がし猫』が抱いた、初めての記憶である。


 おれは猫である。いつ産まれたかは分からない、片方の前足だけ白毛の黒猫だ。
 『野良坊』とか『ノラくん』とか『かたっぽくつした』とか、ニンゲンには様々な名前で呼ばれている。意味は知らにゃいが、一番呼ばれているのは『ミスタ』だから、覚えて帰って欲しい。
 おれは野良猫だが、他の野良猫に比べてまだ生きやすい方だ。お日様がニンゲンの鉄の森で見えなくなる位置まで沈むと、おれは『解通易堂』って名前の住処まで行ってにゃあにゃあと鳴く。すると、動く四角い箱に乗ったオスのニンゲンがやって来て、ご飯を用意してくれるんだ。最近、ニンゲンたちがこの動く箱や塊の事を『とらっく』とか『くるま』とか言っている事を知ったのだが、どうして箱の大きさで名前が変わるのか、おれには分からにゃい。
 しかし、今日は解通易堂の横に四角い箱は無かった。おれは解通易堂の住処の前でにゃあにゃあと鳴くと、このナワバリを牛耳っているイズミと言うニンゲンが出てきた。
「おや……いらっしゃいませ、ミスタ」
[邪魔する。カズトシはいにゃいのか?]
「ええ。本日は遅番、だそうで……夜明け前に、顔を出すと……仰っておりましたが、恐らく……本日は、訪れないでしょう」
 おれは、唯一会話できるニンゲンに「にゃあ」と鳴くと、勝手に住処へと足を運んだ。
 イズミとおれは、どこか似ている。どこがどの様に似ているかと聞かれると『匂い』としか答えられにゃいし、それに、なぜイズミにおれの言ってることが通じるのかは、おれも知らにゃい。
 おれは身体をうんと伸ばして、開けっ放しの襖を通り過ぎる。イズミはおれが来ることを予見していたのか、既におれの臭いが染みついた座布団を用意してくれていた。座布団の上で喉を鳴らしていると、カズトシが用意するものと違う、カリカリの冷たいご飯を器に入れたイズミがテリトリーに入って来る。
「どうぞ……」
[カズトシが入れてくれるフワフワのあったかいご飯はにゃいのか?]
 おれの好物を伝えると、イズミは情けないと言わんばかりに口角を上げて、前足で後ろ首をかく。
「猫缶の、ことですかね……生憎ですが、缶詰を開ける道具が……何処にあるか、把握しておりませんもので……」
[……お前はいつか、ここのナワバリをカズトシに奪われるぞ]
 おれは仕方なく良い香りのするカリカリを頬張ると、後から出てきた水を飲んで腹を満たした。
 食後の満足感で喉を鳴らしていると、イズミは楽しそうに指でおれの喉を触りながら、つらつらと『言葉』を並べ始める。
「そう言えば、今年も様々な『焦がし猫櫛』が……入荷されましたよ。先日も、一枚の櫛が……お客様の元へ、渡って行きました……」
 ニンゲンとは不思議なもので、おれ達猫や嫌味しか鳴かないカラス等とは違って、色んな鳴き方を組み合わせて『言葉』を作る。しかも、その鳴き方が違うとニンゲン同士では話せなくなると言うから、余計に面倒だ。
[……では、早ければマシロのように、昨年の焦がし猫櫛から怪猫が出てくるかもしれにゃいな。今夜の猫集会で注意してみる]
「ふふ…私も、その猫集会に……参加して、みたいものです」
 イズミの言葉は欠伸をした猫の鳴き声に似ている。しかし、イズミはニンゲンだから、その希望は受け入れられにゃい。おれは牙を控えながら喉に触れている指に噛みつくと、シャーと威嚇してニンゲンに警告した。
[それは許されにゃい。何故なら、イズミは猫でも怪猫でもにゃいからだ]
「おやおや、これは手痛い……ご馳走様です」
 イズミは噛み跡を残した指を撫でると、満足そうに口角を上げた。この現象を、ニンゲンは『笑う』とか『笑顔』と表現している。
「もしかしたら、猫集会に……新しい『焦がし猫』が、増えているかも……知れませんね」
 『焦がし猫』とは、おれの様な生きた猫と違う。どちらかと言えば『猫又』や『猫魈』といった『怪猫』の一種だ。怪猫の界隈では『櫛猫』とも呼称されている。柄とか絵とか言うらしいが、要は櫛に焦がしつけられた猫の模様が、付喪神となって自我を持った姿。と、イズミは説明している。おれには等しく『臭いが違う猫』としか区別していにゃい。
[……俺には関係にゃいが、マシロの件があったからな……まあ、新顔には声をかけるようにしている世話焼き猫がいるから、そいつに任せる]
「ハチワレ様、ですね……ふふ、よろしくお伝えください」
 イズミはそう言って、また口角を上げた。


 今夜も、解通易堂から少し離れた無人神社に猫が集まる。大体は櫛から出てきた『焦がし猫』で、持ち主のニンゲンの事を『ご主人様』と呼んでは、その自慢話に華を咲かせている。
[今日も、ウチのご主人様の髪は美しかったのにゃ~]
[にゃんだってぇ~!? その美しい髪が見て見たいにゃぁ~!]
[ボクのご主人様はこの前ブリーチ3回目で、めっちゃ櫛活が進んでいるんだにゃぁ!]
[にゃんだってぇ~!? それは羨ましいにゃぁ~!]
 黒ブチ、キジトラ、サビ。柄も猫種も様々だが、中には同じ櫛に描かれた花柄や麻の葉柄なんかを巻き込んで毛の模様になっている猫もいる。
(おお、もう皆集まっているのか……早いな)
 遅れてやってきたおれは、既に賑やかな神社の臭いを確認して、ふんぞり返ったハチワレを遠目から観察する。ハチワレは、灰色と白の半分猫で、目の上の真ん中で色が分かれている。
[オレは、ずっと可愛がってくれた飼い主が、死後も一緒にいられますようにって櫛屋に頼んで焦がしつけられた櫛猫なんだぜぃ! これがホントの『唯一無二』ってヤツなんだぜぃ‼]
[流石はハチワレの旦那だにゃ~、しびれる愛を感じるにゃ]
[ああ、ハチワレの自慢話は聞いていて気持ちいいにゃぁ]
 相変わらず、毎晩同じ内容の話を続けている猫たちだが、どうして飽きにゃいのだろうか。
[おん? ミスタじゃねぇか!]
 おれに気付いたハチワレは、自慢話の中心から離れて軽やかな足取りで近づいてきた。今夜もおれの顔を嗅いで晩御飯のチェックをする。焦がし猫は、基本的には櫛の臭いと使い手である持ち主『ご主人様』の臭いしか分からにゃい。しかし、生前の記憶があるハチワレは、たまにこうしておれから思い出を嗅ぎ取って、嬉しそうに喉を鳴らす。
[ふんふん……今日はカリカリか? オレも生きてた頃に喰ったことがある臭いだぜぃ]
[今日はカズトシが居なくて、猫缶にありつけにゃかったんだ]
[そりゃぁ災難だにゃあ。まあ、元気出すんだぜぃ]
 ハチワレは喉を鳴らしながら、おれの顔を毛繕いしてきた。櫛猫に毛繕いをされると、おれの身体は飼い猫の様にサラサラになるから、嫌な気がしにゃい。
[……そう言えば、イズミが今年も懲りずに焦がし猫櫛を人手に渡したと言っていた。いよいよこの神社も狭くなってくるかもな]
[にゃあ! 仲間が増えるのは良い事なんだぜぃ!]
 ハチワレはふんふんと楽しそうに鼻を鳴らすと、ピタッと動きを止めた。
[? どうした、ハチワレ]
[また、知らない櫛の臭いがするぜぃ]
[ん……本当だ]
 臭いの軌跡を辿ると、猫集会の隅の方で挙動不審になっている一匹の三毛猫を見付けた。臭いからして焦がし猫だ。首輪、いや、前掛けの様な布を首に下げて、お尻に小判模様がある。先程も櫛から抜け出す際に、櫛の柄が身体に映ってしまう猫が居ると説明したが。きっとこの焦がし猫もそのタイプだろう。
[昨日の晩から来てるヤツなんだぜぃ、昨日は喋る前に消えちまったんだけどよ……でも、珍しいヤツだぜぃ。新参者だったら我先に猫紹介して、ご主人自慢するもんじゃねえか?]
[そうだな……ちょっと話してみる]
 心配するハチワレと共に、三毛猫の元に歩み寄る。
[おい、そこのお前]
 おれが声をかけると、三毛猫はブワッと毛を逆立てておれたちの方を振り向いた。目の瞳孔が開いて、あからさまに警戒している。
[いや……安心してくれ。おれはミスタ。後ろのこいつはハチワレだ]
[よっす、ハチワレだぜぃ。おじょーちゃんは?]
 ハチワレが気軽に片方の前足を上げると、三毛猫は、今度は耳が無くなる程垂らして身体を小さくした。
[お……おいら……]
 辛うじて聞こえたか細い声は、産まれたての仔猫みたいだった。
[ああ、オス猫だったかにゃ? すまねえ、三毛猫ってオレのイメージだとメスが多くって、間違えちまったぜぃ]
[確かに、オスの三毛猫は珍しいな。で、名前は?]
[な……ま、え……]
 オスの三毛猫はしどろもどろにしながら、意を決した様に顔を上げておれたちの方を向いた。
[おいら……おいらは、誰にゃ? 分からにゃいにゃ……昨日出てきて、それで……]
 三毛猫から発せられた鳴き声は途中で切れてしまい、再び俯いて沈黙してしまった。おれは三毛猫の言葉に違和感を覚え、三毛猫に尋ねる。
[昨日……自分の名前が分からにゃいのか。ご主人様の名前は?]
[ご主人様? オトウチャンのことにゃ?]
[おとう……? お前、櫛猫だろう。お前を買ったのはニンゲンのオスなのか?]
[にゃ? 最初に見たのは、寝ていたメスのニンゲンにゃ]
(やっぱり、変だ)
 おれはイマイチ噛み合わない会話から、この三毛猫にある異常性に鼻をひくつかせた。
[……ハチワレ、ちょっと……]
[にゃぁ?]
 おれは自分の毛繕いをしていたハチワレを呼ぶと、三毛猫と距離をとって声をひそめた。
[ハチワレ、お前は『焦がし猫』の条件って知っているだろう?]
[おう! 当たり前だぜぃ‼]
 おれの質問に、ハチワレは得意げに答えてくる。
[そもそも、絶対条件として、櫛猫は『櫛として使い手であるニンゲンに大事にされること』があるんだぜぃ!]
 そうだ。生きているおれと違って、焦がし猫たちはニンゲンの『想い』を原動力にしている。櫛の使い方はニンゲンによって、毎日使ったり、コレクションとして飾ったり色々だが、大事にする『想い』は、焦がし猫たち曰く同じ物らしい。
 そして、櫛の状態で自我が芽生え、ニンゲンの名前や生活習慣を学ぶうちに徐々に力が溜まり、櫛から飛び出してくるのだ。
[初めてここに来た時、自分の名前が分からない焦がし猫は少なくにゃかった。だが、ご主人の名前まで分からないまま顕現出来た焦がし猫が居ただろうか?]
[にゃにゃ! 本当だぜぃ。ご主人の愛情無しに櫛猫になれるなんて、先ずあり得ねえんだぜぃ‼]
 ハチワレもようやく事の異変に気付いたのか、慌てて三毛猫の元へ駆け寄ると前足を器用に使って肉球をポムッと三毛猫に押し付けた。
[にゃぁ、おい! オマエ、ご主人様のこと本当に分からねえのか? オレに自慢話をしてみるんだぜぃ]
[ニンゲン……オトウチャンの事なら、おいら大好きにゃ! オトウチャンは、えと……毎朝おいらを撫でてくれて、そんで……いつも『オオキニ』って言ってくれて、ええーっと……]
[お? おお……ニンゲンに大事にされていた記憶はあるんだにゃ。でも、その『オトウチャン』は、お前のご主人なのかにゃ?]
[わ、分からないにゃ……でも、今のニンゲンじゃないことだけは確かにゃ!]
 三毛猫の主張に、ハチワレはプニプニ押していた肉球を離して「な~う」と唸った後、俺の方に近づいて尻尾を左右に振った。
[にゃぁ~ミスタ、アイツもしかしたら、前世の記憶があるのかも知れないんだぜぃ?]
[前世? ハチワレみたいに、あいつも焦がし猫になる前は生きていたって事か?]
[そうだぜぃ! アイツはニンゲンの事を親猫みたいに慕っている感情が確かにある。きっと、前のご主人の『想い』が強過ぎてうっかり櫛から飛び出しちまったんじゃねえか?]
[う~ん……そうすると……]
 ハチワレの推理も概ね当たってそうな気がするが、それだと根本的に『ある物』が欠けている。
[だとすると、ハチワレやおれみたいに、ニンゲンが付けてくれた『名前』を憶えている筈だろう? でも、あのオス三毛猫は自分が誰なのか分かってにゃい]
[あ、そっか……んにゃぁ~~~こいつぁ難解だぜぃ]
 ハチワレは後ろ足で首を搔きながら考えた後、身体をうんと伸ばして欠伸をした。つられておれも欠伸が出たのだが、決して他意はにゃい。
[まあ、ともかく一晩二晩で櫛から出てきたからには、何か理由や原因があるハズだ。オレたちで助けてやろうぜぃ!]
[……賛成だ。おれも気になる]
 意見が合った所で、再び三毛猫の方を見る。三毛猫はさっきよりも隅の方で小さくなってはいたが、稀にご主人の『想い』が足りなくて消失してしまう焦がし猫の様に、身体が透けたり欠けたりとかはしていにゃい。
(余程強い想いが、あいつの中にあるんだろう……それをニンゲンみたいに忘れてしまうのは、なんだか勿体にゃい)
 おれは、三毛猫の元へ近付くと、出来るだけ丁寧に三毛猫を毛繕いをした。三毛猫は、最初こそ毛を逆立ててはいたが、ハチワレにも顔を舐められて次第に落ち着いたのか、喉を鳴らして身体を擦り付けてきた。
[おうおう、そんなビビるんじゃないんだぜぃ。ええっと……先ずは名前だぜぃ! ミケだとこの猫集会に五万と居るし、ネコタもネコロウもピンとこねえにゃあ~……]
[本当に、自分の名前を憶えてにゃいのか?]
[……うん。思い出せないにゃ]
 おれが改めて確認するが、やはりどうやっても思い出せないらしく、三毛猫の耳はぺしゃんこのままである。
[……そうだ! 小判模様が身体にあるから『コバン』って呼ぶのはどうかにゃ?]
[コバンか……うん、悪くない]
 おれはご主人様自慢大会に参加している茶トラの『シマ』や白猫の『マシロ』を見ながら頷いた。ハチワレはふんぞり返って鼻を鳴らすと、オス三毛猫改めコバンに向かって兄貴肌を見せてきた。
[よっしゃ! コバン、このハチワレ様が、直々にお前をサポートしてやるぜぃ!]
[うん……オオキニ]
 どうやらコバンは『オオキニ』と言う単語が口癖らしい。おれとハチワレは他の仲間達にコバンを紹介して回ると、今後のコバンの記憶探しについて話し合った。


 朝になると、焦がし猫たちは音もなく姿を消して、大好きなご主人が使う櫛の元に帰って行く。一猫になったおれは、眠たい目を白い前足で擦って、腹を空かせながら解通易堂へ向かった。
(むぅ……カズトシが用意したフワフワご飯が食べたい……そんで腹いっぱいにして、今日の夜に備えて眠りたい)
 そう思いながらフラフラと辿り着くと、カズトシが使っている鉄の塊が、住処の前に停まっていた。
「にゃぁ! みゃぁ~、うなぁ~‼」
 おれはカズトシを呼びながら住処の入り口に走って行くと、おれの鳴き声を聞いたカズトシが住処から出てきた。
「ようミスタ。ちょっと待ってろ」
 大きな手でひと撫でされると、嬉しさで思わず喉が鳴ってしまう。カズトシと一緒に住処へ入ると、普段は櫛の臭いがする足場の上でイズミが珍しくご飯を食べていた。いや、ここ最近のイズミはよくニンゲンのご飯を食べている。カズトシがおれのご飯のついでにイズミの分も用意している様で、改めてこの妖怪みたいな臭いのするオスはニンゲンなのだと思う。
「おや……おはようございます、ミスタ。朝にお越しいただくのは、珍しいですね……」
[……ご飯を食べるってことは、やっぱりお前もニンゲンだったんだな]
 おれは当たり前のことを再確認して、カズトシが準備してくれたおれ用のご飯を頬張る。イズミが言うには、このフワフワのご飯は『缶詰』と言う硬い入れ物に入っているらしく、しかも、今時珍しい『缶切り』とかいう道具を使わないといけないらしい。ニンゲンは自分で狩りが出来にゃいのに、自分で開けられにゃい入れ物を作る。全く理解が難しいのがニンゲンだ。
「それで、本日は……如何致しましたか?」
 先に食べ終わったイズミが、ナワバリへ向かって移動しながら問いかける。おれが「ねうねう」とご飯を食べながら説明すると、作業を始めようとしたイズミの手が止まった。
「小判の模様の焦がし猫櫛、ですか……ふむ……」
[何か思い当たるか?]
 おれは久々に、と言っても一晩ぶりだが。それくらいに感じる大好物を食べ終えて満足しながら顔を洗うと、イズミのナワバリに移動した、イズミと櫛の臭いが広がるナワバリは、この住処の中でもおれの一番のお気に入りスポットだ。入った途端に、コバンに感じた油の良い臭いが鼻をくすぐり、急激な眠気を感じる。
「ここ数十年の間にも、小判模様の櫛を……お客様にご提供、したことは……ございますが、確か『彼等』は全て……ミスタが焦がし猫に、顕現したことを……確認していたと、記憶しております」
[……続けてくれ]
 おれは大きな欠伸を一つすると、より温かい場所を求めてイズミの膝に乗った。ここだったら、うとうとしながらでもイズミの声が聞こえるだろう。
「ミスタの話を聞くに、そのコバン様は……先日から販売している『今年の焦がし猫櫛』の……中の一匹、と言う可能性が高い……ですね」
[仮説は、おれたちと一緒だな……だが、そんなことがあり得るのか?]
「……残念ながら、前例は……ありません」
 イズミがカズトシよりも細くて長い指で、おれの頭を撫でてくる。イズミに触られるのは、本当は悪い気がしにゃい。気持ち良いし眠いから放って置くことにする。
[焦がし猫たちにも一晩かけて聞いて回ったが……櫛から出てくるためには3年から5年程かかることが、多い……らしい]
 おれは、うつらうつらと船を漕ぎながら、他の焦がし猫たちの会話を思い出す。
―なににゃに? いつ焦がし猫になれるかって? あちしは5年かかったな~―
―ウチは10年だったかにゃ? シマは1年半だったよにゃ、あの時は早いにゃぁって思ったにゃ―
―ええ! ご主人様が大層ボクを気に入ってくださり云々……―
―この猫集会の中で一番早かったのは、マシロちゃんじゃにゃいか? 確か、1年間大事に飾られてたって……―
 シマとマシロの3年以内組が特例だとしたら、コバンの1日、2日で櫛から飛び出してきたのは異例だ。
―にゃにゃ、事件だぜぃ! コバンは名前も、ご主人様の名前も覚えてない。こりゃあ先輩のオレたちが謎を解明せにゃあならんぜぃ!―
 ハチワレのつんざく様な大鳴き声まで思い出したおれは、前足で耳を掻いたり顔を振るわせたりした。今はただ、状況を整理しながら寝たいんだ。
(あの時は、嗚呼、これがカズトシが時々呟いている『帰りたい』って感情か……なんて思ったが……違う、今は……コバンの情報を……イズミに……)
[イズミ……コバンは記憶しているニンゲンのことを『オトウチャン』と呼び『オオキニ』が口癖の三毛猫だ……あと、そうだ……会話の中で、一つだけ思い出していた]
―そうにゃ! 『ショウゾウ』にゃ‼ おいらの住処に来るニンゲンは皆『ラウメンショウゾウ』って言ってたにゃ―
「らうめん……ラーメン屋さんの名前、ですかね……ふむふむ」
 イズミはおれを撫でる手を止めずに、もう片方の手を自分の顎に当てて考え込む。そこで、おれの意識は完全に睡魔に飲み込まれてしまった。
「……とし、和寿……」
 最後に聞こえたのは、断片的なイズミとカズトシの会話だった。
「……ぁあ!? んなこと、どうやって……」
「ふふ、よろしく……頼みましたよ……」


 コバンが焦がし猫として現れてから約2ヶ月が経った。
 コバンは、最初こそ神社の隅で縮こまっていたが、毎晩猫集会の様子を見て色んな焦がし猫と話すうちに、少しずつ性格が画一してきた。
 焦がし猫としても自我が芽生えてきているようで、宿り櫛の持ち主の話も段々と増えてきている。
[毎朝櫛に戻ると、今のご主人様がおいらを優しく手で撫でてくれるにゃ! いっぱい髪を梳くのは気持ち良いにゃ~]
[にゃにゃ! コバンにも、あの髪の気持ち良さが分かるようになったにゃ‼]
[こりゃめでたいにゃ~!]
 まるで、野良猫がニンゲンに懐いて家猫になっていくみたいに、少しずつご主人様に心を開いてきている様子だ。しかし、中途半端に残ってしまった『オトウチャン』の記憶とどう折り合いを付けるか分からないようで、時々思い出したように喋り出す。
[あ……! オトウチャンが、らうめんにはしょうゆとみそとしおと……あと、とんこつって味があるって言ってたにゃ]
 ある日、コバンの記憶の断片を聞いたメスのトラ猫が、うんうんと頷きながら会話に加わって来る。
[ラーメンはニンゲンの大好物にゃ。あちしの旦那様もお外で食べてくるにゃぁ]
 トラ猫の隣にやって来た、尻尾が二つ映えた黒い長毛猫も賛同して、マタタビの枝をニンゲンの煙草の様に加えながら頷く。
【たまに、煮干しの良い香りがするラーメンもあるんだにゃぁ……あれはたまらにゃい~】
[にゃ!? おいらも、臭いが分かる様になるにゃ?]
 おれが解通易堂から紙束を咥えて神社へやってくると、コバンは既に他の焦がし猫と、ここに来るのは珍しい妖怪『猫又』と談笑していた。
 咥えた紙を飛ばされない様に茂みに隠して、呆れた顔でコバンの後ろに移動する。
[コバン、焦がし猫は櫛の香りと使い手のニンゲンの香りが区別出来るだけで、他のニンゲンの香りまでは分からにゃい。トラは焦がし猫だが、そっちのは別の怪猫だ]
[にゃ! ミスタ、本当かにゃ!?]
 コバンは目をまん丸にして、おれと猫又を見比べた。猫又は【にゃんだい、つまらないね】と、おれを睨むと、コバンに向かって裂けた口角を吊り上げる。
【わっちは寿命を迎える前にニンゲンの血を飲んだ妖怪『猫又』にゃ。今はニンゲンに化けて、わるぅいニンゲンを懲らしめているんだよ】
[ニンゲンに化ける? じゃあ、ニンゲンと同じ物が食べられるにゃ?]
【そうさね、わっちが生きていた頃のおまんまに比べりゃ美味いがね。一緒に食べている相手が悪い。とにかく悪い‼ 結婚詐欺とか、不倫、浮気をするニンゲンのオスを逆に食事に誘って騙し返すのさ】
[やめてくれ猫又。コバンにその話はまだ早い]
 おれはコバンの耳を両前足でぷにっと塞いで猫又の台詞を聞かせにゃい様にすると、頭の上に『?』が付いているコバンを集団の外に押しやった。茂みに隠した大事な紙が見える位置と、猫目に付かにゃい位置を確認して、話を切り出す。
[コバン、今日はニンゲンから情報を貰った。お前の生い立ちが分かるかも知れにゃい]
[本当かにゃ‼ オトウチャンに会えるかにゃ!?]
[それは……]
 おれが言葉に詰まっていると、遅れてハチワレがやってきた。集まっている猫達が歓迎する中、ハチワレは真っ直ぐおれたちの方に来てくれる。
[よう……にゃにゃ? 今日は猫又のおじょーちゃんも来ているんだぜぃ]
[うん! さっき、らうめんは良い香りがして美味いって聞いたにゃ‼]
[あーそりゃ良かったなぁ……って、違うちがう。そうじゃないんだぜぃ!]
 やや天然なコバンの台詞に、ハチワレがビシッと突っ込む。これも毎晩の恒例になりつつあって、最初兄弟猫っぽかった雰囲気が、一気に笑いを追求しているコンビか何かに見えてくる。
(確か、カズトシが休憩中に、たまに薄くて四角い『スマホ』って板に、こんなやりとりをするニンゲンたちを映して見ていたな……お笑い芸人? とかいうやつだ)
 おれは脱線しそうな台詞を寸での所で飲み込むと、目をカッと開いてコバンとハチワレに肉球パンチをして黙らせた。
[聞け。解通易堂がニンゲンの情報を集めてくれたんだ]
[おお、あのイズミのヤツだにゃ! さっすが、頼りになるぜぃ‼]
[トトヤスドウ? イズミって誰にゃ?]
 一猫だけ話が飲み込めないコバンに、おれは軽い紹介と、今日の昼のやり取りを話した。
[おれの飯処の一つに、解通易堂って言う櫛屋がある。コバンは、その解通易堂から数か月前に売り出された櫛の一枚であることが判明した。イズミがお前を購入したメスのニンゲンの名前を憶えていたんだ……]
 場面は夕方の解通易堂に遡る。おれはいつもの様にご飯をねだりに解通易堂へ向かうと、今日は丁度小さい鉄の塊に乗ったカズトシとばったり会った。塊は「ブロロロロロ」とカズトシに懐いていて、なんだか気に入らにゃい。
「よう。飯はちっと待っててくれねえか?」
 カズトシは硬い頭を覆うヤツを外しておれをひと撫ですると、大きな手でひょいとおれを抱き上げて住処へ入って行く。
「旦那ぁ! 見つけたぞ『ら~めん庄司』」
「にゃ!?」
 おれは思わず[本当か⁉]とカズトシを見上げた。店の中から出てきたイズミと目を合わせて、手短に情報交換が行われる。
「会社の上司とか同期に聞いて回ったり、馴染みの客に雑談のネタにしたりしてたんだけどよ。先月くらいからこっちに異動してきた同期が店の元常連だったんだ。だが……」
 神社の空を眺めながらニンゲンの様子を説明すると、うっかりカズトシの紹介をしていないことに気付く。
[カズトシ……その、イズミの子分曰く、猫はおろか人の足だって辿り着けにゃいくらい遠い場所にあるらしい。しかも、今の店の名前は『ら~めん庄司』じゃなくて、イエケイ? とか、名前を変えているのだとか]
 神社に集まったおれが、カズトシの代わりに情報を伝えると、コバンは目を輝かせておれとハチワレを見比べた。
[じゃあ、オトウチャンに会えるにゃ!? 遠くても、会いに行きたいにゃ‼]
[そうだぜぃ! 櫛猫だったらひゅ~って浮かんでビュンッ‼ で辿り着けるんだぜぃ!]
 ハチワレもノリノリでついて行こうとする。おれは溜息をつくと、もう一度ブニッと二猫に肉球を押し付けた。
[もう少し考えてから物を言え。ハチワレ、おまえはあまりにも家猫過ぎる。場所を教えた所で、焦がし猫に分かる訳がないだろう]
[にゃ? でも臭いで分かるんだぜ……にゃにゃにゃ!?]
 ハチワレはようやく気付いた様子で、瞳孔をキュッと細めた。
[そう。ハチワレはもう焦がし猫だ。他のニンゲンの臭いは分からにゃい……それに、コバンはそのオトウチャンの臭いを覚えていないから、おれたちだけでは一晩で辿り着けにゃい]
[にゃにゃにゃぁ……すっかり忘れてたんだぜぃ]
[うにゃぁ~……]
 ハチワレが頭を抱えて、コバンの耳がぺしゃんこになっていく。
[そんなに直ぐに諦めるな。感情表現が豊かな猫共め。おれの話はまだ終わってにゃいぞ]
 おれは、イズミがカズトシに、明日の『ユウキュウ』とか言うのを使って、コバンが言っていた『ら~めん庄造』の店まで、俺を連れて行ってくれるように命令した。和寿は歯を剝き出しにして抵抗していたが、ボスの命令には従わなければならにゃい。カズトシの方がボスになれそうなくらい強いのに、ニンゲンって本当に不思議だ。
[……だから、イズミがこれを、コバンとハチワレにって、渡してきた]
 おれはそう言って、茂みから紙を取り出した。マシロの時に使った『お札』に似ているが、同じ物なのかは分からにゃい。
[お! そのお札、オレにもくれるのか? やったぜぃ!]
 ハチワレは知っている香りの紙に抵抗なく受け取り、前足ではじいて遊び始めたが、紙の臭いを確認し、なかなか触れようとしないコバンには説明が必要だった。
[コバン。これは、おまえが昼間になっても消えにゃい紙だ]
[消えないにゃ? 櫛に戻らなくても良いにゃ?]
[いや、この紙の力はお日様が昇って降りる一回きりだ。だから、コバンを店に連れて行っても、そのまま居続けることは出来にゃい……。それでも、行くか?]
 コバンは、手でチョイッと紙を動かして考えると、覚悟を決めて紙を咥えた。
[うん! おいら、オトウチャンに会いたいにゃ‼ そんで……ちゃんとバイバイをしたいにゃ‼]
 コバンは既に、自分が焦がし猫であると決心したらしい。おれは、紙で遊ぶハチワレを止めて紙の使い方を説明すると、何かあった時の為に今日は早めに櫛へ戻ることを提案した。
[長時間櫛から離れたり、櫛との距離が離れ過ぎたりしたら、焦がし猫の身体は意思と関係なく消えてしまうかもしれにゃい。と言うのが、イズミの考えだ。一旦解散して、次の太陽が昇ったらこの紙を使っておれを思い出せ]
[おうよ! このハチワレ様にお任せなんだぜぃ‼]
 ハチワレはそう言って、早々に猫集会から姿を消した。強気な言葉を遣っていたが、もしかしたら一生ご主人に会えなくなる可能性に恐怖を覚えたのかもしれない。一度生き猫時代に別れを経験しているから、余計に思う所があるのだろう。
 コバンは何も言わずに、顔をくしゃくしゃにして悩んだ後、自信無さげにおれに一つ頷いて姿を消した。
 コバンはどの道、今のご主人の思いが定着しない限りいつかは消滅する。と、イズミは言っていたが、
(……本当に、言わなくて良かったのか、イズミ……)
 おれは一猫だけになった空間で夜空を見上げた。月はまだ傾いてすらいない。後ろからは他の焦がし猫が自慢大会に華を咲かせている。
(まあ、良いか……おれも次の昼に向けて体力をつけておこう)
 おれはくるりと振り返ると、猫集会の鳴き声が聞こえる所まで移動し、騒がしい音を子守歌にして仮眠をとった。


 白い太陽が、ニンゲン達が作った鉄の森から顔を出す。おれは、誰も居なくなった神社で目を覚ますと、ハチワレとコバンが来る前に解通易堂へ移動した。
 住処の外には、知らにゃい臭いの四角い箱と、眉間に皺を寄せたカズトシがいた。
「にゃぁう~」
 おれが声をかけると、カズトシは俺に気付いて眉間の皺を消した。
「おう。お疲れさん。ちょっと待ってろ、車にケージが入っているんだ」
 頭をひと撫でされて、挨拶が終わる。カズトシは『くるま』と呼んだ四角い箱から小さい箱を取り出すと、おれに向かって入口を開けてきた。
「旦那がこの車と移動用ケージを手配してきたんだ。大型バイクだろうと猫を背負って高速を移動するのは絶対良くない。だとよ。大事にされてるな」
「なぅ~?」
 カズトシの言っているニンゲンの専門用語はよく分からにゃいが、この前カズトシに「ブロロロロロ」と喉を鳴らしていたのは『バイク』と言うらしいことが判明した。
 居心地の良さそうな狭いスペースは好きだから、特にためらいもなく小さい箱の中に入っていく。
「お、助かる。あと二匹来るって言ってたが……」
[よう! ミスタ、カズトシ。お待たせだぜぃ!]
 頭の上から声がして、おれとカズトシが同時に空を見上げる。そこにはハチワレとコバンが段差を降りる様に空を駆け下りてきた。目の上に貼り付けられた紙から広がる光が、二猫の身体を包んでいる。カズトシも目で追っているから、きっとこいつにも見えているんだろう。
[お! ペットケージじゃねえか。懐かしいにゃぁ。オレもよくココに入って定期健診に行ってたもんだぜぃ]
[ていきけ……なんにゃそれ? おいらはそんな記憶ないにゃ]
「……おい、ミスタ。これも旦那の仕業か? 俺ぁ空飛んで話す猫なんて知らねえぞ」
 カズトシは「勘弁してくれ」と片方の前足で顔を覆った。まさか言葉まで伝わるなんて知らにゃかったおれは「ぶにゃぁ~」と鳴いて同情する事しか出来にゃい。
 と言うか、ニンゲンと喋られる様になるのなら、おれにも一枚用意しても良かったのではにゃいか?
 カズトシは複雑な顔で唸るおれを車に積み込んで、扱いずらそうにハチワレとコバンを手招きして、大きな身体をずるりと車に仕舞った。
 変な臭いと振動で酔いそうになりながら、ハチワレとカズトシの会話に耳を傾ける。
[オレの家族は、オレの事をずっと大切にしてくれたんだぜぃ! 仏壇にオレの骨を置いてずっと大事にしているし、親猫同然のご主人は、オレの骨の欠片をずっと首にぶら下げてくれているんだぜぃ]
「お、おう……」
[にゃんだぁ? 静かなニンゲンだぜぃ。ニンゲンは猫を前にするとお喋りになるんじゃねえのか?]
「っだぁ! 前に来るな。運転してんだ。そこの三毛猫みたいに大人しく出来ねぇのか!?」
(ハチワレとカズトシの相性は最悪……でも、会話があるだけまだ気が楽になる……そのまま続けていてくれ)
 おれはカズトシを助けることもせず、そのままイマイチ噛み合わにゃい会話を聞きながら眠りについた。


 次におれが目を覚ましたのは、車が停まって、入っている箱がぐらりと大きく揺れた時だった。
 何回か休憩を挟んだが、昼夜が関係なくなっているハチワレとコバンとは違い、普通の猫のおれは睡眠を優先していたため、そこら辺の記憶はあまり残っていにゃい。
 箱からぬるんと出されてそのまま背伸びをすると、光に慣れた目に映ったのは緊張したコバンの顔だった。
[コバン……大丈夫か?]
 ついニンゲンっぽい台詞が口から出てきた。コバンはおれの身体に自分の顔を擦り付け、ゴロゴロと甘えてきた。
[オオキニ、ミスタ……おいらは大丈夫にゃ]
 おれはコバンの顔を毛繕いして、仁王立ちしているカズトシの所まで移動した。
 そこは、ニンゲンがずらりと群れている不思議な空間だった。
「ここからは、生きてる猫は近付けねえ。飲食店だからな」
「うにゃう……」
 仕方がにゃい。ニンゲンの食べ物の住処には、普通の犬や猫は侵入を禁止されている。おれは物分かりの良い野良猫だから、わざわざニンゲンに怒られるようなことはしにゃい主義だ。
「それで、だ……。旦那から、ミスタはこれを着けとけって言われた」
 カズトシはそう言って、おれの首にリンと鳴く布を巻きつけてきた。これは『首輪』と言うヤツで、飼い猫が自分の家を主張する目印だ。
 しかし、付けた瞬間に、おれの視界はぐるりと反転し、いつの間にか違う視界が映っていた。
『これは、なんだ!?』
[にゃにゃ!? ミスタの声が、耳の中からするにゃ。気持ち悪いにゃ‼]
 コバンの声が脳に響く。どうやら、イズミはおれがニンゲンの住処に入れないのを見越して、コバンと視界を共有する首輪を用意したらしい。イズミは本当にニンゲンなのか、こういう時に疑ってしまう。
「そんで、お前ら妖怪猫組は、姿を消してついてこい」
[安心してくれ、オレたちは最初からカズトシにしか見えてねえんだぜぃ]
[にゃぁ~~、ハチワレ、これ代わってくれにゃ! ミスタがおいらの中に居るみたいで気持ち悪いにゃ‼]
[イヤだぜぃ。俺はミスタなんか身体に居れたくねえんだぜぃ!]
[にゃぁ~! おいらもイヤにゃぁ~]
『しゃべるなコバン! おれだっていい気はしにゃいが、どうやら猫の意思は尊重されにゃいらしい』
「そんにゃぁ~……」
 慣れない視界と慣れない聴覚にフラフラしながら、おれたちはカズトシの後を追う。カズトシはニンゲンの群れの一番後ろに移動すると、店に入るまでその群れの中でじっとしていた。おれの『身体の方』は、隣の、カズトシが乗っていた車を停めた場所で、スンとすまし顔をしている。視覚の主導権はコバンにある為、おれの意思と関係なく視界が動いて気持ちが悪い。
(だめだ。もう目を閉じよう……車に乗っていた時と同じように、目を閉じれば少しは気が楽になるはずだ……)
 おれは見ることを諦めて目を閉じる。すると耳が敏感になって、コバンの鳴き声だけでなく、胸の内、と表現するべきか。コバンが表現しきれなかった『前世の記憶』がおれにも流れ込んできた。

―アンタ、そんな場所に置いたら■■の邪魔やんか。あか■■■過ぎて恥ずかしくないのかい?―
―いいや! ここでええんや‼―

(これが……コバンが覚えていた記憶か……確かに、所々聞き取れない部分があるな)
[ねうねうカズトシ、らうめんって美味いにゃ? 美味いって、どんな感じにゃ?]
 待ち時間を持て余しているのか、コバンはスマホを弄っているカズトシに様々な質問をしている。

―お勘定! ■■■■―、今日の新作ラーメン美味かったで。アレ■■■■やなくて、通常■■■■にしてくれへんか?―

 目を閉じている筈なのに、おれの視界にはふらっとコバンの目の前に移動してきたニンゲンの姿が見える。そのなんとも満足そうな表情を見てしまったら、確かに味を聞いてみたくなる。
「ラーメンっつっても、色々あっからなあ。俺ぁ、店で食うより、自分で作る方なんだよ」
 カズトシは慌ててスマホを耳に当てると、声を潜めて返事をしてくれた。
[にゃにゃ!? カズトシもオトウチャンと一緒にゃ?]
「ちげぇよ。プロとおんなしにすんじゃねえ! ラーメンは奥がふけぇんだよ。俺が作ってるのは素人でも食いもんになるヤツだ。ここのラーメンと比べちゃあいけねぇ」
[それって、オトウチャンのらうめんの方が上手いってことにゃ? にゃにゃぁ~]

―はぁ……■■■、ラーメンの腕と思い切りの良さだけは■■■■やね―

 呆れた声だが、優しい笑顔のメスのニンゲンが思い浮かんでくる。このニンゲンも、コバンの様に『オトウチャン』を信頼していたんだろう。
 もう少しコバンの記憶を整理したかったが、突然外から聞こえてきた「らっしゃーせー‼」の音に全てをかき消された。どうやら、コバンの記憶にある店と言う住処に入ったらしい。
 コバンの反射につられて思わず目が開く。すると、視覚からでも伝わるニンゲンの生きている熱が伝わってきた。忙しなく奥の方で蒸気が広がっていて、奥から勢いよく飛び出されたニンゲンのラーメンを、さっきまで一緒に並んでいたニンゲンたちが夢中になってガツガツと食べ始める。中には隣のニンゲンと話しながら楽しく食べていたり、カズトシと同じ『スマホ』に似た鉄の板をご飯に向けたりしていて、
(何と言うか……自由だ)
 ニンゲンはナワバリがあるようで無い。ここに詰め込まれたニンゲンたちは、猫の様に互いを威嚇することなく、自分の食事を楽しんでいる。
 おれは、この空間をどうにも羨ましいと感じた。
[にゃにゃにゃ! これ、なんにゃ‼]
 コバンの視線がぐるりと動いて、住処の壁一面に移動する。そこには、小さな猫の置物がそこかしこに並べられていた。確かにコバンと同じ三毛柄の物もあるが、白や黒、中には桃や葉っぱの色に似た物もある。臭いが分かれば色の判別も出来るのに、おれの身体は外にあるからもどかしい。
[凄いにゃ! 猫がいっぱいにゃ!]
「ああ、ありゃぁ……」
 カズトシが自動で紙が出てくる箱を指で叩きながら、猫の置物に視線を移した。
「ありゃぁ『招き猫』ってヤツだ」
[……‼]
 コバンが息を呑むと共に、一つの台詞が記憶の底から浮かび上がって来る。

―おおきになぁ。お前が皆を呼んでくれたから……ウチは大繁盛や。流石『招き猫』様やな!―

[そうにゃ……おいらは、あの招き猫だったにゃ! お会計の横に置かれてて、毎朝お父ちゃんに……ここの店長さんに大事にしてもらったにゃ‼]
(そうか。コバンが焦がし猫になる前は、置物の付喪神だったのか)
 おれは、コバンの視線に集中して満遍なく景色を眺める。よく見ると、引っかけられる所にも、猫の掌くらいの招き猫が飾られている。もしかしたら、この住処のナワバリは招き猫たちのモノなのかもしれにゃい。
 コバンとハチワレはカズトシの肩に乗って、ニンゲンの視線で景色を眺めている。決められた場所に座ったカズトシは、奥のニンゲンに紙を渡して、替わりに受け取った水を一気に飲み干した。
「にーちゃん、新顔やね? テレビか?」
 奥のニンゲンが気さくに話しかけてくる。個体識別が出来るくらいここに居る。と言うことは、もしかしたらこのニンゲンがボスなのだろう。
「いや、同僚がここの常連だったらしくて……バンジョウさんって言ったら分かりますか?」
「おお‼ ヤマネコ配達のジョーやろ? いやぁ最近全く見ぃひん思たら、アイツ転勤しよったんか?」
「そうです。今も配達しています……店長がまだ憶えていた事、今度バンジョウさんに言っておきます」
「おう! にーちゃんと一緒に、たまには食べに来いって伝えてくれ」
 カズトシの『店長』と言う単語に、コバンの耳がピクリと動く、おれも違和感を共有しているから、コバンの言いたい事をカズトシに伝えやすくまとめた。
『コバン、カズトシにこう聞くんだ[この店は店長が始めたのか?]だ!』
[にゃにゃにゃ‼ カズトシ、このニンゲンはおいらのお父ちゃんじゃないにゃ。この店長さんがこのお店を起ち上げたにゃ? 聞いて欲しいにゃ]
 コバンの言葉に、カズトシは指で合図をして、再び店長と話すタイミングを伺う。反対の肩で、うにゃうにゃと何か鳴いているハチワレは無視して、おれもコバンも耳を澄ませた。
「はい! おまちど!」
 店長がラーメンを出して来ると、返事ついでにカズトシが問いかける。
「ありがとうございます。あの、店長は何代目なんですか?」
「ん? ああ、そっか。にーちゃんテレビ観てないんやったな。ここは親子三代続く老舗のラーメン屋『庄司次郎』や! 先代の『ら~めん庄造』を作ったじいちゃんはホラ、そこに写真が飾ってあるで!」
 店長が差した指を、コバンとハチワレがじっと見つめる。カズトシだけがその先まで把握して身体を真後ろに捻ると、

[お、お父ちゃん‼]

 写真に、この店のどれよりも大きい招き猫と、その横に立って豪快に笑う青年の姿が映った紙が貼られていた。
 コバンの記憶にある老人よりも少し若いが、確かに同一のニンゲンだ。
「去年、大往生で天国に行ってしもうたよ。ちょーっとボケが進んでて、息子と孫の違いも分からんかったが、ばあちゃんとこの招き猫の事だけはハッキリと覚えていたんや。だから、その招き猫はじいちゃんと一緒に天国に連れてってあげたんや」
 店長は続けて「まあ、結局お客さんが『招き猫の居ない店なんてらしくない』つって、この通り貰いもんでいっぱいになっちまったんやけどな」とぼやくが、コバンの視線は写真に釘付けになっていて、恐らく聞いていたのはおれとカズトシだけだろう。コバンは前世の自分を凝視しながら、色んな思い出を記憶から蘇らせていた。
 おれは、コバンを優しく手入れする先代の店長と、おれを一猫でも生きていける様に育ててくれた母猫を重ねて、焦がし猫が毎晩ご主人様自慢大会をしている理由が、少しだけ分かった気がした。


 カズトシがラーメンを食べてから店を出る時間は、外のニンゲンの群れの中にいる時間よりも短かった。しかし、招き猫に囲まれた空間はどこか解通易堂の様なごちゃごちゃを感じて、おれにとって不快な場所では無かった。
 店を出た瞬間、コバンの中にいたおれの感覚がふっと消えて、気が付いたらリンと鳴く首輪を付けた自分の身体に戻っていた。
「にゃぁ~‼ フシャーーー!」
 おれはありったけの不満を首輪にぶつけようと暴れまわると、車まで戻ってきたカズトシが慌てて首輪を外してくれた。
 首を振って解放感に浸っていると、今まで利かなかった鼻が鰹節とお醤油の臭いを感じて反射的にカズトシを見上げる。カズトシの後ろには、半分透けたハチワレとコバンが宙に浮いていた。
[あ、紙の効果が切れるのか]
[そうみたいにゃ……おいら、ここに来れて良かったにゃ!]
 コバンの晴れやかな顔は空と良く似合っていて、記憶を全部取り戻せて満足している雰囲気が伝わって来る。
[この店は、もうおいらが居なくても、いっぱいの招き猫が居るにゃ。お父ちゃんも安心して居なくなったにゃ。だから……おいら、次のご主人様にいっぱい大事にされるまで、櫛の中で待ってることにするにゃ]
[じゃあ、もう猫集会には来にゃいのか?]
[うん。でも……今のご主人様の名前を憶えて、お父ちゃんと同じくらい大事にされているって分かったら、自慢しに行くにゃ。約束にゃ!]
 コバンは「にゃぁ」と一鳴きして空に向かって駆ける。途中で姿が消えてしまったが、きっと元の櫛に辿り着くだろう。
[いやぁ、今日は楽しかったぜぃ! 大冒険したことを猫集会のヤツらに自慢しなきゃいけないぜぃ!]
 ハチワレはコバンを先に見送って、満足そうに背中を丸めてうんと伸びをする。カズトシの肩に乗って顔を擦り付けると、少しだけ仔猫の様に目を丸くして空を見上げた。
[でも……一番最初に、オレの家族に会いてえにゃぁ~。コバンがあんにゃに大事にされてる所見せびらかされちゃあ、オレも目一杯大事にされてるって再確認したくなるんだぜぃ!]
[……そうだな]
 おれはハチワレも消えるまで見送ると、一緒にその様子を眺めていたカズトシと車に乗った。帰り道はとても静かで、でもおれたちにとっては、ようやく居心地の良い旅路になった。
 行きよりも早く感じた帰りの後。解通易堂に戻ったおれは、イズミの面倒をカズトシに押し付けて、ついでに首輪の件でイズミのナワバリに爪とぎをしてから神社に向かった。
 とっぷり暮れた空の下、今日も怪猫たちは変わらず集まって、にゃあにゃあと楽しくご主人様自慢大会を繰り返している。
[ボクのご主人様は、今日も柔らかくて美しい髪をボクで梳かしてくれたんです。なんと、一回も手入れを欠かさずにボクを使ってくださっている、物持ちの良い素敵で可憐な女性なんです!]
[にゃあ~! そんなに大事にされているにゃんて、シマが羨ましいにゃぁ~!]
 シマは相変わらず、齢八十を迎えようとしているご主人を仔猫みたいな小さな生き物に例えて自慢する。
[わ、わたしのご主人様は、わたしや他の櫛を毎日交代で使ってくれるわ! 普段は、飾るのがとても好きなご主人様なのだけれど、元気がない時に頼ってくださっている感じがして、と、とっても嬉しいんですの!]
[にゃぁにゃぁ! マシロは透明なケースに仕舞われているから、毎日ご主人様の様子が見れて羨ましいにゃぁ~!]
 新参猫のマシロも、最近は積極的にご主人の話をしている。ハチワレはと言うと、あれだけ格好付けてコバンと別れたのに、今はしょんぼりと耳を垂らしている。
[にゃにゃぁ……せっかく前世の思い出話が出来る仲間が増えたと思って、オレ毎晩楽しみにしてたんだぜぃ……]
(珍しい。ハチワレの[ぜぃ]に元気がにゃい)
 何にでも首を突っ込むハチワレだが、どうやら今回の件は特別思い入れがあったらしい。おれはグリグリと頭を擦り付けてくるハチワレを毛繕いして、ため息混じりにフォローした。
[うにゃうにゃ泣かないでくれ。焦がし猫として再開した時に話せば良いだろう?お前達はおれと違って、いつまでもこうやって集会開けるんだから]
 そう。おれやカズトシと違って、こいつらの夜はいつまでも続くのだ。もしかしたら、今この瞬間も、櫛から出たがっている怪猫『焦がし猫』が居るのかもしれにゃいのだ。

【完】

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