お正月が嫌いな人いますか?

お正月が嫌いだ。いや嫌いじゃない。美味しい食べ物たべられる、お買い物は福袋をはじめ色んなちょっと豪華を楽しめる。けど、私にとってお正月が辛いものになる出来事が2018年の暮れから2019年の初めにかけて起こった。

12月27日に母方の祖母が亡くなった。それから数日して大晦日の午後に祖父母の家の片付けを手伝っていた父が心筋梗塞で大きな病院に搬送された。父の方は命に別状は無かったけれど、立て続けに二つも起きてほしくない出来事が起きた。大晦日の夜は姉と二人で病院に向かう。待合室で不安そうな母と三人で待つ。幸い父は元気そうだった。年始は三日以外はお見舞いで潰れる。そのことは何も問題はなかった。だけど街が浮かれている。ただ街が浮かれているだけ。それだけ。バスの中ではしゃぐ子供の声がつらい。せっかくの正月だからと病院の帰りに母が姉と私をショッピングモールの中のレストランに連れて行ってくれた。味は美味しい。けど祖母のことから立ち直れてない私は、母の手前楽しんでいる風だけれど、内心で祖母を連れてきたかったなどと思ってしまった。沈んだ三人をよそにレストランの中もショッピングモールのどこそこも賑わっていた。バスに乗ると買い物やお出かけ帰りの人々の嬉々とした雰囲気に気圧される。バスから降りる。帰りは真っ暗な夜の道。一月の夜だから寒い。寒いけど身体が寒いだけなのか?身体が震えるのは実際の寒さだけじゃない。心が寒いことでも身体が震える。ふいに涙が出そうになった。正月なのにこんなに辛いものなのか。このときばかりは身勝手にも人の幸せを妬んでしまった。

「何でみんなは幸せなのに自分たちはこんなに不幸なの?」

それからというもの私はあまり熱心にあけましておめでとうと言えなくなった。かつては考えもなしに他の人にあけおめメールを送っていた。お正月を祝う。それはとても良い風習だと思う。けど私には目から鱗が落ちた。お正月が、いやお正月だけじゃないクリスマスもお祭りもなんだってそう、そういう楽しい行事ごとの裏では泣いてる人がいる。私自身すでに経験していたことじゃないか。中学3年のとき馴染めないクラスでの体育祭は欠席して文化祭の集合写真も大勢の中で目立たないようにしていた。しかし同様に楽しい体育祭も文化祭も知っている。だからなおさら中学3年のときは比較してしまってつらかったのか。正月についても楽しい思い出さえ無かったら何でもなかったのだろうか。しかし人は立場が変われば忘れる生き物だ。高校生になってからの私は少し孤立しかけたことはあったが、一緒にいる人が増えたためそれなりにやっていけた。それと同時に一人ぼっちの同級生だっていた。私が楽しんでいる間に彼がどこにいて何をしていたか知らない。深くみつめるなら、彼がどんな気持ちで行事ごとを迎えていたのか。それに考えが及ばなくなっていた。ある意味で、集団に溶け込むことで人はマイノリティ層のことなどどうでもよくなる。たとえそれが以前マイノリティ側だったとしても。私にも今の私を忘れる日がくるのだろうか。

楽しむ人に楽しむなと言うつもりは無い。悲しんでいる人のこと考えろよ!なんてさすがに見当違いもいいところだ。喪中の人に使わないこともマナーになっている。だけど自分の心情としては楽しめなくなった。いや、むしろ当たり前に迎えられることの喜びを噛み締められるようになったのか。そもそも、あけましておめでとうという言葉自体にそういう意味合いが込められているのではないのか。そう考えてみると、当たり前のことを享受できる喜びもそれを祝うことも、良いことかもしれない。とは言え、純粋に楽しめた私はもういない。楽しい出来事の陰で泣く人間というのは究極的にマイノリティだ。同じ場所にいても確実に別の世界にいる。ヘタすると疎外感だけでなく実際に集団から除け者にされる可能性すらある。人というのは別の境遇・視点には気づかない。向かい合って初めて、天地が逆になったような衝撃とともに、自分の中に入ってくるのではないか。