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2018年4月1日。


僕らのスタッフだった白石さんの命日。
世間では嘘をついてもいいよっていう日。僕らにとってもつい6年前まではそうやって4月1日を過ごしてたのに6年前のこの日以降嘘にしたいけど嘘にはもうできないそんな日になってしまいました。
ZINE作ってた頃はいつも白石さんの似顔と一緒にリリースしてました。エイプリルフールみたいに4月1日だけは白石さんを生きてる僕らで生かしてあげたくて、思い出とかあの日の出来事とか感情とかを誰かに向けて書きました。実際は自分に言い聞かせるかのような気も今ではしてます。

やっぱり僕らは生きてるから歳を取り続けるし、生きてるから挑戦をし続けます。どんなに大きな失敗やミスをしても、やっぱり過去に戻りたいとは思えません。だから今年もまた去年のように「2018年4月1日」には戻りたくないと思ったりしてます。でも白石さんと話をするには「2018年4月1日」以前に戻らなくちゃいけない。そんなことを考えたりします。
やっぱり死ぬというのは残された人達にとっては辛くて解決策のないような明日を生き続けなければならない。
でもやっぱり頑張ろう。明日も生きよう。そういう選択が生きてる僕らにはできるということだと思います。

初めまして
僕らが白石さんに会ったのはもうかれこれ10年以上も前で、横浜から名古屋にお店を開く為に引っ越しをしてきた頃でした。当時名古屋には知り合いと呼べるような人はほぼいなくて、土地勘もなくて、名駅と栄の区別もついてないぐらい。当時関東エリアではクラフトビールが既に認知されていて、特に東京では多くのお店がクラフトビール屋としてオープンしてた頃。たったの10年前だけど当時はまだそれぞれのお店がSNSとかを使って頻繁に発信するような感じじゃなかったから名古屋に来る前に「名古屋 クラフトビール」とネットで探したりした。そこで最初に検索されたのが「KEG NAGOYA」。ほんとに名古屋で知ってる人はほとんどいなくてとりあえず行ってみようという具合でいったのが最初。その日が実は初めて白石さんに会った最初の日でした。当時はまさかこの人と一緒に働くとは思いもせずに。
当時は何者でもなかった僕らはあんまり発言力とかなくて、例えば物件探しで不動産に行ってもちゃんと話を聞いてくれるところのが少なかった。別にやさぐれてたわけでもないしそういうものだと、僕らみたいにお店やりたいって人はたくさんいて毎度毎度親身になんて聞いてられないとそう思ってた。
思い返せば白石さんはちょっと違ってたな。当時Yマーケットの店長だった白石さんはちゃんと話を聞いてくれてちゃんと挨拶をしてくれた。僕らが初めて「お店の経営者」として見てもらえたようなそんな記憶があります。なんか久々にちゃんと名刺交換したなと。
でも白石さんの優しさって目立たないから、その時は気付かなかったな。

あの頃
ブリックレーンをオープンして右も左もわからずに忙しくしてた頃、当時僕らは夜中の2時までお店を開けてて、近隣のビアバーの人達が営業後に遊びに来てくれる場所になってました。おかげさまであの時にたくさんコミュニケーション取れてみんなと仲良くなれたと思ってます。今ではみんな散り散りしてますが、あの頃によくみんなで集まってた時間はなんか大人になってからの青春みたいな記憶があって毎日がただ楽しかったなと。そんな中にはもちろん白石さんいて、疲れて寝てたり、寝そうなのにハイアルのIPAをパイントでオーダーしたりしてた。w
とにかくあの空気感はもう味わえないんだなと思うと少し寂しくて、あの時間を思い出話として一緒に話せないのがもっと悲しい。
あの頃の話をするには絶対に必要なピースの一つである白石さんが欠けてるから、あの頃の話をすると少し悲しくなるんだよ。

一緒に
僕は白石さんと9歳の歳の差があった。けどそんなことは白石さんは一切気にせずに、僕の一緒にやりませんか?という誘いに頷いてくれた。なんで白石さんを誘ったのか。僕らは白石さんの事が好きだったし、何より白石さんの接客には常に優しさを感じた。それは目立つような優しさじゃなくてわからない優しさ。僕がいつも惹かれる大人はそういうタイプの人だった。突き抜けるようなカリスマ性とか抜群のセンスより、息をするように相手の事を考えたり優先してしてくれるような人。それが白石さんだった。だからもっと長く一緒に働きたかった。
僕が白石さんを誘った頃はまだユーズドライクがオープンする前で、Kings BrewingやSeparatist Beer Projectの輸入がようやくできそうなそんな頃でした。僕の誘いには乗ってくれたけど、当時はYマーケットで働いていたから移籍のタイミングは色々と調整していて、結果うちに入社することに決めた日が「2018年4月1日」でした。
その間にもよくミーティングをしていて僕らが理想とする形やこれからの事をたくさん話しました。というよりほぼ一方的に僕があーしたいとかこーしたいとか言ってていつも白石さんは頷いてたような気がするけど。
そして待ちに待ってようやく迎えた希望に満ちた「2018年4月1日」は経ったの6時間というあまりにも短く突然終わった。

その日
約2週間ぐらいの有休消化を使って3月の後半に東京や大阪のビアバーに白石さんは行ってた。最初は故郷の山口に帰るって言ってたから、なんで?と思ったけど白石さんは人生の中で中々ないご褒美のような2週間を僕らの為に使ってくれたんだなと。それはすぐにわかったし、これから一緒に頑張ろうと、この人の期待を裏切るような働きは出来ないなと、逆に身を引き締めてもらったそんな瞬間でした。
その日はいつも通りに14時にオープンしたけどいつも違う空気が流れてて、来てくれるお客さんも少しいつも違くて、あーこれからまた新しくなるんだなと思ってた。

そして19時半頃。突然倒れた。

あの瞬間お店にはそれなりに人がいて、僕も一瞬何が起きてるのか全くわからなくて誰かが言った「救急車呼んで」という言葉ですら現実味がなかった。僕は冷静さを保とうとした。
電話越しの人が細く出してくれる心臓マッサージの合いの手をみんなに言って、指示にしたがってそこにいたみんなでかわりばんこに心臓マッサージをした。
誰かが「電話貸して!」と言った。僕は電話は離さなかった。これは僕の役目だと思った。ほんとに。
「息はしていますか?」
「胸は動いていますか?」

わからなかった。

電話越しに聞こえる指示が生命線だと思った。
「名前を呼んでください!」
「白石さん!」
みんなでたくさん名前を呼んだ。指示を聞き逃せなかったから僕はあまり呼べなかった。

それから程なくして救急隊の方が来て僕だけ一緒に救急車に乗った。どれぐらいの時間走ったかはわからなかったし、そもそもどこに向かってるのかもわからなかった。その間色々と救急隊の方に質問されたけどこれもあまり覚えてない。ただ白石さんの脈があったのはすぐに気づいて、良かったと思った。大丈夫だと思った。

それからいくつかの人に電話しました。白石さんが倒れましたと。でも死ぬなんて微塵も思ってなくて、みんなで待合室で話たりしていました。僕も明日からのシフトを考えたり、何日入院するのかなと思ってました。
今でも鮮明に覚えてる病室から出てきた先生の言葉。今起きてる事に頭と感情が全然合致しなくて、ただ突然言われるがままに最後のお別れを数人でした。
すぐに自分が知り得る人達にたくさんメールをしました。不思議と。これはたくさんの人に知ってもらわなきゃと。
そして4月1日が終わった。

それから
たくさんの僕らへの心配メールや、連絡してくれたことへのお礼の連絡を頂いた。さらにたくさんの人たちがブリックレーンに来てくれました。クラフトビール業界の人たちだけじゃなくて、白石さんの同級生の方や、昔の同僚の方。ほんとにたくさんの人たちがブリックレーンに何かを求めてきてくれた。だから僕にできる事は、あの日に何が起きたのかを細かく伝える事だと思った。思い出の量は彼ら彼女らの方が遥かに多くて、白石さんの最後はこうだったという事を伝えることで少しでも何かになってくれればと心から思った。
そんなことを約1ヶ月ぐらいして思った。僕らと白石さんの思い出の少なさが悲しかった。「2018年4月1日」からいい事もよくない事もたくさん積み重ねるはずだったのに僕らと白石さんの挑戦は経ったの6時間で突然の終わりを迎えた。
だけど。
間違いなく白石さんはたったの数時間だけど僕らの社員だった。誰もそう思ってない。わかってる。誰もが「Yマーケットの白石さん」だと思ってる。それでいい。掛けてきた時間は遥かにそっちのが多くて白石さんの軌跡はそうだから。
でもたったの6時間だったけど僕らにとっては「ブリックの白石さん」だった。

あれから
僕らは毎年4月1日は白石さんと話をする日に決めました。この日は白石さんの為に書く「1年に1回だけ白石さんに会えるノート」を作りました。この日にしかノートは開かないし書かない。いつまでも後ろは向いて居られない。僕らは生きているから色んな事が起きたり、いろんな出会いがある。けどこの日だけは白石さんと会話をしようと決めた。
どうか気が向いたら4月1日に来てみてください。そしてどうしても来れないという方も、今年は来れなかったという事を思い出にしてもらえれば幸いです。
僕らはもうこれからを自分自身では生きられなくなった白石さんをこうやってnoteやノートを使って生かしたいと思っています。そしてこれは生きている僕らしかできないことだと。
そしてまた4月2日を迎えようと思います。

それじゃ白石さんまたねー。

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