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23.入社4年目のはなし(仕事編)

親父の葬儀を終えて会社に戻ると、すぐに現実に引き戻されました。
やってもやっても仕事が終わらない日々が続きます。

建屋の工事は着々と進み、4月には機械の搬入が始まりました。
機械の搬入が始まると、機械同士のつなぎをどうするか、コンベアをどう支えるかなど、現場を見て判断しなければいけないことがたくさん出てきます。
そこで、まず後輩のYくんに現場に行ってもらいました。

そうすると本社での事務仕事に手が回らなくなるため、協力会社のIさんにプロジェクトに加わっていただきました。
Iさんは几帳面な方で、混乱していた資料を奇麗に整理していただき、最大限のサポートをしてくださいました。

Iさんとは今も年に一回くらいのペースで飲みにお付き合いいただいていて、当時も、今もお世話になっています。

Yくんに遅れること数カ月、僕も8月から鹿児島に常駐することになりました。
現場付近の宿はすでに作業員でいっぱいだったため、車で30分程離れた松栄館という旅館に、以降8カ月間お世話になりました。


後輩のYくんのがんばりで機械の設計はなんとか予定通りに進み、現場所長の活躍で機械の据え付けは少し前倒しくらいのペースで進みました。


2002年の12月から機械の試運転が始まりました。
機械単体の動作確認は順調に進んだのですが、ごみを投入しての試運転が始まるとトラブルが続出するようになりました。

トラブルはごみ処理の最初で頻発しました。
ごみを小さくするために設置したごみ破砕機がとにかく詰まったのです。

破砕機

最初の工程でラインが止まると、後工程の試運転はいっさいできないことになります。
従って早急にトラブルを解消する必要がありました。

試運転要員はプラント引き渡し後のことも考えて現地で採用していましたが、トラブルを起こすのは設計したお前たちのせいだろうという考えがあったのでしょう、動きは良くありませんでした。

そこで、僕とYくんでトラブル解消に当たりました。
最初は道具を使って詰まった生ごみを掻き出していたのですが、途中から軍手を履いた手で直接掻き出し、安全靴に生ごみの汁が入るのも構わず作業をするようになりました。

そんな様子を目の当たりにしたYくんは
「ついに内藤さん、頭おかしくなった」
と最初は思っていたそうです。
ただ、すぐに同じように必死で作業をしてくれました。
そして、そんな僕らの様子を見て思うところがあったのか、作業員も後に続いてくれるようになりました。


そして2003年1月、重大な事故が発生します。

日勤の作業を20時に終え、旅館に帰って夕食を済ませ、風呂に入り、眠りにつこうとしたその時、夜勤の試運転責任者から電話がかかってきました。
「内藤さん、戻って来てください!
 ガス化炉の温度が上がり続けて制御できません!」

ガス化炉

ガス化溶融炉は、通常のごみ処理プラントと大きく異なる工程があります。
ごみをガス化する際に発生した高熱の排ガスの一部を循環し、ごみをガス化するエネルギーとして使うシステムでした。

熱エネルギーをもった排ガスを循環させるため、循環バルブを開いて多く戻すとガス化炉の温度が上がり、絞って戻りを少なくするとガス化炉の温度が下がります。

ガス化溶融炉は外部燃料なしでごみをスラグにできる『自己熱溶融』を売り物にしていたため、(通常のごみ処理施設は灰を溶かすのに燃料を使う)試運転でも自己熱溶融を目指した運転が行われました。

夜勤の試運転責任者は、昼に僕が実現していた自己熱溶融を続けようと循環バルブを開き過ぎたのだろうと思い、電話ですぐに閉めるように伝えました。
しかし、温度が一向に下がらないと返って来ました。
ガス化炉は土鍋のように大きな熱容量を持っているため、簡単に温度が下がらないのです。

その日は同じ松栄館に泊まっていたYくんと共に、さっき脱いだばかりの作業服を着て現場に戻りました。
そして僕は夜勤の試運転責任者に代わって中央制御室のコントローラーの前に座って制御を、Yくんにはトランシーバーを持たせ、ガス化炉に近づき過ぎないように注意しながら、現場の状況を報告するよう指示をしました。

間もなく、Yくんから報告が入ります。
「内藤さん、やばいです!
 ダクトの色が変わっています」
設計温度500℃程のダクトが、1000℃近くになっていました。
ダクトの中で燃焼が起きていると考えられました。
1000℃という温度は、ダクトが溶けていてもおかしくない温度でした。

「Yくん、現場を離れろ!
 逃げろ!今すぐ逃げろ!」

生きた心地のしない数時間でした。

朝にはなんとか温度が下がり、幸い死傷者は一人も出ませんでしたが、焼け焦げたダクトが悲惨さを物語っていました。

朝一番に大阪にいるW課長とY部長に電話をすると、事故調査班を送るからそのまま日勤として残るよう指示されました。

15時頃に調査班が到着し、起きたこととその原因として考えられることを話しました。

解放されたのはその日の20時頃。
前日の朝6時頃から38時間寝ていなかったのですが、宿に帰ってもしばらく眠れませんでした。

美しい自然の風景が好きで、大学ではその自然をまもり、環境汚染から人をまもるための衛生工学を学びました。
夢が叶い、その仕事をしていたはずなのに、結果的には環境を汚し、人を危険な目に遭わせる仕事をしてしまっていました。
いったい自分は何のためにこの仕事をしているんだろう?
そんなことがグルグル頭の中を巡りました。

自分なりに精いっぱいやってきたつもりでしたが、事故は起きてしまいました。
自分の力量に限界を感じ、この業界には向いていないのかもしれないと思うようになっていました。

(つづく)


次のはなし

24.退職するまでのはなし(仕事編)
https://note.com/totoro0129/n/nd190937cf0ab/edit


<0.プロローグと目次>
https://note.com/totoro0129/n/n02a6e2bda09f

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