声優オルタナシンガー 夏川椎菜と斉藤壮馬 ―セルフプロデュースから紐解く両名のオルタナティブ性

1.オルタナティブな音楽が必要という話

2022年2月9日― この日、声優音楽シーンから2枚のCDが発売された。
1枚目は夏川椎菜 2ndアルバム「コンポジット」、2枚目は斉藤壮馬 2nd EP「my beautiful valentine」。
奇しくも同日に(更にいずれもソニーミュージック系列から)リリースされた2枚の新譜は、音楽ジャンルや全体的な作品像において真逆の様相を呈している。

しかし、私はこの2つの作品に―その根底を流れる精神性に共通するものを見出せると思った。それは音楽ジャンルや歌詞の主題といった表立つ要素ではなく、一枚の作品を創り上げる際の感性やコンセプトにある。

これを一言で表すならば「オルタナティブな精神性」だ。
両名の作品はメインストリーム(主流派、大衆向け)と相反するオルタナティブな(代替の、代わりとなる)感性の元に制作されている。

2022年現在の二次元音楽を俯瞰した時、皆さんはどのような音楽性が主流だと感じるだろうか?
専門家でもない一般リスナーの意見で恐縮だが、昨今の情勢において薄れかけた人間同士の繋がりを求め、多くの客層や制作サイドが一体感・共感といったものへ傾倒しているように見える。
「人との繋がりが少なくて寂しいし辛いなあ→音楽で人と繋がって心を満たしたい→共感できる歌曲、みんなで作り上げるアーティスト成長物語、一体感に満ちたライブ」という具合で。

誤解を恐れずに一歩踏み込むと、「音楽そのもの」よりも「音楽によって副次的にもたらされる人との繋がりやプラスの感情」を重視する方向へ流されているのではないか。
音楽性は基本ポップスで、歌詞は万人受けしやすい日常系・恋愛モノ・メッセージソング辺りで、キャッチーな曲が多め、暗い曲はあまり作らない― 確かにこの情勢下でアイデンティティの危機に立たされた人々にとってこれ以上ない心の拠り所になるだろう。

弁明しておくが、私はこういった音楽を批判したいわけではない。
上記のような音楽やアーティストも好きだし、悟りを開いたこともない普通の人間なので他者との繋がりは大事だと思う。

一方で、このような音楽が世を埋め尽くしてしまったらどうなるだろう。
―どれもこれも似たり寄ったりな作品しか生まれてこなくなる?
―メインストリームに乗り切れないリスナーは置き去りのまま?
―文脈ばかりが重視されて音楽そのものが軽んじられていく?

私は少なからずこのようなリスクがあると思っていて、それを回避するためにもメインストリームと一線を画す音楽・アーティストがいてほしい。
それは音楽業界の縮小化に逆らう一手になりうるだろうし、本当に心から音楽を好きでいる人たちへの救済にもなるはずだ。(残念ながら私はその境地には達していないが)

二次元業界にも多数の楽曲を提供しているUNISON SQUARE GARDEN・田淵智也氏の楽曲にこんな歌詞がある。

どんなヒットソングでも 救えない命があること
いい加減気づいてよ ねえ だから音楽は今日も息をするのだろう
(シューゲイザースピーカー / UNISON SQUARE GARDEN / 2014年)

「ヒットソング=メインストリームで支持を集める曲」でも「救えない命=それでは満たされない人々」が存在する。
彼らを救うために必要なものはオルタナティブな音楽だ。
世間で評価されるものに乗り切れない、どうしようもなく疎外感を覚えてしまう人々を救える音楽。
そして今、声優音楽業界に二人のオルタナシンガーがいる。夏川椎菜と斉藤壮馬である。

2.二人のオルタナシンガーと音楽の距離感

前置きが長くなったが、本稿では両名の精神性とそこから誕生した作品がいかにオルタナティブなものであるかを論じていく。
しかし読者の中にはプロフィールを詳しく知らない人もいるだろうから、まずはファン視点で簡単に振り返ってみたい。

○夏川椎菜と音楽の急接近

ソニーミュージック系列の芸能事務所・ミュージックレインに所属する彼女は、2012年に声優デビューを果たし、2014年には麻倉もも・雨宮天と共に声優ユニット・TrySailを結成。
声優業とTrySailの活動を並行する中、2017年にソロシンガーとしてデビュー。現在では作詞家としての才覚を発揮しながら、サウンド・ビジュアルの両面を自ら監修している。
また、小説家として単行本を出版したり、自身で企画・編集した映像をYouTubeに投稿するなど多分野で精力的に活動。

最早マルチクリエイターと呼んでも差し支えない彼女だが、ソロデビュー当初の音楽との関係性はあまり良好ではなかった。
どんな音楽が好きなのか言葉で表現できないという、ある意味音楽家として致命的な状態にあり、自身の音楽活動に対しても「事務所の意向に従う」という消極的な受け止め方をしていた。
そんな彼女だったが、表現できない悔しさをバネにして多くの音楽に触れたことで、自身の好きな音楽を少しずつ探り当て、2018年以降は積極的に音楽制作に取り組むようになっていく。

この辺りに関しては、2019年に発売された1stアルバムのインタビュー記事を読んでもらうのが早いだろう。ミキシングやマスタリングにまで彼女の手が伸びていることがわかる。
夏川椎菜|“好き”が詰まったこだわりの1stアルバム - 音楽ナタリー

これまでにシングル5枚、アルバム・EP1枚ずつをリリースしてきた彼女が、今回満を持して世に放ったのが2ndアルバム「コンポジット」である。
ここまでの内容でも彼女の並々ならぬ拘りと制作意欲が伝わってくると思うが、一旦ここまでに留めておこう。

○斉藤壮馬と音楽の親密性

申し訳ないことにファン歴が浅く、彼の多くを語れるような人間ではないのだが、本稿に外せない部分を掻い摘んでいく。
2013年より本格的に声優としてのキャリアを開始し、多数の作品に出演して活躍の幅を広げる中、2017年にソニーミュージック内のSACRA MUSICレーベルより歌手デビュー。
デビュー当初は他作家からの楽曲提供で活動していたが、2018年に自身が作詞作曲した楽曲をリリースして以降、シンガーソングライターとして精力的に活動中。

そんな彼は学生時代から邦楽・洋楽問わず様々なジャンルの音楽に親しみ、リスナーとしてのみならず、同級生とバンドを結成して演奏・楽曲制作するなど非常に深く音楽と関わっていたという。
恥ずかしながら私が全く知らないアーティスト・音楽ジャンルを通って来た人だから、下記のインタビューを読んでもらうのが良いだろう。2019年に発売された1st EPのインタビュー記事だ。
斉藤壮馬、音楽への偏愛を語る「ピート・ドハーティの言葉には魔法がある」 - Rolling Stone Japan

これまでにも自身の嗜好を反映したディープな作品群を世に送り出してきた彼が、その路線を更に深化させてリリースしたのが2nd EP「my beautiful valentine」である。
前情報なく聴いて声優シンガーの作品だと気付くリスナーはいるのか?と本気で疑ってしまう一枚だ。

3.オルタナ性の"源泉"

両名のオルタナティブ性を論ずるにあたり、私が思うその"源泉"を述べておきたい。それは「物語性」と「アイロニカルな表現」である。

「物語性」とは読んで字のごとく、楽曲に物語の要素が存在するということ。
一般的なポップスなら恋愛モノが定番だろう。片想いが実ったり、逆に失恋したりといった物語が楽曲の中で展開していく。これについては私が例示するまでもなく、皆さんのライブラリに思い当たる楽曲が多数あるだろう。

しかし、物語が存在するだけではオルタナ性を主張するには足りない。そもそも今しがた恋愛モノが定番と言ったばかりだ。
両名の作品には物語性に加えて、「アイロニカルな表現」が大きな要素として存在する。

(英)ironic / ironical [形] 皮肉な、反語的な
(日)反語 [名]
①話者の意図していることをわざと疑問文で述べる。(例:「彼がそんなことをするだろうか?」=いや、するわけがない)
②敢えて本当に表したいことと反対のことを述べる。主に嫌味や皮肉。(例:大人をからかって遊ぶあくどい子供を見て、「本当によくできた子ですね」)

更にもう一つの付加要素として、両名の楽曲における物語はフィクションが多いことが挙げられる。
ノンフィクションの物語であればリスナーが物語の一員になることができるが、フィクションの世界にリスナーが入り込むことはできない。つまり共感しづらくなったり、共感できるポイントが減ったりする。

因みに夏川楽曲の場合はノンフィクション寄り=リスナーが共感しやすい曲もある。(楽曲が皮肉一辺倒になることを避けるために本人が敢えてそのような采配を取っている。)
だがそういった場合でも棘や苦みでリスナーを試してくる面があるから、一概に共感系とは言い切れない。リスナーを全肯定しないのだ。


大衆受けするストレートでノンフィクションに近い物語ではなく、皮肉や厭世観が多大に込められたフィクションの物語。
それは前置きで述べたメインストリームの音楽と対照的というマクロの意味もあるし、一見ポップに思える表現の中にも皮肉が混じってくるというミクロの意味もある。
繰り返すが、音楽に一体感や共感を求めるようなリスナー層に対して、皮肉に溢れた音楽やフィクションとして完結する物語は刺さらない。そこに彼ら自身が共感したり入り込む余地はないからだ。

そしてこれらの源泉と呼応するかのように、生み出された楽曲もまた音楽ジャンルや音作りといった点でポップスと一定の距離を置いている。
この点については次項で解説するが、手っ取り早く言えば「キャッチーさを残しつつも人と違うことをやる」。

ゆえに両名の音楽はオルタナティブなのである。
そして、その性質を紐解く鍵がセルフプロデュースという要素だ。
今述べたオルタナティブ性の源泉― 物語性とアイロニカルな表現は、両名が自身の内に抱えているものである。
それを自ら表現せんとする・音楽に落とし込まんとする姿勢が今日のリリース作品に繋がっている。

下記はインタビュー記事の引用だが、これだけでも十分にオルタナ性の片鱗が見えるだろう。メインストリームの音楽で重視されるメッセージ性や共感といった要素から相当離れた場所に位置している。

──メインストリームかオルタナティブかと言われたら、後者でしょうね。

正攻法では勝てないというか、それを私よりうまくやれる人も、私より求められている人もいると思うんです。
だったら夏川は、みんなが「それはやらないだろ」ということをやる。
そしたら、思わぬところで刺さる人がいるんじゃないか。そんな期待を胸に活動しています。
ただ、サウンド感は“喜怒哀楽”らしくけっこうバラバラになったものの、歌詞に関しては「結局、私が書いたらこうなるんだな」と改めて思い知らされたというか。
新曲の中で自分が作詞した曲は4曲あるんですけど、どんな感情を説明するにしても皮肉っぽいところが抜けないんだなって。
2万字のアルバム全曲解説インタビューで暴く、アーティスト・夏川椎菜の思考と感性 - 音楽ナタリー
あと、自分が曲を作る上で当初から変わらないことがあるとすれば、僕の作る楽曲には「斉藤壮馬のメッセージ」というものはまったく反映されていないということ。
もちろん多少は個人のものの見方は入ると思うんですが、あくまで曲ごとの物語であったり、映像であったり、ということで作っています。
あえて自分で言うのも恥ずかしいんですけど、自分の曲作りのテーマとしては、「メッセージソングとラブソングは書かない」っていうところでやっているつもりです。

──そのこだわりは、どこから生まれてきたのでしょう。

やはり、自分が10代の頃に触れたフィクション作品やエンタメ作品の影響が大きいです。
(中略)
自分が10代の頃に「救われた」と感じたのは、孤独でもいい、というか、孤独をそのまま見つめてくれるような楽曲だったんですよね。
だから、斉藤壮馬の言葉というよりも、物語として響く楽曲を届けたいっていうのが最初の思いとしてありました。
斉藤壮馬の音楽はなぜこれほど深い没入感を生むのか? 自身のルーツから新作『in bloom』までを語る! - rockin'on.com

4.楽曲から紐解くオルタナティブ性(概説編)

今提示したオルタナティブ性の源泉とセルフプロデュースという概念を踏まえて、その作品の深部に迫っていきたい。
それにあたり、まずは各要素におけるオルタナ性を概説し、その後でいくつかの楽曲をピックアップして内容を掘り下げていく。

①セルフプロデュース
夏川……企画立案、コンペ選定、楽曲制作、TD、マスタリング、ジャケット、ミュージックビデオに至るまでを自ら監修。レーベルプロデューサーとほぼ対等な立場。
斉藤……シンガーソングライターとして自らの楽曲をレーベルに提案。アレンジャーやレーベルプロデューサーを巻き込み、自身のみでは生まれない表現にも試行。
②歌詞面
夏川……
表現手法 自身と世間を比較するアイロニカルな表現
物語の舞台 現実から逸脱しない程度のフィクションの物語
言葉への拘り ユニークな言葉遊び、ダブルミーニング、強いパワーワード
⇒リスナーに深みを与える歌詞

斉藤……
表現手法 諦観をもって絶望を制するアイロニカルな表現
物語の舞台 どこか非現実的なフィクションの物語
言葉への拘り ハイセンスな言葉選び、ミスリードする表現、韻を多用
⇒リスナーに考察させる歌詞
③楽曲面
夏川……バンドサウンドでロック系統を押し出しながら、他ジャンルも適度に取り込んでいくバランス感。
斉藤……大きくはオルタナティブ・ロックに分類されるが、親和性の高い他ジャンルにも手を出していく。


まず①セルフプロデュースだが、先述の通り、自身の内に存在する物語性やアイロニカルな表現を自らの意志で作品に落とし込んでいる。
夏川に関しては、ミュージックレインの担当プロデューサーと密に連絡を取り合い、制作方針を共有しながら対等に近い立場でプロデュースを行う。
そして彼女とプロデューサーの基本的な姿勢が一致しているからこそ、彼女自身の内省的な面が抑圧されずに表現されているのだろう。

斉藤に関しては楽曲提案後にアレンジャーが入るのだが、自身のイメージ通りに制作されることもあれば、アレンジャーやプロデューサーの意見を踏まえて別方向を試すこともある。
しかし作詞・作曲は自身が手掛けているから、作品の本質たる部分は揺らいでいないように思う。(この曖昧な口調は楽曲理解やリスナー歴の浅さによるものなので見逃していただきたく……)

続けて②歌詞面については、大きく分けて3つの観点から特徴を表した。
アイロニカルな表現については共通するのだが、その手法については各々独自性が見られる。
夏川は「世間一般やマジョリティに馴染めない自身を皮肉るorむしろ世間の方を皮肉る」という具合で、言い換えれば自虐や批判とも取れる。
斉藤は「絶望的な舞台設定を諦観とともに受け入れる」ことが多い。絶望に対して希望を見出すのではなく、絶望には抗えぬものとして諦めるという作品性がアイロニカルであり、その絶望を敢えてポジティブな語彙で皮肉ることも。


物語の舞台についても差異がある。
夏川はファンタジックに舞台構成することはあまりなく、「基本的には現実世界における行動や心境を詞に用いているが、その中にフィクションのような設定が混じってくる」という印象だ。
例えばコンポジットに収録されている「トオボエ」は一匹狼が高所で遠吠えしている設定で、確かに舞台は現実世界っぽいのだが、獣が遠吠えしている様を実際に見たことがあるかと問われれば首を横に振る人が多いはずだ。映画やテレビ番組がせいぜいだろう。
現実が舞台でありながら、実際には見たことのないようなシチュエーションが入ってくる。これが夏川楽曲の絶妙なフィクション感だと思う。

斉藤はどちらかといえば現実とは違う世界=架空の世界が舞台になりがちな印象がある。
明らかにフィクションの世界と捉えられる曲もあれば(ex.ポストアポカリプス的な終末世界、天使と精霊が登場する御伽噺のような世界、コンピュータ内の電脳世界)、現実が舞台だが現実味のない設定の曲もある(ex.吸血鬼が人間をナンパ、酔っぱらったまま幽霊とデート、停電した夜に隕石が墜落して世界が終わる)など、フィクションと捉える方がしっくり来る楽曲が多い。


更に言葉への拘りも見ていく。両名とも小説やエッセイなどの執筆でその文才を発揮しており、声優=日本語のプロフェッショナルとして培った技術も応用されていることだろう。
夏川はまず、韻をはじめとする言葉遊びが非常に面白い。同じフレーズの中で続けざまに韻を踏むこともあれば、1番と2番の同じメロディで同じ音を置くという手法も取る。
歌詞の内容として明確に意味を持つ韻もあれば、文脈を踏まえてわざと意味の薄い韻を置いてくるなど、その活用方法も多岐に渡っており、彼女のセンスの良さが感じられる。

ジョウゲン?カゲン?
いい加減 ベタすぎなギダイ
決め切らないなら
キタイがジジョウなんじゃない?
(チアミーチアユー / 2番Bメロ)

このフレーズ、3回連続の「ゲン」で韻を踏みまくった上、「ジョウゲン・カゲン(上弦・下弦)」と「ジジョウ(二乗)」が数学用語で掛かっている。
しかもこの「ジジョウ(二乗)」という単語、1番のBメロでは「ジジョウ(事情)」の文脈で使われており、同一メロディでの押韻という観点でも綺麗に掛かっているのだ。

ああ、子供のまんま 大きくなれたなら
単純なけいさんで 答えが出せたかな
大人が今 小さくなったなら
だんじょんも最短で 抜け出してしまうかな
(グルグルオブラート / 共通サビ)

この歌詞も天才的。「単純なけいさん」と「だんじょんも最短」で韻を踏みながら、子供と大人の置かれる環境の対比まで表現してみせている。

加えてダブルミーニングについても触れておく。
同一の言葉やフレーズが複数の意味を持つという現象だが、彼女はこの手法も好いている。
例えば夏川屈指のキラーチューン「ステテクレバー」だと、タイトルが「捨ててClever」と「捨ててくればぁ?」のダブルミーニングになっている。

Ep01のリード曲「ワルモノウィル」では同じフレーズでもスペースの位置を変えることで複数の意を持たせるという手法を取っており、1サビ/2サビでは「答えて もうわるい子なの?」という表記で「もう=既に(already)」と読ませるが、ラスサビでは「答えてもう わるい子なの?」というようにスペースの位置を変え、「答えても=仮に私が答えたとしても(even if I respond)」の意に置き換えている。

更に彼女の歌詞には度々強烈なパワーワードが登場する。(それもまた皮肉であることが多い。)
先述のステテクレバーでは「映えりゃ 自虐的だっていい? ほら集団セルフィー」というインスタ映えを全力で皮肉ったフレーズが登場する。「ばえりゃ」の強烈な濁音に、「自虐的」という当たりの強い言葉を添え、最後に「キラキラ系アピールの複数人自撮り」を「集団セルフィー」というキャッチーな言葉で置き換えて加える― これは圧が強すぎないか?
4thシングルのc/w曲「RUNNY NOSE」に至っては曲名の意味が「鼻水」なのだから、メインストリームのやり口ではない。MVもそういう感じ。

斉藤の方を見ていくと、夏川と同様に―いやそれ以上に韻を踏む回数が多く、加えて高い教養に裏打ちされたハイセンスな言葉選びが独自性を持たせている。
幼少期より様々な書籍・小説に触れてきた彼の知識から繰り出される語彙は幅広く、神話や創作物に登場する外国語、日本文学の影響を受けたのであろうニッチな日本語などが頻繁に登場。
時にはこれらを用いて韻を踏むなど、そのセンスを存分に発揮している。

ひび割れているアスファルト
まるでそうアースガルド
(memento / 1番Bメロ)
※アースガルド……北欧神話に登場する王国
イーアルサンスー 囚われてたって
一切 反芻 できるわけないって
(Paper Tigers / 2番Aメロ)
※イーアルサンスー……中国語の1,2,3,4
すかんぴんならオルヴォワール
まるで見ちゃいらんないわフィルムノワール
誰かが呼ぶファム・ファタール
カタルシスならもう騙るに死す
(林檎 / ラップパート)
※オルヴォワール……フランス語におけるさようならの挨拶
※フィルムノワール……1940年代~50年代後半にハリウッドで盛んに作られた犯罪映画のジャンル
※ファム・ファタール……男を破滅させる魔性の女

更に彼の歌詞では、ダブルミーニングと近い技法として、リスナーをミスリードする箇所が度々現れる。
歌詞を見ずに聴いて想像した単語と、歌詞カードに載っている単語が違う、という現象を意図的に引き起こしていて、普通に聴いているだけではとても気付けない。

正解の果てまでノンストップで飛ばしていこう
(memento / 1番Aメロ)
※実際の発音では2文字目の「い」が曖昧になっていて「世界の果て」に聴こえる。
すこし永めに眠るだけさ
(エピローグ / 1番Aメロ)
※一般的には「長め」と聴こえる言葉に対して、「永め」という普段使いしない言葉を当てている。
最後の花火が 冬の空に
堕ちてゆくよ
(最後の花火 / 共通サビ)
※花火であれば「落ちる」はずだが、実際は「堕ちる」という動詞を用いている。


さて、両名の歌詞からその独自性を論じてきたが、これがどうやってオルタナ性に繋がるのかという話をする。
私が思うに、「リスナーに歌詞を読ませる」「その歌詞の内容を咀嚼させる=読解体験を与える」ことにある。

メインストリームの歌曲はメッセージ性を重視するため、歌詞を読まずとも内容が伝わる。つまりリスナー側からすると、単に曲を聴くだけで共感したり心を満たしたりできるわけだ。

対して両名の詞には「歌詞を読むことで初めて意味を正しく理解できる(ただ聴くだけではわからない)」「歌詞を読んだ上で更に考えを巡らせる必要がある」という節が少なからず存在する。
その状態を作り出しているのが、他ならないここまで分析してきた両名の作詞手法である。

夏川の場合は前述の作詞手法によって、リスナーに歌詞を読ませるように誘導している。
曲中で何かしらのフックを作って歌詞を読むように仕向けたり、既にその経験があるリスナーに対しては「読まないと分からない仕掛け」を用意することで長いスパンで歌詞への注目を持たせている。

歌詞への誘導方法の例
アイロニカルな表現(ex.可愛い曲に皮肉めいた詞→違和感が生まれる)
パワーワードの配置(強烈で耳に残る言葉→本当にそう言ってるの!?)
早口になるメロディ(早口で言葉が聴き取りづらい→なんて言ってるの?)
⇒何かしら引っ掛かる要素を用意して歌詞への興味を引く
読まないと分からない仕掛けの例
ダブルミーニング(先述したスペースの配置で意味を置き換える手法も)
物語性や世界観の提示(しっかり読むことで起承転結や背景が読み取れる)
細かい韻の踏み方(韻の連鎖や言葉同士のリンク)
⇒「これまでの夏川曲は歌詞に仕掛けがあったから、今回もきっとあるだろう」と思わせて読ませる

実際、彼女自身も本作コンポジットの制作秘話として、上の内容に近い発言をしている。

――作詞家としてどういうマインドで言葉を載せたり、文字の載せ方を整えたりしてるんですか?

(前略)ファンの人の中でもどこまで深く掘ってくれるかって人によって違って、浅く聴いた人にも刺さってほしいし、深掘りしてくれる人にはより深く刺さってほしいなっていう気持ちがすごく強くて。
リズムが死なないようにっていうのも意識しつつ、読み込んだ時に「おお!」ってなってもらえたり、歌詞カードを見て初めて気付けることがあったりとか、深掘ってくれた人におまけ的な体験があってほしいと思って作ってます。
2022/2/18開催 「アニソン派!vol.6」『夏川椎菜とは何者なのか特集』より

斉藤の場合は夏川モデルで登場した手法の他に、「リスナーに歌詞を読んで考察させる」という面が非常に大きい。
むしろこの考察させるという部分が彼の音楽におけるアイデンティティの一つと思っている。

彼の詞には抽象的な表現や裏の意味を持つフレーズが多数登場するため、一聴/一読してストーリーを理解することは難しい。
というか、そもそも本人が物語の詳細を提示しない=リスナーには彼の想定した正解の展開が分からないから、「理解」ではなく「自分なりの解釈を探ること」が求められる。
この行為はまさに考察だ。考察するには歌詞を読むことが必須となる。

そして考察には言語力と想像力という2つの要素が求められる。つまりハードルが高い。

言語力……日本語の読解力、外国語や故事・慣用句の知識、文学作品や映画などから引用されたフレーズの深掘りなど
想像力……言葉やフレーズからどんな情景を思い描くか、思い描いた複数の情景をどのように繋ぐかなど

楽曲の楽しみ方として考察・解釈といった深掘り要素が大きいのは実にオルタナティブ。(メインストリームの客層は音楽に深掘りを求めていない。)

そして、今作my beautiful valentineのインタビューでもその手法を貫き通していると語っている。

──斉藤さんの歌詞には比喩や暗喩が使われることが多い印象があります。だからこそ文学的な印象が強いんだと思うんですけど。

これまで書いてきた曲はわりと比喩を使ってイメージのすり替えをすることが多かったですからね。それによって明確な正解が見えないように、いろんな受け取り方をしていただけるようにしていたというか。
(中略)
とはいえ、あいかわらず書きたいことを2回くらい捻じ曲げて書いている部分も多いですからね。1曲の中に比喩を駆使したところと、わりとシンプルに書いている部分が混在している場合もあったりするし。

──1曲の中で違った書き方が混在しているとなると、聴き手はより煙に巻かれる感じがありますよね(笑)。それが斉藤さんの曲の面白さではあるんですけど。

あー、うれしいですね。受け手としてエンタメに触れるとき、僕は煙に巻かれたいタイプなんですよ。映画なり小説なり音楽なりを受け取って、自分の中に生まれてくる感情っていうのは自分にしか感じ得ないものとして自由であっていいわけじゃないですか。
その感覚が大好きなので、僕の音楽からもそういった部分を感じてもらえたらいいなって思います。もしよければ思う存分、煙に巻かれてくださいっていう(笑)。
ちなみに僕の楽曲を聴いてくださる方はいろんな考察をしてくださるのでうれしいんですけど、ひとつだけ言っておくとするならば、「僕は元気ですよ」ってことですね。
斉藤壮馬が誘うダークな世界。声優としての表現力で引き込む、短編映画のような作品たちの手応え - THE FIRST TIMES

最後に③楽曲面だが……えっ、歌詞面への言及が長すぎる?仰る通りです本当にすいませんでした……この部分は手短に済ませます……

楽曲面の特徴を簡潔にまとめると、「主軸となるロックサウンドがありつつ、そこから近しいジャンルに派生している」となる。
要するに「ポップスとは一線を画す基本ジャンルがある」「しかし他ジャンルも取り込むのでマンネリにならない」ということだ。

夏川の場合、近年はロックが主軸になっており、バンドサウンドを前面に押し出しながらキャッチーさも併せ持つ楽曲が基礎にある。
ひとくちにロックと言っても種類は様々で、ノリの良いポップロック、トリッキーなシンセロック、攻撃的なボカロックにラウドロック、あるいはロックバラードやパンクロックまで手広く。
そしてロック以外にも手を伸ばしており、今作コンポジットでも、打ち込み主体でフロア志向な四つ打ちディスコナンバーやヒップホップを土台にしたミドル系パーティーポップなどを収録している。

斉藤楽曲はまさしくオルタナティブ・ロックと呼称される音楽ジャンルにある。商業ロックやポピュラーなロックとは一線を画するアングラ的なロック音楽だ。
キャッチー成分は必ず残しながらも、曲調やアレンジといった点で、時には一般的な楽式(Aメロ-Bメロ-サビの繰り返し)から懸け離れた構成にするという点で中心にオルタナ性が来る。
加えて、オルタナティブ・ロックに近しいインディー・ロックだったり、アングラという観点で親和性のあるシューゲイザーやダークポップなどのお陰で大味にならない。
(ちなみに直近の作品はiTunes Storeでオルタナティブに分類されており、2020年の配信シングル「エピローグ」「ペトリコール」はオルタナティブジャンルでセールスランキング1位を記録したという逸話も。)

この辺りの楽曲面もセルフプロデュースの中で本人が舵を取っているのだから、両名のオルタナシンガーとしての芯と強さが見えてくる。


5.楽曲から紐解くオルタナティブ性(例示編)

ここからは各々の新譜の中から具体例を挙げて、今までに見てきたオルタナ性がどのように表現されているかを紐解いていく。
まず1個目の例として、「アイロニカルな表現」に焦点を当てた楽曲を取り上げたい。

○烏合讃歌 / 夏川椎菜(アルバム「コンポジット」収録曲)
作詞:夏川椎菜 作曲・編曲:HAMA-kgn
歌詞ページはこちら 烏合讃歌 / 夏川椎菜 - 歌ネット

アルバム2曲目に置かれたアップテンポな四つ打ちダンスロックで、ヒヨコ群(夏川ファンの呼称)にとっては決起的で起爆剤になる楽曲だ。
大まかな内容としては「クソな世間に歯向かってみたいけど、我々弱いから烏合になって突撃しよーぜ」という感じで、単体だった弱者が集まって群れになることで反旗を翻す過程が描かれている。

確かに一体感や共感にフォーカスしている面もあるが、その中でもアイロニカルな表現やパワーワードが連発され、共感に止まらないめくるめく感情の渦へとリスナーを巻き込んでくる。
歌詞に登場する世間のクソ要素は色々あるが、1B/2Bの「謳うだけの勇者サマ」「アナログ好きの賢者サマ」という部分が特に印象に残った。
勇者サマと賢者サマで1番/2番を跨いで同じ音を当てているという言葉遊びもさることながら、勇者・賢者という好印象の言葉に、謳うだけ・アナログ好きという悪印象の形容句を組み合わせるこのインパクト。
しかもその具体例はリスナーが自由に解釈できるから想像も掻き立てられる。SNSで格好良さそうな発言をしておいて中身のない奴とか、業務システムの一元化を面倒臭がる役員だとか。

パワーワードもかなり多いが、2Aの「「前はこれでうまくいってた」って それじゃ まるで信者のよう」なんかはその最たるものだろう。
ネットスラング的な用法で信者というワードを用いるのは、二次元業界=サブカルチャーにいる彼女にとっては、潜在客層をディスってしまう危険がある。
それを容赦なくぶっ込む上に、「信者のよう」の部分で楽器音を消して、声だけが聴こえるアレンジを施して強調している。どう考えてもメインストリームの手口ではない。

それにしても、この曲のどこが最もアイロニカルかと言われれば、「世間に苛立つ気持ちに共感してくれるけど、実際に歯向かうことはできないから曲を聴いて溜飲を下げるだけ」というオチ。
根本的な解決にならない、結局現実は変えられないのがメインストリームから取り残されたオルタナリスナーっぽくて面白いと思うのだが、どうだろう。

○ラプソディ・インフェルノ / 斉藤壮馬(EP「my beautiful valentine」収録曲)
作詞・作曲:斉藤壮馬 編曲:Saku
歌詞ページはこちら ラプソディ・インフェルノ / 斉藤壮馬 - 歌ネット

今作のオープニングを飾る陽気なジャズナンバーで、ホーンセクションがふんだんに用いられたビッグバンド風味の編曲に、カズーや手拍子が加わってますます華やか。
しかし、そんな楽曲とは対照的に歌詞は暗い。つまりアイロニカル。(そもそもEPタイトルがbeautiful valentineと言っているのに明るい曲がない。)

曲名で舞台がインフェルノ(地獄)だと述べており、曲の登場人物たちは死の寸前であることが伺える。
そして全てのサビで「堕ちていく 笑い浮かべ 燃えさかる緑の星の上」と繰り返しており、地獄の業火に焼かれる地球の上で人々が笑い踊っているというシチュエーションが想像できる。
もうすぐ来る死を受け入れてただ踊っているだけ……これだけでも異常な雰囲気が漂っているが、読み進めると更に恐ろしい世界が見えてくるはずだ。

言葉遊びの面から見ると、韻の踏み方は勿論のこと、多種多様な日本語と外国語が不自然に混じり合っているのが非常に面白い。
これだけ数があれば、知らないor知ってるけど意味はわからない言葉が引っ掛かって歌詞を読みたくなるだろうし、楽曲の異様な雰囲気を醸し出す一因にもなっている。

・外国語
ラプソディ、ブルーノート……音楽用語
タナトス、ゲヘナ……神話や聖書にまつわる名詞
コラプス、サクリファイス……比較的マイナーな英単語
・日本語
もののあはれ、踊らにゃ損々……日本の伝統文化や理念によるフレーズ
百鬼夜行、隻手音声……説話や宗教に関連する古くからの熟語

続けて2個目の例として「物語性」が感じられる楽曲を取り上げたい。

ボクはゾンビ / 夏川椎菜(アルバム「コンポジット」収録曲)
作詞:夏川椎菜 作曲・編曲:山崎真吾
歌詞ページはこちら ボクはゾンビ / 夏川椎菜 - 歌ネット

8bit風味のシンセサイザーとキーボードが印象に残るマイナーロックなのだが、曲名で既に中身が気になるタイプの楽曲。
ここでは「ゾンビのように無為で堕落的な人生を送っている人間」をゾンビに例え、それを主人公として歌詞が進んでいく。主人公が自身をゾンビに例えているという時点で既に皮肉。(自虐は一種の皮肉ともいえる。)

とはいえ主人公の行動が明確に示されているわけではなく、詞の内省表現を読み解くことでストーリーが浮かび上がってくる。
例えば感情にまつわる歌詞から心境を読み取ってみると、

1番Aメロ
過ぎたことばかり
思い出して キツくなったって
なんも得になんないね
多分、トークも弾まないよね
⇒過去のマイナスな感情を内に抱えてネガティブな心境

2番Aメロ
待っていたとばかり
溜めた文句を 顔に出したって
コントロール効かないね
それは、ロックじゃ片付かないよね
⇒過去のマイナスな感情を外に出すが解消されない

Dメロ(ブリッジ)
何を 抱きしめたって
誰が 寄り添ったって
嫌んなんだな
こんなボクが
⇒結局マイナスな感情の行き場を失う

ラスサビ
とすれば、こんなんも 嫌いじゃないな
⇒マイナスな感情を抱えたままでもいいと思えるようになる

このように主人公の心境変化が読み取れるのだが、ただ曲を聴くだけでここまで解釈するのは難しいだろう。深掘りした人だけが楽しめる読解体験だ。
他にも同一ワードに対する読みの当て方にも仕掛けがあるが、ここはぜひ自分で読んでほしい。

そして、歌詞に興味を持ってもらうためのパワーワードも仕込まれている。
全てのサビに共通する「生きてるうちから ゾンビだ」― これはパワーワードすぎる。まだ死んでないのにゾンビとはこれいかに。
自虐≒皮肉の要素もありつつ、そもそもゾンビという単語が強烈な圧を放っている。生きてるうちからゾンビ……パワーワードすぎる……


幻日 / 斉藤壮馬(EP「my beautiful valentine」リード曲)
作詞・作曲:斉藤壮馬 編曲:Saku
歌詞ページはこちら 幻日 / 斉藤壮馬 - 歌ネット

今作のリード曲で、盤の中ではかなりポップスに寄った親しみやすいミドルナンバー。楽式は一般的なA-C-A-C-D-C(Bメロはないが)。
楽曲面では突飛な要素が少ないことも相まって、歌詞もしっかり耳に入ってくるのだが、やはり歌詞を読むことで深い考察ができそうだ。

歌詞を読み進めると、Aメロは情景表現中心なのに対して、サビやDメロでは主人公の心境の占める割合が高い。
こういった対比が地の文と台詞のようで小説的。これもまた音楽で物語を紡ぐ彼の姿勢を反映しているのかもしれない。

この曲を聴いてまず印象に残るのは、1番Bメロの「埋め捨てられたむくろ 100年経ったならば おいで」ではないだろうか。
「むくろ」という重い単語に、「100年」というスケールの大きい期間が加わってリスナーの耳に残りやすい=歌詞読解へ誘導するポイントとなる。
そしてこのフレーズによって、リスナーは「この曲は恐らく悲劇に類する物語であり、主人公は遥か昔に死んでしまった誰かを現世へ招こうとしている」と推察するだろう。

ただし、ここまでの前提は分かりやすいのだが、歌詞全体では読み手次第で自由に解釈できるように明確な描写が避けられている。
その先はリスナーの読解力・想像力に委ねられるが、随所に所与の知識や教養からヒントを得られる仕掛けが隠れているのが面白い。
例えば2サビには「桜の下には なにが眠るだろう」というフレーズがあり、多少の知識があれば梶井基次郎の『櫻の樹の下には』の引用だと推測できる。(つまり埋まっているのは……)
2番Aメロの「迷い家」も前世紀からの伝承。(訪れた者に富貴を授ける幻の家だが、この曲における富貴が何なのかはリスナーの解釈に委ねられる。)

最後に楽曲面から付け加えると、比較的単調なアレンジだったのが、Dメロのみアレンジが変わって華やかな音像になる。こういった突然の変化はオルタナ的と言えそうだ。むしろプログレかもしれない。
この変化にも歌詞とリンクする要素があるのでは?とすれば更に考察が深まりそうだ。


6.本稿を振り返って

かなり長い文章になってしまったが、両名のオルタナティブな精神性と音楽性が伝わっただろうか。概説のみならず、具体例で私自身の解釈を加えていくことで何かしら面白いと思ってもらえたなら嬉しい。
そして、実際にその曲たちをサブスクで聴いたりCDで買ったりすることがあれば更に嬉しい。(片方のファンならもう一方の音楽も好きになるのでは、と思っているのだが果たして。少なくとも私は二人とも好き。)

そういえば昨年末にこんなツイートをした。mbvの発売告知時。

当時は衝動的に書いた内容だが、今読み返してみると本稿で論じたオルタナ性が共通点としてあって、そこに惹かれていたのだと思う。
メインストリームはある程度出てくる曲の傾向が読めてしまう。勿論それはそれで安心感があって好きだし、実際私はそういった歌手も好きだ。

そしてオルタナシンガーの楽曲には未知の楽しみや興奮が詰まっている。
次はどんな曲が来るのだろう、どんな物語が紡がれるのだろう、あるいは好みに合わない曲だったらどうしよう― という不安まで。
だがそれがいい。絶えることなく面白い音楽を聴かせてくれるからこそ楽しい、そして応援したい。

今後の活動がどのように展開されるかは分からないが、とにかく二人の音楽がとても好きなのは間違いない。
……というわけで、次のライブと新曲楽しみに待ってます!!!早く告知してください!!!