夏川椎菜「ハレノバテイクオーバー」考察 ―失われた晴れを求めて

○考察にあたって
さてこの文章は2022年1月11日に先行配信がスタートした夏川椎菜さん「ハレノバテイクオーバー」の考察もどきである。
配信開始及びMV試聴公開から多くのヒヨコ群が思い思いに楽曲の感想をSNS上に投稿しているのだが、その中でも歌詞やタイトルに関する考察が多く見られる。
かくいう私も歌詞に込められたメッセージを紐解いていく行為に喜びを見出すタイプなので、moraで購入した音源をリピートしながら少なからず考えを纏めていた。(←ミュージックレインと同じソニー系列が運営しているmoraで購入したと公言することで貢ぎ具合をアピールする露骨な好感度上げ文)

そこで本稿では私の考えたハレノバ考察を文章にしていくのだが、今回は多くのヒヨコ群が言及している考察・解釈とは違う角度で書いてみたい。
というのも、タイトルの「ハレノバ」というのは「宇宙の晴れ上がり」と「nova(新星)」を掛け合わせた造語という解釈が正解らしい。
ツイッターで色々と検索してもらうと分かるのだが、これに言及しているヒヨコ群はかなりの人数がいるし、実際のところ私もそれが正しいと思う。

だがしかし、折角考えた解釈をゴミ箱に捨てるのは勿体ないし、恐らく黄色い厄介さんもファンの考察を寛容に見てくれる人だろう。(むしろそれを眺めてニヤついてる可能性すらある。)
ヒヨコ歴約2年半、ナンスと同い年である事以外にイキる要素が存在しないクソザコナメクジだが、ここはひとつ気合を入れて書いてみたい。

○タイトルについて
このタイトルは意味の面から半分に分けられる。「ハレノバ」と「テイクオーバー」。
ノバとオーバーで韻を踏んでいるのがキャッチー。
日本語+英語をカタカナで表記する曲名というのも実に夏川イズム。
例)ワルモノウィル、ステテクレバー、クラクトリトルプライド、キミトグライド

ハレノバ…
先述のヒヨコ群考察の通り、「宇宙の晴れ上がり」と「nova(新星)」を掛け合わせた造語。
しかし今回はそれとは別の視点で、非日常を意味する「ハレ」と天気の「晴れ」のダブルミーニングとして見ていきたい。

「ハレ」と「ケ」……
はいここが主張ポイント。日本民俗学の研究者であった柳田國男によって提唱された日本人の伝統的な価値観である。詳しくはWikiへ。
ハレは儀礼、祭や年中行事などの非日常、ケは前者に該当しない日常を表している。ちなみにハレの語源は天気の「晴れ」。
若い世代ほど聞き馴染みがなさそうだが、現在でもよく使う「晴れ舞台」なんかはこの「ハレ」から来ている。

テイクオーバー…
(英)take over ~を持っていく、連れていく
歌詞の先取りになるが、サビ終わりの「君を連れていく」という部分でタイトル回収している。

ところでテイクオーバーと似たようなものにオーバーテイクという英語があり、これはステテクレバーのサビで使われている。(「別のルートでover take」)(英)overtake 追い抜く
作詞・作曲のユニゾン田淵は夏川のファーストアルバム・ログラインを名盤と絶賛しており、ステクレから引用した可能性もありそうだ。

余談だが、overという単語には「~を越えていく」という印象がある。
確かに「take over=連れていく」「overtake=追い抜く」のいずれも、「既に存在する何かの先へ向かう」というイメージが共通している。

以上の内容を前提として、実際に歌詞の内容を考察していく。

○歌詞考察その1 「ハレの場」から考える現代社会

前提の中で非日常を意味する「ハレ」を提示したが、これを適用するとハレノバ=ハレの場となり、非日常の場所や空間を指すことになる。
ハレとケの世界観において、ハレに該当するのは「儀礼、祭や年中行事」と説明したが、現代で言うなれば下記のようなイベントが該当するだろう。
儀礼=卒業式や成人式、結婚式、還暦
祭=町のお祭り、文化祭
年中行事=七五三、ひな祭り、端午の節句

上記の例では私がパッと思いついたものを挙げてみたのだが、全体的に儀式的・伝統的な出来事が多く見られる。
そしてそれらは儀式的であるが故に、世間から特定の態度や感情を要求されがち(強制されがち)である。
これまでの人生でこんな経験はないだろうか?

・卒業式で「卒業生の言葉」とかいう事前に用意されたお涙頂戴の文章を大声で言わされた
・成人式ですっげえチャラそうな茶髪の人が神妙な顔で「成人の誓い」とやらを述べていた

そして儀式の中で求められる感情は大体決まっていて、我々にはその感情に則った振る舞いが必要とされる。
なぜなら大抵の場合、このイベントを行うのは私的な空間ではなく公的な空間であるから。(公的空間では必ず他者・世間の目が向けられる。)

・卒業式なら卒業生も在校生も感動するもの
・成人式なら大人としての自覚をもって心持ちを改めなければならない

所謂TPOの観点からすると、上記のような世間から求められる態度や感情を「遵守する」ことがマナーなのだが、逆に言えば個人の意思と関係なく定められた感情を「強要される」わけだ。
つまりハレの場=儀式的な出来事において、人は自身の感情・本心を偽ったり閉じ込めたりすることもあると言える。

掲げた拳にちゃんと意志はあるか?

ハレノバを最初に聴いた時、何よりも印象に残ったのが次のフレーズだった。

令和の世知辛い時代を生きている皆さんは、公的な場において自身の感情を偽ったり閉じ込めたりしていないだろうか?
現代人にとって公的な場といえば職場や学校。上司や同僚の機嫌を損ねないように上手く振舞ったり、友人の輪から外されたくないので思ってもいないような発言に同意したり―

なんともよくある話だし、まあ上手く生きていくためには必要なことだし、言ってしまえば令和平成に限らずとっくの昔からあったはず。
しかしながら、スマホ全盛にして20代以下=デジタルネイティブ世代になってきた現代では、会社・学校のような公的な空間のみならず、インターネットが繋がった私的な空間でも同じ現象が起きる。
SNSの既読無視はまずいので早めに返信、話を合わせるために同じ映画や番組を見る、休みの日でも上司からスマホに仕事の連絡が来る……もうこの時点で世知辛さが限界突破してて辛い……
(文章や例示の端々から私の社会不適合感が漂ってくることに気付いた人は多分同類。クソザコナメクジ仲間ですよろしくね!)

リアルの公的空間とそこから拡張されたバーチャルの公的空間において、人は少なからず本心と異なる言動を求められ、実際にそれを行っている。
「その行動=拳を掲げること」に「ちゃんと意志はあるか?=自分の感情を偽っていないか?」
―ハレノバを最初に聴いた時、そう問われたように感じた。

偽ったり閉じ込めたりすることがマナー的に最善である場面が多いことは否定しないが、私たちは本当にそのままでいいのだろうか?
せめて自分が譲れないと思った物事に関しては、自分の感情=本心を貫き通してもいいのではないだろうか?

要するに、「ハレノバ(ハレの場=公的空間=感情を偽る・閉じ込めることを求められる場面)をオーバーテイクしていく(越えていくことで自分の感情をちゃんと持つ)」ことが曲のメッセージの一つではないかと思う。
冒頭で述べた晴れnova解釈=「晴れノヴァへテイクオーバーする(宇宙の始まりのような喜びに満ちた世界へ君を連れていく)」とも十分に繋がるだろう。
無理やり因果関係を作るなら、「私たちが自身の確固たる意志を持つことで(ハレの場解釈)」→「喜びに満ちた世界へ連れていこう(晴れnova解釈)」と宣言する夏川に付いていくことが出来る……とか。

一行のフレーズから随分と大仰な解釈をしてしまったが、2番Aメロの歌詞を読んでみると、あながち間違いでもないのかな?と思ったり。

凡庸な褒めそやかし合いがニュートラルなのか?
安直なカリスマ礼賛がユートピアなのか?

ごめんそれじゃ嫌だよ 第一希望が良い
ようこそ、僕のテリトリー

前半2行は周囲に同調することで安寧を得るような行動だろう。
凡庸な褒め合いやカリスマ礼賛、いずれにも対象への否定的な感情はない。
そこに「嫌だよ」と反対意見を叩き付けて、「第一希望が良い」と主張する主人公―まさしく意志に満ちた発言である。
「僕のテリトリー」もテリトリー(領域)という空間を指す単語を用いており、公的空間と対になるように構成されている。

○歌詞考察その2 感情を喜怒哀楽に分けるのはナンセンス
ここまでの考察で人の感情をテーマにしてきたが、「感情」という言葉を用いた歌詞が1番Aメロにある。
実はこのフレーズも初聴時から強く印象に残っていた。

複雑すぎる世界のはずなのに
感情を4つに分けろって雑が過ぎないか?

……すっかり言い忘れていたが、夏川は直近のシングル2枚で「怒」と「楽」の感情を主題としており、本作が収録されるセカンドアルバム「コンポジット」にも喜怒哀楽のエッセンスが引き継がれているようだ。

えー、こほん。
「ハレの場において、人は世間から求められる感情を強制される」と主張した中で、具体例として特定の一種類の感情を挙げた。
しかし、人は一つの事象に対して複数の感情を同時に抱くこともある

卒業式…卒業の喜び、次のステップへの期待と不安、友達と離れる悲しみ
家族が交通事故で怪我をした…命に別状はないという安心、身内が苦しんでいるという悲しみ、加害者への怒り

人の感情はこんなにも複雑なのに、「4つに分けろって雑が過ぎないか?」
このフレーズもまた、ハレの場における感情の強要に対して反旗を翻す主張である。確かにそういった場で求められる感情は喜怒哀楽のいずれか一種類に属するものだ。

しかし、様々に絡み合った複雑な感情を喜怒哀楽の一種類だけに分類することは感情の強要に他ならない。
ここから読み取れるメッセージは「抱いた感情を分類せずに複雑なまま表現してもいいじゃないか!」という主張である。
ちなみに感情の複合という概念は、アルバムタイトルのコンポジットとも繋がる。(英)composite[形] 合成の、複合の

○歌詞考察その3 「意志ある拳」を掲げるための壁―時間と覚悟
2つの歌詞考察を通じて、「自身の感情を強く持つこと」と「それを複雑なまま表現すること」というメッセージを読み取って来た。
ここまで分かったのなら後は実行に移すだけ―と思いきや事はそう簡単に進まない。これを達成するには2つの壁があることが歌詞から読み取れる。

まず一つ目の壁は時間
感情や考えが喜怒哀楽を初めとする様々な要素を合成したものであるならば、それを表現する(誰かに伝える)には自分の中でそれらを整理する時間が必要だ。
この要素を1番Aメロ~Bメロの歌詞で見ていこう。

どうしようか?七転び八起きってのも飽きちゃった
もういっそ さながらシームレスに汚れてみようか
デコボコすぎロードマップ じゃあ作戦を立てよう
ようこそ、僕のアイデア
※七転び八起き=何度失敗しても、あきらめずに努力すること
※シームレス=途切れのない、繋ぎ目のない、縫い目のない

この歌詞の主人公は感情の出力にあたって、「何度も失敗」しながら時間を掛けて努力していた。
そんな主人公は途中から「シームレスに(複雑な感情を無理に分類せずに)」表現する手法を取り始める。
その道筋はデコボコしていて平易なものではないが、「作戦」や「アイデア」によって先へ進んでいく。

余談だが、ハレとケの世界観において汚れはマイナス要素とされる。そういう意味で、汚れてみることはハレの場に対するカウンターとも言える。

複雑すぎる世界のはずなのに
感情を4つに分けろって雑が過ぎないか?
まあ怒っても無駄 哀しみも最小がいい
楽しいはずっと探してる

この部分は先述の通り。怒・哀・楽の要素が主人公の中に存在している。(喜はサビで登場する。)

どこにある? どこにある? 僕が思い描く筋書きの出口
まだ足りない まだ足りないよ
当たり前だ 時間をかけなくちゃ届きやしない運命だろ!

筋書きの出口(自身の感情を表現するためのゴール)を探す主人公。
しかしそこに至るまでにはまだ考えが足りないらしい。
当然ながら考えるという行為には時間が掛かるのだ。

少し補足すると、筋書きはプロット(=小説などの物語の大まかな流れ)とほぼ同義であるから、主人公が描こうとしているのは単純な感情ではなく、小説・漫画などの物語かもしれない。
夏川本人は小説家でもあるから、筋書きをある程度作って執筆作業をしているだろうし、ファーストプロットという自身の半生を描いた自伝的な楽曲の作詞もしている。
筋書きという言葉が使われたのはある意味必然だったのかもしれない。
このように1番ではかなりの文字数で「時間」という壁に言及している。

そして2つ目の壁が覚悟
感情=本心を公的空間で主張することは、少なからず周囲との衝突を生じさせるリスクがある。
「日本人は和を乱す行為を嫌う」という論説はよく耳にするが、まさに主張することは和を乱しかねない行為である。

ゆえに主張には本人の覚悟を伴う
先程から繰り返し述べているように、主張を行う際はTPOを弁えた上で、周囲の人々と軋轢を生じさせないように根回しなり補足なりを行うだろうが、それでもなお衝突は生じかねない。
具体的に言うなれば、仲間外れにされるだとか同僚や上司に付き合いが悪いヤツ扱いされるだとか。かなりミクロな例だがそういったリスクを背負わざるを得ない。
2サビ終わりの歌詞は、この覚悟が必要であることを警告している。

掲げた拳を後悔なんかはさせない!
けど 君にも覚悟をして欲しいんだ
最前線はいつだってここだ 僕らに革命を!
※最前線=フロンティアはリスキーな場所
※革命は社会の構図をひっくり返すほどの超一大事

だが、時にはそれが大事な時もあるはずだ。
自分にとって譲れない場面で感情を偽ること・閉じ込めることはアイデンティティの危機である。
落ちサビのフレーズがそのメッセージを切々と伝えてくれている。

誰のものでもない人生を生きてくれ
君に言ってんだよ 聞いてんの?

……というように、意志のある拳を掲げるためには時間と覚悟―2つの壁が存在すると語っている。
そして、ただ壁を示すだけに留まらないのがなんとも彼女らしい。

飽きるまで バテるまで 考え続けて疲れりゃ寝りゃいいんだし
太陽に向かってく いいことがちゃんと待ってるから

時間が掛かるのならそれでもいい、覚悟が要るのだから相応のリターンが待っている。
こうやって私たちが壁を越えていくための後押しをしてくれているのだ。
「建てただけの壁の向こうへ 別のルートでover take」してきた夏川椎菜という人間からの全力の応援だろう。

○歌詞考察その4 失われた「晴れ」を求めて
ここまでの3つの考察で読み取って来たメッセージたちを要約すると、「自分の感情をちゃんと持って表現できれば、その先に自分らしい良い人生が待っているはず」となる。
この解釈を踏まえて、最後に抑えておきたいのが「晴れ」という言葉。サビでは晴天という語句で登場する。

「晴れ」を別の語彙で表すなら、「雲一つない青空」「清々しい空」といった「クリアで明快な雰囲気」が伴うのが一般的だろう。
この後のミュージックビデオ考察でも言及するのだが、上記のように晴れた空にはプラス・明るいイメージがある。
そしてそれを心模様に置き換えるなら「クリアで明快な感情」―つまりこの曲のメッセージでいうところの「自分の感情をちゃんと持って」いる状態と解釈出来る。

感情を偽ったり閉じ込めたりする「ハレ」に対して、自身の感情を明確に持っている「晴れ」の状態。
「ハレの場に留まってうずくまっているリスナーを晴れの場へ連れていく」
「テイクオーバーを促す先導者・夏川椎菜と、それを受けて自らの力でオーバーテイクしていくリスナー」

タイトル回収としてはかなり綺麗ではないだろうか。
ハレと晴れの対比、テイクオーバーとオーバーテイク。
蛇足かもしれないが、これまでの楽曲でも同音異義語を巧みに用いてきた作詞家としてのエッセンスなのかもしれない。

というわけで一先ずの結論が出たところで歌詞解釈は終わり。
長くて読み辛いというお叱りは重々承知。ええ、重々。

○ミュージックビデオ考察
この文章を執筆している2022年1月中旬ではミュージックビデオのショート版が公開されているので、現在見られる範囲で多少考察してみたい。
ここまでの歌詞解釈とも絡む部分があるので補足の意味も込めて。


①サビの三原色
サビ部分では青空、赤色の衣装、黄色のダンサー衣装で色の三原色を構成している。
色の三原色には減法混色(複数の色を混ぜ合わせるにつれて明度が下がる)という現象があり、これに従うと三原色の状態は最も明度が高いと言える。
ところで、日本語の表現で意志薄弱な情態や心境のことを明度の低い色で表すことがあるのは同意してもらえると思う。

例)彼の表情に覇気はなく、その心境は澱んだ灰色のようであった。
出典:筆者の即席小説っぽいフレーズ

この2つを踏まえると、明度の高い三原色は感情がクリアに表現されていることの象徴とも言える。
制作陣が意図したかは分からないが、意志を明確に持つ・自分の感情を表現するという歌詞の主題とも密接にリンクしているのだ。
(TrySailの三色という面も多少意識しているのだろうが、今回は本筋から外れてしまうので省略)

②晴天の青空

今回のMVで特に印象的だったのはサビの晴れ渡る青空。(そもそも晴れの歌だから当然なのだが。)
これまでのMVと比較すると、「夜」に「雨の中」で歌っていたパレイドやアンチテーゼとは対照的である。
一般的な言葉のイメージで言うと、晴れと昼=明るい・楽しい・プラス⇔雨と夜=暗い・悲しい・マイナスであり、正反対に位置するシチュエーションであることが伺える。

更に歌詞や演出の面から過去楽曲の天候と時間帯を掘り下げてみると、

夜…グレープフルーツムーン、ラブリルブラ
夕方~夜…ファーストプロット
夕方…キミトグライド(プロットポイントの背景映像)
昼(曇り)…キタイダイ

といった具合でいずれも晴天とは言えないものばかり。

だからこそ、今回の青空が引き立つのではないだろうか。
日頃から陰の者あるいはクソザコナメクジを自称し、パレイドに端を発する内省的な楽曲群で負の感情を昇華して来たあの夏川椎菜が、快晴の下で満面の笑みを浮かべて生き生きと表現する姿は、これまでの音楽キャリアを踏まえると最大級の威力を発揮するに違いない。
それにしても、ナンスが晴天の下でダンスね……ナンスがダンス……ふふっ

③ダンサーと夏川の対比

ダンサー4人は背負ったQRコードの読み取り内容と同じく、各々が喜怒哀楽のうちの一文字を象徴している。彼女達の目元はサングラスに遮られて見えず、その感情は目以外のパーツからわずかに読み取るしかない。
体や手足の動きからも多少は分かりそうなものだが、全体的にはカクカクとした機械的な動きに見える=一つ一つの振りの終わりでキチっと動きを止めてから次の振りへ移行している。
これは現代人の隠喩ではないだろうか?感情を抑え込んでいる、周囲に合わせることを重視するがゆえに個々の主張が薄くロボット的……

それに対して夏川本人はどうだろう。
表情は豊かで動きも滑らか、サビでも周囲のダンサー陣が機械的に動く中で彼女だけは大きく全身を揺らして生き生きと躍動している。
しかもただ単に主役だから大きく動いているわけではない。曲冒頭の難しそうな顔をしてPCを触っているシーン(デスクワークに暇がない現代人をイメージ?)から始まり、Bメロまでは屋内を移動し続ける。
それがサビ前の扉を蹴り飛ばすという大胆な行動(まさに感情の発露)をスイッチとして舞台を屋外に切り替え、先述した鮮烈な青空の下で踊り出すという対比が見事。


○考察を終えて
「感情の出力には時間という壁がある」と論じたが、まさにこの考察の執筆には相応の時間を掛けてしまった。(構想1時間、執筆6時間)
一日で書いたわけではなく数日に分けたのだが、途中だけど疲れたからもう寝る~になった日やちょっと別の歌手の曲聴きたいからナンスは後回し~みたいな日もあった。
そしてこの考察に同意してくれる人もいれば反論する人もいるだろうから、感情や考えを主張することの覚悟を持つ=リスクを負うことになる。

それでも完成まで持って行けたのは、曲を聴いて抱いた感情や考えをしっかり出力して主張することが、一端のヒヨコとしての喜びだと思えたから。
つまるところ、私にとってハレノバテイクオーバーは考察対象でありながらモチベーションでもある……という不思議なことになった。

自身の感情を確固として持つことの大切さを再確認させてくれたこの曲が、人々の心から失われてしまいそうな「晴れ」を再び見せてくれることを願って、ここで筆を置こうと思う。
じゃあ私はEp02-2のウォーミングアップをするので!ばいなーんす!