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一度崩壊したものが立ち直ることの難しさ

6月27日の記念日【メディア・リテラシーの日】
テレビ信州によって制定された記念日。1994年の6月27日、松本サリン事件があり、事件現場近くに住む無実の男性がマスコミにより犯人扱いされるという報道被害を引き起こしたことから、その反省を込めて制定したとされたということのようです。

しかし、メディア・リテラシーと聞くと、受け取る側にそれを訴求しているようにも感じます。発信側のリテラシーは実際どうなっているのか。

爆発的な勢いで普及したスマートフォンやタブレットにより、多くの人が上限としてインターネットというメディアを視聴するようになった近年、もはやテレビや新聞メディアが発信している情報は、公平公正でない、権力に自ら阿り、忖度だらけであることが明るみになっているのに、未だに電波の権利を寡占しているというだけで、さもそれが世界であった全てのことのように発信され続けている状況があるように感じます。

例えば、ここ最近の一週間は、女優さんの不倫報道について、どこまで報道し続けるんだというくらいに、お昼の情報番組、ゴシップ週刊誌などでは繰り返し取り上げ続けていますが、一方で被害者が多数出ている男性アイドル事務所の問題は、極力触れないように「再犯防止」という耳当たりのいい言葉を異口同音に並べてそれ以上追求する番組などはありません。

政治のニュースにしても、権力を持つ側に都合の悪い事は「報道しない自由」で報道せず。また、苦しい思いを抱えながらも、真実を伝えたいと思って取材を受けた人のことばを、都合のいいように編集して、全然違う言い分に変えて電波に乗せて発信するなどのことも、平然と行うなど。

今日の記念日の元になる事件の真犯人であった、カルト宗教団体に対して、某全国ネットのキー局の報道番組プロデューサーたちが、別の弁護士一家殺人事件でも、そのカルト宗教団体に、その弁護士一家の個人情報がわかるような動画を見せるなどしていたという事件もあり、そのせいで痛ましい殺人事件を引き起こしてしまったという事もありました。

その際、当時その番組のメインキャスターを務めていた、男性アナウンサーさんが「○○○は、今日死んだに等しいと思います。」と冒頭に強い口調で自身の所属するテレビ局を非難し、殺人事件を引き起こした団体に情報を提供するというとんでもない片棒を担いでいたことについて、伝えたことは印象深く残っています。

それから30年近くたとうとしていますが、現在のメディア・リテラシーについて、受け取る側は以前よりも賢くなった人が増えているようにも感じます。一方で発信側は、どうでしょう。受け取る側の情報を見抜く力に対して、真摯に向き合おうという姿勢はどれだけ取り戻したのでしょう。

おそらく、この記念日を引き起こした、あのカルト宗教団体にいいように踊らされたころに崩壊した、メディア・リテラシーは都合のいい解釈の中で、ぱっと見にはきちんとしている様に見えているだけで、本質はさほど変わっていないのではないかと感じてしまいます。

まだ、テレビを、新聞を見てその情報源で生活を送る世代の方が多いでしょう。ですが時の進みは平等です。いずれ、テレビ・新聞でなく情報を収集している世代が社会の中心になっていったときに、発信する側は、求められるメディア・リテラシーについていけるかどうか。日々刻々が正念場のように感じます。

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