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泉御櫛怪奇譚 第十話

第十話『人繋ぎの櫛 幸運の綿毛』
原案:解通易堂
著:紫煙

――『合縁奇縁』と言う諺もございます通り、人と人との出会いは、相性の良し悪しに関係なく、奇妙で不思議な縁でございます。又、たった一度きりの出会いだと思っていた相手程、気が付けば長い付き合いになっていた……なんて経験はございませんか?
これは、物語が始まる前、そんな珍妙な出会いをした男性の話をひとつ、ご紹介いたしましょう……――


『大和 和寿』の一日は、まだ陽も登らない早朝から始まる。
 六畳半程しか無い安いアパートで、薄い布団からのっそりと起き上がった和寿は、スマホの画面で時間を確認すると、玄関に直通する廊下に備え付けられた台所の蛇口で顔を洗った。そのまま真反対を向いてトイレを済ませると、ようやく頭が冴えてくる。
「……おっし!」
 両手で頬を叩いて気を引き締め、冷蔵庫から冷やされたパンを一枚齧りながら、再び部屋に戻って布団を片付ける。歳の離れた妹から送られた姿鏡の前に立ち、仕事用の制服に着替えて耐水性の腕時計を身につけた。足元のコンセントに挿しっぱなしの電動髭剃りで、鏡に映っている無精髭を丁寧に剃り落とすと、風よけのジャンパーを羽織り、スマホとヘルメットを取り出して家を出た。
 夜明け前の道路をバイクで駆け抜け、職場のヤマネコ運輸に向かう。和寿が勤めている支店は建物こそ小さいものの、法人も個人も定期的な取引が多く、昼夜問わず社員が働いている。
和寿が出社して自分のロッカーに向かうと、夜勤明けの同僚が後ろからやって来た。
「……お疲れさん」
 小さく挨拶をすると、同僚は気さくな雰囲気で反応する。
「おん。お疲れトシ。今日からまた配達区域変わるんだろ?」
「おう」
「これで何ヶ所目だ? しかも、今度の場所は所謂『いわくつき』ってヤツだろ?」
 和寿の隣のロッカーを開けて制服から私服に着替える同僚に、彼は表情を変えずに溜息を吐く。
「……区域が変わったのぁ七回目だ。別に、直ぐに配達区域が変わるのにぁ、もう慣れたさ」
「でも、道を覚えるのは慣れねえよな。知ってるぞ、この前、獣道を無理矢理直進してトラック擦ったの」
「っせえな。だぁって帰れよ」
 和寿は短く反応して、仏頂面で更衣室を出た。すれ違う社員が、不機嫌にしか見えない彼に声をかけるはずもなく、その後は黙々と作業に専念することになった。
 毎日変わらない朝礼を済ませて、まだ詰め切れていない段ボールを、自分に充てがわれたトラックに運ぶ。知らない住所が記載された箱の中からは、湿った木のような匂いがした。
「大和」
「……うす」
 後ろから呼ばれて振り返ると、申し訳なさそうな表情の上司が立っていた。
「すまんな。ここの区域、なんでか分からんが、配達した後に辞めてしまう社員が多いんだ」
「……」
「ああ! 辞めさせたくて大和を選んだわけじゃないぞ。寧ろ、お前だったら……」
「配達……行ってきます」
 上司の言葉を途中で遮り、和寿はトラックに乗り込んだ。
 ぶっきらぼうな彼にも気を遣ってくれる上司の性格は把握していた。だからこそ、下手に会話をして空気を重くするのは悪いと、本能的に察したのだ。


 建物の隙間から射し込む太陽を浴びながらトラックを走らせ、先ずは定期配達業者や小売店へ配達を済ませる。朝の9時前に配達する『早朝配達』は、ヤマネコ運輸のオリジナルサービスだ。まだ人が少ない時間帯の街は、静かだが確かな活気がある。
「……ご利用、ありがとうございました。失礼します」
 最低限の接客で淡々と仕事をこなしていく。次の配達先の住所を確認して再びトラックに乗り込むと、ナビに住所を入力した。
――次、200メートル先、左方向です――
 ナビの声に合わせて、住宅街の更に奥へ進んでいく。巷で『裏路地』と呼ばれるような狭くて暗い道に差し掛かると、せっかく登ってきた太陽すら避けているような、怪しい雰囲気が景色全体を覆っている。
和寿は眉間に皺を寄せながら、車幅ギリギリの道を躊躇いなく進んでいく。すると、突然乗用車が3台程停まれる駐車場にたどり着いた。荒んだ建物やアスファルトの中で、この一角だけ不自然な程整備されている。ナビの目的地も既に止まっていることからも、ここが次の配達場所であることは明確だ。
 駐車場の奥には『解通易堂』と書かれた看板が目立つ、不思議な店が建っている。
「かい……かいつう? 貿易の『易』ってこたぁ……『カイツウエキドウ』か……?」
 漢字のまま声に出してみるが、名前と外観だけでは何の店なのか分からず、なんだか不気味である。伝票に書かれた宛名と同じであることを確認して、開店前の扉に向かって挨拶をした。
「すみません。ヤマネコ運輸です」
 しかし、まだ家主が起きていないのか留守なのか、入口を叩いても店内からは反応が無かった。
 外観をぐるっと回って、裏口らしき生活感のある扉を見つけるも、押したインターホンは鳴らず、人が出てくる気配もない。
 和寿は体に染み付いたマニュアルに従って不在通知を発券し、ポストが見当たらなかった為、裏口の扉の隙間に挟んだ。
 その後も和寿は、以前の配達区域と変わりなく午前配達予定の住所へ向かう。初めての配達区域とは言え、道に迷うことなく仕事をこなす。否、二度程同じ道を走っていることに気付かずに進んだりはしたが、致命的な迷子にはなっていなかった。
 車通りも多くなっていく時間帯。午前の配達を終えて休憩に入った和寿は、二度目の朝食を摂ろうとコンビニの駐車場に停めた。
 途端、会社で配られた仕事用のアイフォンがポケットから鳴り響く。電話番号を確認すると、恐らく早朝に不在通知を発行したあの店であろうことが判断出来た。
「はい。ヤマネコ運輸です」
『……』
 和寿は低い地声をなるべく高く上げながら応答する。しかし、電話の主は、なんだか考え込んでいる様子で、なかなか要件を言ってこない。
「あの……ヤマネコ運輸です。再配達ですか?」
 もう一度、今度はゆっくりと発音すると、ようやくアイフォンの向こうでまろやかな声が聞こえてきた。
『ああ……。ええ、そうです……。あの、今朝……お店の扉に、伝票が……』
「あの『カイツウエキドウ』様ですね? 今から直ぐ向かえますが、希望時間はありますか?」
『かい……? あ……ええ、今からで……よろしく、お願いいたします』
 電話を終え、コンビニでの買い物を諦めてエンジンをかけ直す。再びナビに住所を打ち込むと、最初とは違う道のりで案内される。既に街の殆どが賑やかになってきている時間帯の筈なのに、解通易堂の周りだけは正面の出入り口が開いている以外は、何一つ変わらない雰囲気を纏っている。
 トラックを降りて荷物を下ろしていると、今度は和寿が呼ぶより先に店の主が出てきた。和寿が見たことのない奇怪な衣装を着ていて、襟元に半透明なスカーフを緩く巻きつけている。切れ長の瞳は温和そうに笑ってはいるが、店を背景にすると、和寿には胡散臭そうに見える。
 自分よりも背が高いことには驚いたが、美形であることや異国の恰好をしていることには目もくれず、いつも通り淡々と作業をこなそうと、持ち運んでいた荷物を差し出した。
「ヤマネコ運輸ですご住所、お名前、お間違いないですか?」
 伝票を手の平で指して確認すると、店主はにこやかな笑顔を崩すことなく優雅に頷いた。
「はい……『解通易堂』で、間違いないです……」
「あ……『ととやすどう』様ですね。電話では失礼いたしました」
 読み間違えを素直に謝罪して、箱を片手で抱えて配達完了の手続きを機械に打ち込む。
「じゃあ、解通易堂様。これ、お荷物です」
 和寿が再び荷物を差し出すと、店主はにこやかな笑顔を崩すことなく体を横に傾け、和寿に案内するように手を店の方に差し出した。
「はい、どうぞ……」
「どうぞ? いえ、受け取りを……」
 勤続12年。仕事では滅多に動揺しなくなった和寿が、荷物を持ったまま初めて困惑した様子で躊躇した。店主は緩やかな声色で、しかし絶対に譲らないといった瞳と共に促す。
「ええ……お受け取りいたしますので、どうぞ中へ……」
 あれよあれよと中まで荷物を運ばされた和寿は、店内を見て唖然とした。外見から勝手に骨董品店だと思っていたこの店は、櫛の専門店だったのだ。入口の近くではお香が焚かれており、燻した木とハッカの香りが嗅覚を刺激する。店内に客は居ないが、壁の元の色が分からなくなる程の装飾品で、閑散とした雰囲気は微塵も感じない。
「は……ぁ……!」
 思わず声が漏れてしまった和寿を面白そうに見つめながら、店主は更に奥へと案内する。
カウンターにあたる帳場の奥へ進むと、辛うじて生活感が分かる台所と食事スペースがあった。無機質な空間にポツンと存在する民族模様のテーブルクロスを見るに、ここで商談や接客も行っているのだろう。
しかし、和寿が案内されたのは、その真横の襖を開けた狭い和室だった。ちゃぶ台と錦織りの厳かな座布団だけの空間。そこでようやく荷物を下ろせた和寿は、促されるまま座布団に座らされる。
 帽子を脱いで受領印を貰うと、ようやく役目を果たしたと、肩の力を抜いて頭を下げた。
「あの……仕事中なので、これで……」
「いえ……これは貴方に、ご依頼があって……お招きしましたので」
 店主はそう言うと、台所から高級そうな陶器に麦茶と言う不思議な組み合わせを用意してきた。和寿は、希に、老人施設などに配達に行った時にお茶を出された経験を思い出し、違和感に見舞われながらもお茶を一口だけ飲み込んだ。
「ようこそ……お越しくださいました。解通易堂の、泉……と、申します」
「泉……様? あの、仕事の依頼とは……」
 和寿が時間を気にしながら問いかけると、泉は早速、彼が運んできた箱をどこから取り出したのか分からないカッターで開封し、中から古びた木製のブラシを取り出した。歯の部分が破損したブラシは一本だけではないようで、手元にも既に何本か歯が欠けたブラシが見える。
「この『歯』の部分を、直せばいいんですか?」
「ふふ……この、髪を梳かす部分の名称は……『歯』ではなく『棒』と、呼んでおります……現代では『ピン』と言う名称で、統一されておりますね……」
「……はぁ……」
 何が起こっているのか分からない。といった様子の和寿を無視して、泉は再び部屋を出ると、今度は修繕したらしい完品のブラシを持ってくる。
「実は……こちらのブラシを、本日中に送らなくては……ならないのですが、私一人では……間に合わないのです。最後の埃取りと配達を、貴方に……ご依頼させてくださいませんか?」
「いえ、あの……仕事中の身なので」
「では……お仕事に、支障が出ない……ほんの少しの、範囲内で……お願いいたします」
「……」
 深々と頭を下げる泉に、和寿は頭を掻いて困惑する。チラリと腕時計を確認して、残りの休憩時間を確認した。
「あー……今、小休憩5分だけとったんです。このまま昼休みにすれば、後55分……だけ」
「本当ですか……ああ、良かった……よろしく、お願いいたしますね……」
 泉は両手の指先を合わせて嬉しそうに微笑むと、埃取りの道具と修繕したブラシを手渡した。木製の棒の先に付いた綿でブラシを払うと、確かに僅かな木屑や細い糸の様な物が払い落とされる。
 和寿は高級に見える座布団を汚さないように、脱いだ帽子をひっくり返して埃の受け皿代わりにすると、チマチマと作業を始めた。その様子を満足そうに眺めて、泉もブラシの修繕作業に入る。
「櫛屋がブラシの手入れたぁ……おんなし髪を梳かす商いってやつぁ、似たように直せるもんなんかねぇ」
 何本目かのブラシを手入れした気の緩みで、和寿がポツリと独り言を呟いた。すると、泉はふわりと微笑んでその問いに答えてきた。
「いえ……ブラシは修理が、可能ですが……櫛を元に戻すことは……叶いません」
「おっと……! すみません私語が出ました」
 直ぐに姿勢を正す和寿に、泉はゆるりと手を振ってそのままでいる様に促した。
「いえ……お気になさらず。私も、独り言を申しますと……櫛には、天命がございます……一年だろうと、十年だろうと……『お役目』を果たした櫛、は……等しくひび割れたり、最悪の場合は折れて……しまいます」
 静かに話し始めた泉の声は、低いとも高いとも言えない不思議な声色をしている。穏やかに話しているようにも聞こえる『言葉の間』は、和寿にはなんとも遅く、歯痒く聞こえた。
「命が……尽きた櫛を、直すことは……出来ません。しかし……ブラシには天命が、ございません。人や動物と等しく、寿命はありますが……きちんと手入れをして、大切に使えば……ピンが折れた、程度では……使えなくなったりは、しません」
「……」
「ですから、当店では……こうして、折れたピンを修繕し……『汚れ』をとって、お返ししているのです」
「『ケガレ』? 『ヨゴレ』じゃないんですか?」
「ふふ……確かに、どちらも同じ漢字……ですね」
「漢字? いや、そういうつもりで言ったわけじゃぁ……」
 和寿は昼の配達を気にしながら、話半分に会話をする。しかし、初めて教えられた割に卒なくブラシの埃を払っていく様子を、泉は嬉しそうに、楽しそうに眺めていた。
 一箱分のブラシを掃除すると、流石に帽子の中が毛玉と木屑の塊でいっぱいになっていた。
「よし……時間も丁度……おん?」
 和寿が腕時計を確認した刹那、帽子に掃った埃が不自然に集まり、一つの綿毛の塊がいくつも産まれた。
 姿は一緒だが大きさは様々で、木屑をもしゃもしゃと食べ始めたり、帽子から出ようと壁になっている布の部分を押したりしている。突如生き物のように動き出した綿毛達に、和寿は目を点にして驚いた。
「……はぁ?」
 綿毛は確かな意思を持って蠢き、全員で「せーの」と言わんばかりに体重をかけて帽子を傾けると、ぽよんと畳に降り立った。帽子に残っていた綿毛や、他のブラシからフワリと現れた綿も集まりだして、更にいくつもの塊が産まれていく。
「……っ!!」
 思わず立ち上がった和寿に、彼の動きに反応したのかは定かではないが、綿毛の塊達が彼の足元、正確には脛の辺りにまとわりついてくる。
 最初は全部同じ塊に見えていた綿毛達だが、よく見ると個体によって動物の様な耳と顔が存在していることに気付いた。どれも人懐こい性格なのか、目を細めたり耳を震わせたりしながら和寿を取り囲んでいる。
「おい! これぁ……」
 泉の方を向いた和寿は、いつの間にか彼が店内の方へ姿を消していることに気が付いた。音もなく移動していたことに違和感を覚えつつも、今はこの怪奇現象を何とかすることで頭がいっぱいだった彼は、遂に敬語を失った。
「だ、旦那ァ! 泉の旦那ァ!」
 咄嗟に彼から発せられた言葉は、彼独特のべらんめぇ口調だった。
 店主はキョトンとした顔で和室に顔を出すと、和寿の様子を見て切れ長の眼を見開いた。
「おや……?」
「『おや』じゃねぇ! なんだこいつぁ!?」
 珍しく余裕のない和寿とは正反対に、和室に入ってきた泉は興味津々にモフモフの塊を観察する。
「これは、これは……『スネコスリ』ですね。ふふ……マダムは、また珍しいモノを梳いたようで……」
「一人で納得してんじゃねぇ! 早くなんとかしろオラァ!!」
 和寿が巻き舌気味に叫ぶ。スネコスリは既に幾重にも積み重なり、和寿の体を持ち上げてしまいそうな程蠢いている。
 泉は懐から彫刻の美しい櫛を取り出すと、和寿の体をなぞるように櫛を梳いた。すると、みるみるうちにスネコスリ達が和寿の足元から離れ、泉の櫛に戯れついてきた。どうやら、この妖怪達は櫛やブラシが好きらしい。泉の足元で頭をグリグリしたり、櫛に向かってピョンピョン飛び上がる様は、飼い猫に似た物を感じる。
 和寿は動悸こそ激しいものの、取り敢えず意味不明の物体が、自分への興味が外れたことに一息つく。
「このコ達に、害はありませんよ……少しだけ、人の脛で甘える事が……好きなだけ、なので……おや?」
 泉は再び和寿に顔を近づけると、彼の肩に最後まで残っているフワフワの塊をじっと見つめた。この塊だけ他のスネコスリのような顔がどこにも無くて、文字通り『綿毛の塊』と言った表現が相応しい。
「これは……良くない。非常に、良くないですね……」
「おん? 何が良くねぇってんだい。ヤベェもんならさっさと外しやがれ」
 自分では触りたくないのか、和寿は泉の前に肩をずいっと突き出してフワフワを睨みつける。フワフワは和寿から離れたくなさそうに、するりと移動して反対の肩に寄り添った。
「うわぁ! 畜生め! なんでこいつだけ……っ!」
「怖がらせないで、ください……このコは、他のスネコスリとは……違う妖怪なのです」
「あぁ!? 見てくれはそんなに変わらねえじゃねぇか」
「非常に、良く似ておりますが……貴方に、憑いているのは……『ケセランパサラン』なのです」
「けせら? あンだそりゃぁ?」
 そもそも怪異や霊に興味も関心もない和寿は、何がどう『違って』『良くない』のか分からない。
 泉はそっとフワフワを撫でながら、この妖怪には地方によって『ケサランパサラン』とも呼ばれている。などの雑学を混じえつつ、生態について簡単に説明した。
「この妖怪は……持ち主に幸福をもたらす、とても……とても、珍しい妖怪……なのです。元は、このブラシの持ち主に……憑いていたのでしょう」
「おお……そりゃ確かに良くねぇな。早く持ち主に返してやんねぇと……」
 害が無いことに安心した和寿は、当たり前のように呟く。
 驚いたような眼で彼を見つめた泉は、初めて声を堪えてくつくつと笑うと、和寿に向かって、綺麗に梱包したブラシの小包を渡した。
「では、貴方がこれとこのコを、持ち主の所に届けてください。配達料はお支払いしますので」
「あっと……! し、失礼しました。仕事中にもかかわらず、無礼な振る舞いを……」
 ようやく理性が戻ってきた和寿は、慌てて頭を下げた。泉は微笑みを崩すことなく手を振ると、
「いえ……貴方は休憩中、なのでしょう……? 今は私が、貴方に依頼をしている立場……貴方が気を遣う必要は、無いのです……」
「……はぁ……」
 人は、価値観の違う思想に出会うと反応に困るものだ。和寿は間抜けな声を出してケセランパサランと顔を合わせた。実際には、和寿が一方的にフワフワの塊を見つめただけなのだが。


 結局、和寿は二度目の朝食も昼食も返上して、車を走らせることになった。助手席には、形だけシートベルトをかけたケセランパサランが動いている。実際には、人間の腰辺りに巻かれる部分だけに引っかかっているだけで、このシートベルトが役割を果たしているのかは定かではない。
 ケセランパサランは、和寿を持ち上げようとしていたスネコスリ達よりも大人しく、現状不便を被ることもない。時折身体を震わせているが、今の和寿にはこの行動が何を示しているのか分からなかった。
 トラックに積んでいた午後配達用の荷物を一通り終えて、仕事用のアイフォンで上司に連絡を入れる。
「……あ、大和です。お疲れ様です……はい、一応、全部終わりました」
『そうか。流石、早いな』
「あざす……それで、一件その……野暮用が入ったので、会社に戻らずに配達行っても良いですか」
『野暮用? もう配達は済んだって事は、集荷じゃないのか?』
「はい……あの……すんません。本当に野暮用で……」
 歯切れが悪い大和を上司は不思議に思ったが「終わったら定時退社しろよ」と最後には許してもらえた。
「……ふぅ。流石に、テメェの事は喋れねぇわな」
 ちらりとだけ助手席に視線を移して、大人しくしているケセランパサランを確認する。何気なく片手を伸ばしてフワフワに触れると、温かいような、しかし何にも触れていないような感覚に違和感を覚える。
 気を取り直してトラックを走らせる。泉が指定した住所は管轄外だったが、時偶ケセランパサランを触りながら移動していくと、ナビが示した場所には広大な畑と公園の一部が広がっていた。
「……はぁ?」
 和寿が運転席側の窓を開けて周囲を見渡したが、和寿が想像する『家』らしいものは一軒も見つからない。
 トラックでは細かい所まで探せない為、一度近くのパーキングエリアを探す。古びた無人駐車場に恐る恐るトラックを駐車して外に降りると、ケセランパサランがすかさず滑るように動いて和寿の肩に収まった。
 最初は気味悪がっていた和寿だったが、歩いていても擦れ違う人々はまるで綿毛の存在など見えていないらしく、今更ヤマネコ運輸の制服に注目が集まることもなかった。
もう一度公園の一角まで戻り、小包に書かれた住所とアイフォンのナビを確認して、間違いなく該当場所だと確認する。宛名に記載された『蓮見』と言う苗字を探して公園近くの集落にも行ったが、表札が無い家が多くて特定も難しい。
「……くっそ、旦那に連絡しねぇと……」
和寿がアイフォンの履歴から連絡先を辿ろうとしたその時。
「……なぁご」
「っ!?」
 突然、なんの前触れもなく黒猫が一匹近づいてきた。正確には、右前足だけ靴下を履いたように白い毛が生えており、果たして『黒猫』と形容してもいいものかと、和寿はしゃがみながら思考をくるりと巡らせた。
 猫が近づくと、肩に乗っていたケセランパサランが嬉しそうに下に降りてきた。黒猫はケセランパセランが見えているようで、くむくむと綿毛と和寿を交互に嗅ぐと、ついて来いと言わんばかりに踵を返して尻尾を振った。
「おい……ありゃぁ……」
 訝しむ和寿だったが、ケセランパサランが大して進まない体で一生懸命黒猫を追い掛けようとするのを見て、頭を掻きながら立ち上がった。
「おい、綿毛。乗っかれ」
 初めて和寿に話しかけられたケセランパサランは、ぴょんと一跳ねだけして、足から肩まで登った。喜んでいるのか、触れている肩が仄かに温かい。
 黒猫に道案内された先には、豪邸と言わんばかりの一軒家がそびえ立っていた。周りの敷地は背の高い桜の木だらけで、確かに記載されていた住所と一致している。
「こいつぁ……入口が無けりゃァただの公園じゃねぇか……」
 トラックがこの住所の前で停まった時から、確かに視界がこの屋敷の端を捉えていた事に舌打ちする。敷地は一足入るだけで至る所に猫がいる。そのせいで、外観とは違う不気味な、嫌悪にも似た怪しさを感じた。
 和寿は意を決して前に進むと、屋敷の入口だと思われる扉に辿り着いた。鳴るか分からないインターホンを押すと、音程の外れた『ピンポーン』が鳴り響いた。
「や……ヤマネコ運輸です。お届けに、参りました」
 意を決して和寿が叫ぶと、ようやく重たい扉が開く。
 中から出てきたのは、恰幅の良い老婆だ。等身が低く、鼻が大きい。いかにも『魔女』と言う言葉が似合いすぎる彼女を、確か泉は『マダム』と呼んでいた。
「は……『蓮見 花音』様、で……お間違えないですか?」
「……アンタ、いつも来る配達員じゃないね」
「はい、配達区外の者ですが、ヤマネコの正社員です。解通易堂から、直接配達に参りました」
 マダムは不愛想な顔をしながらも、顎をしゃくって和寿を中に招いた。
「あの、荷物を受け取っていただければ、中まで入ろうなどとは……」
「アンタはアタシの出す茶も飲めないのかい?」
「……いえ、いただきます……」
 渋々中に入ると、屋敷の中は和と洋が歪に混ざり合った空間が広がっていた。更に、外に居た数と同じくらいの猫が、縦横無尽に闊歩している。解通易堂と同じ雰囲気を思い出しながら、本日二度目のお茶を出された。
 和寿は帽子を脱いで背もたれの高い椅子に座りながら、高そうなティーカップの中身を確認する。
驚く程香りが良い紅茶を飲みながら、ずっと肩に乗ってるケセランパセランと修繕されたブラシの小包を渡す。
「こちらが、ご注文の品……だ、そうです。コイツは、そのブラシに憑いていたみたいで……お返しします」
 持っているかどうかも分からない感覚でケセランパサランを肩から外し、小包の上に置く。綿毛は不安そうに一歩だけ和寿に近づいたが、マダムの何かに気づいたのか、直ぐにぴょんと跳ねて彼女の肩に移動してきた。マダムにもこのフワフワが見えているらしく、一瞬だけ表情が穏やかになる。
「アンタ……このコがどんな存在か、あの人から聞いているんだろ?」
「あの人? 泉の旦那のことですか? ……はい、よく分からないですけど、一通り……」
「じゃあ……このコを使って一儲けしようとか、一瞬も考えなかったのかい?」
 マダムが店主と同じリアクションをしながら、至極自然な質問をする。そこで和寿は、ようやく「ああ」と合点がいった様に拳を手の平でポンと鳴らした。
「いや、妖怪だろうとモノノケだろうと、他人の物は元の持ち主に返すか、警察に届けるのが当たり前です。それが貴重で、大切なモノなら、尚更……」
「……ハハハ! あの人が気に入るハズだよ」
 マダムは初めて大きな声で笑うと、皺だらけの両手を叩いた。突然の物音に、近くにいた猫達がギョッと驚いて飛び散る。
「そうさ『当たり前』のことさ。でも、今はその当たり前のことすら出来ない人間が増えてきちまってるのさ」
「……?」
 容量が掴めないマダムの言葉に、和寿は首を傾げた。
「このコの幸運は建前じゃない、本当に起こるのさ。一文無しを大富豪にしたり、たった1枚の宝くじが当たったり、悪事が成功したり……」
「それは……幸運と言うより、悪運では……?」
「運の使い方は人によって違うのさ。アタシの場合は……不妊続きの主婦に子を授けたり、難産だと言われた妊婦の逆子を元に戻しちまったり……死に際に立たされたアタシを、今日まで生かしてくれたり……このコが居なかったら、今のアタシは存在しないんだ」
 マダムは豪快に笑った後、ケセランパサランを優しく撫でた。彼女の手が好きなのか、綿毛は自ら彼女の手にフワフワを擦りつけて、幸せそうに震えている。
「アンタには感謝するよ。このコが居なかったら、アタシはもう産婆を続けられなかったかも知れない。このブラシも……お守りみたいなもんでね……今日届けられなかったら、と、気が気じゃなかったのさ……」
 マダムはしみじみと言って、小包を開けて中からブラシを受け取ると、状態を確認する様にケセランパセランをブラッシングした。綿毛は再び、気持ちよさそうにフワフワを震わせる。
「うん……問題なさそうだね。このブラシで明日、妊婦の髪を梳かしてあげると、このコの幸運をお裾分け出来るのさ」
「……お話、ありがとうございました」
 和寿はいつの間にか飲みきっていた紅茶のカップを机に置いて、マダムに向かって深く頭を下げた。
「自分は……正直、32年間生きてきても、今日という日を信じることが出来ません。ですが……信じる、信じないに限らず、良いお話を聞かせていただきました。ありがとうございます」
「ハハハ! 正直者だね。もし『縁』があったら、またこの屋敷に寄っておくれ」
「……長居しました。自分はこれで、失礼させていただきます」
 屋敷を後にして、職場に向かってトラックを走らせる。帰り際マダムから、
「ずっとこのコをしょってたんだ。きっとお前さんにも『良いご縁』があるさ」
 と言われたが、和寿は黙って一礼をしただけで、直ぐにトラックに乗り込んでしまった。
 長い一日が終わろうとしていた。無意識に助手席に手を伸ばした和寿は、奇妙な喪失感を覚えながらトラックを走らせている。すると、会社のアイフォンが着信音を鳴らしてきた。
 トラックをコンビニの駐車場に停めてアイフォンを取り出すと、その画面には見たことのある電話番号が表示されていた。恐らく解通易堂の番号なのだが、仕事の電話なら出るしかない。
「はい。ヤマネコ運輸です」
 声のトーンを変えずに電話に出ると、今度は食い気味な返事が返ってくる。
『はい、解通易堂です』
「ご依頼の配達は終わりました。ご利用ありがとうござ……」
『ええ、存じております……改めて、お礼がしたいので……お仕事が、終わりましたら……解通易堂まで、お越しください』
「いえ、またのご利用の際で……」
『いえいえ、本日お越しいただきたいのです……是非とも、よろしくお願いいたします』
「……っ!」
 和寿は帽子の上から頭を掻くと、渋々承諾してアイフォンの停止ボタンをタップした。先程マダムが言っていた言葉を思い出し、溜息を吐きながらトラックを発進させた。
「これが『良いご縁』だなんて、俺ぁ信じたくねぇぞ……!」


 和寿は今も妖怪や怪異の類を信じている訳ではない。
「では……何故、当店で出会った怪異に……畏怖や憎悪を、抱かないのですか……?」
 ある日、焦がし櫛に宿る化け猫と対談した和寿に、化け猫を見送った泉が何気なく問いかけた。
「……俺ぁ、誰よりも『俺』を信じてる。だから、俺が見えている『モノ』は、見えてんだから信じて対応する。必要なら助ける」
「そう、ですか……ふふ、貴方は本当に……不思議な方、ですね……」
「旦那にだけは言われたくねぇ」
 とは言え和寿は、最近は配達以外の目的で解通易堂に呼ばれている気がしている。
 また別の日には、和寿自ら仕事帰りに解通易堂へ訪れ、容赦なく店の裏側の扉をこじ開ける。
「旦那! 泉の旦那ァ! 邪魔するぜ」
 深夜に買い物袋を携えて、足で物を掻き分けながら、不機嫌を隠さずにズカズカと部屋の奥まで入り込む。台所に袋を置いて店側の方に向かうと、散らかり放題の帳場を片付ける。
 次に、再び台所を経由して隣の和室に向かうと、そこは以前と違い、洋服だらけの布の間になっていた。和寿が袖を肩まで捲って気合を入れていると、布の塊の中から泉が現れる。
「お、疲れ様です……和寿。……おや? どうやら……眠ってしまったみたい、ですね」
「『みたい、です』じゃねーよ! 10分前にしっかり連絡寄越しやがって!」
 悪態をつきながらも、手は止まることを知らない様にテキパキと動く。あっという間に帳場とその奥の作業場兼寝室を片付けた和寿は、台所に戻って夕食を作り始めた。
 袋に入っていたのは基本的な野菜炒めと味噌汁の材料だが、和寿が料理するとやや味が濃くなりがちだ。
「チッ! 個人用の連絡先教えてから、俺のこと小間使いか何かだと思って呼んでんだろ!」
「いえ……もっと別の、何かだと思っていますよ」
 丁寧に片付けられた服の数に感動しながら、泉は切れ長の眼を細めて台所を覗き見た。途端に、奇妙な悪寒に見舞われた和寿が鳥肌を立てる。
「っ!! 気持っち悪い目ぇでこっち見るんじゃねぇ! さっさとそのビラッビラな服着替えて飯食えってんだ!」
 巻き舌気味にまくし立てる和寿は、手際良く夕食を盛り付けて来客兼生活用のテーブルに並べる。因みに、食器と電子レンジは和寿が自分の家から持ってきた物の為、民族的なテーブルクロスに似合わない安っぽさが滲み出ている。
 泉はそんなこと気にならないのか、満更でもない顔で軽装に着替えると、横に流していた長い髪を頭の上の方で束ねて席に着いた。
 夕食の準備を終えた和寿が反対側の席に着く。配達人と依頼人だった彼らの立場は、いつの間にか共に食事を囲む、奇妙な仲になっていた。
「……なんでぃそりゃぁ。女が着るワンピースみてぇじゃねえか」
「ディラピケの、ワッフゥテレコシャットドレス……と言う服です。偶然、縁があって……手に入りましたので……」
「でら……? ドレスってこたぁ、女物じゃねえか」
「ふふ……服や衣装に、性別と言う概念はありません……。着たい時に、着たい服を着る……私にとって、これ以上の幸せは……無いでしょう」
 普段より流暢に喋る泉は、マタニティドレスをファッションの一部の様に着こなして、当たり前のように和寿の夕食を食べ始める。
「うん……とても美味しい、ですよ……いつも、ありがとうございます」
「……」
 切れ長の目を細めて微笑む泉に、和寿はいつもの奇妙な嫌悪感を覚える。和寿の表情の方が、誰がどう見ても鬼の様な不機嫌な顔をしているが、眉間に皺が寄るのは彼の癖だった。
「……なあよぉ旦那。その顔、どうにかならねぇか?」
「顔……ですか? 残念ながら、産まれ持っての……財産のような、物なので……そう簡単には……」
「嫌味ったらしく見えんだよ。俺も他人の事を言えたぁ義理じゃねえが、旦那はこの店の顔だろぉ? そんな胡散臭い顔じゃぁ、逃す商売もあるんじゃねえか?」
 和寿はレンジで温めた白米を頬張りながら、正直に思ったことを口にした。途端に、泉の細められていた目がふわりと開き、動いていた箸が一時停止する。
「……そのような事を、言われたのは……初めてです」
「おぅ。だったらこれを機に、眼鏡でもかけてみたらどうだ?」
「眼鏡……ですか。そうですね……」
 思案する泉に対し、和寿はあっという間に自分の分の食事を終えて台所に戻ってしまった。食器を綺麗に洗って、泉が用意してくれた高級そうなタオルで雑に拭き取る。
「ふふ……では、今度は眼鏡を……探してみましょう……ご教授ありがとう、ございます……」
「だから、ンな怪しい顔してねぇでさっさと食え。俺ぁ明日も仕事なんだ」
 人の気配がなかった空間が、和寿によって生活感を漂わせている。泉は楽しそうに目を細めながら、ゆっくりと食事を味わっていた。

――こうして、また明日から新しい物語が……否、怪奇譚が始まる――

【完】

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