漢字の手書き習得が高度な言語能力の発達に影響を与えることを発見 -読み書き習得の生涯軌道に関するフレームワークの提唱-

日本語を母語として使いこなすために,様々な書体のひらがな・漢字,またカタカナ・アルファベットを,家庭で教育課程でどのように教え,かつ覚えていくことが必要なのでしょうか?

京都大学大学院医学研究科 大塚貞男 特定助教、村井俊哉 教授の研究グループは、読み書き能力の多面性 に着目し、複数の大学から募集した大学生の漢字の読み、書き、意味理解の能力と、基礎的な認知能力、言語 的知識の習得度、文章作成能力との関係性について解析しました。本研究に先立って、同グループは日本漢字 能力検定 漢検)の受検データベースを分析し、漢字能力が読字、書字、意味理解の 3 側面から成ることを明 らかにしており、本研究はその発見に基づいておこなわれました。解析の結果、漢字能力の 3 側面の習得には 部分的に異なる複数の認知能力が関わっていることが発見され、漢字習得に困難を抱える子どもには、習得が 難しい漢字能力の側面とその要因 苦手な認知能力)を考慮した教育ストラテジーが必要であることが示唆さ れました。それに加えて、3 側面の中で書字の習得だけが、言語的知識の習得を介して文章作成能力と関連し ていることが発見されました。本研究では、文章作成能力の指標として 意味密度」* 1を採用しています。米 国において修道女の認知能力の長期経過を分析したナン・スタディと呼ばれる一連の研究では、20 代前半に 意味密度」の得点が高かった人は老年期における 認知予備能」* 2が高く、晩年まで健全な認知能力を維持 していたことが報告されています。本研究では、そうした知見を考慮に入れて、学童期の読み書き習得 特に 手書きの習得)から老年期の認知能力維持に至る生涯軌道に関する理論的フレームワークを提唱しました。 この研究成果は、2021 年 1 月 26 日に国際学術誌 Scientific Reports にオンラインで掲載されました。なお、 同グループが実施した漢検データベース解析の研究成果は、2020 年 2 月 20 日に同誌に掲載されています。

1.背景 日本の子どもの 6~7%程度が、漢字の習得に困難を抱えていることが報告されています。そうした子ども への効果的な教育ストラテジーを開発するためには、つまずきの背景にある基礎的な認知能力の問題や、それ を補う認知能力を特定することが役立ちます。本研究に先立って、同グループは漢検の受検データベースを分 析し、漢字能力が読字、書字、意味理解の 3 側面から成ることを明らかにしました。これまでの研究で、漢字 の読字 ・書字と認知能力との関連は調べられていましたが、意味理解についてはわかっていませんでした。そ こで本研究では、漢字能力の 3 側面とその基盤にある認知能力との関係性を検討しました 目的 1)。 また、近年、スマートフォンやタブレットなどのデジタルデバイスが急速に普及し、文字を手書きする頻度 は大幅に減っています。こうした生活環境の変化は漢字の書字能力に影響を及ぼすことが予測され、上記の漢 検データベース解析において 2006 年と 2016 年の受検データを比較した結果、10 年間で成人の書字能力 の み)が低下していることが示唆されました。最近では、学校教育にもデジタルデバイスの導入が進められてお り、学童期における漢字書字の習得、さらには、成人期までに獲得される高度な言語能力への影響が懸念され ます。そこで本研究では、大学生の漢字能力の 3 側面と高度な言語能力との関係性を検討しました 目的 2)。

2.研究手法・成果 京都と大阪の複数の大学から募集した大学 院)生 30 名 平均年齢 19.87 歳、女性 15 名、男性 15 名)を 対象に研究がおこなわれました。漢字の読字、書字、意味理解の能力は、漢検の 2016 年の検定問題を用いて 測定しました。基礎的な認知能力については、音韻処理* 3、呼称速度* 4、視空間処理* 5、統語処理* 6 の 4 つを 心理検査を用いて測定し、高度な言語能力については、言語的知識の習得度と文章作成能力の 2 つを測定しま した。言語的知識の習得度は、ウェクスラー式成人知能検査の語彙力、一般教養、算数能力を測る検査項目を 用いて得点化しました。文章作成能力は、対象者がパソコンを使って書いた 日々の生活」に関する作文を分 析し、 意味密度」* 1という指標を用いて書かれた文章の言語的な複雑さを得点化しました。 統計解析の結果、目的 1 については、漢字の読み、書き、意味理解のそれぞれの習得に部分的に異なる複数 の認知能力が関わっていることが発見されました 図 1)。つまり、音韻処理が 3 側面の習得に共通して関わ 図 1.漢字能力の 3 側面と基礎的な認知能力、言語的知識の習得度との関係性 *直線に付いている数字は標準偏回帰係数、曲線に付いている数値は相関係数です。数値が大きいほど関連 が強いことを意味します。直線矢印は左が右を説明する関係、曲線矢印は相関関係を示しています。 る一方で、他の 3 つの認知能力は、読字には呼称速度と統語処理、書字には視空間処理、意味理解には統語処 理といった形で側面特異的に関わっていることがわかりました。この研究成果は、漢字習得に困難を抱える子 どもたちに同じ指導方法を適用することは効果的とは言えず、習得が難しい漢字能力の側面とその要因 苦手 な認知能力)を考慮した教育ストラテジーが必要であることを示唆しています。 さらに、目的 2 については、漢字能力の 3 側面の中で書字能力だけが、言語的知識の習得を介して文章作成 能力に影響を及ぼすことが発見されました 図 2)。読字、書字、意味理解のいずれもが言語的知識の習得度に 強く影響していましたが 図 1)、文章作成能力との関連性が確認されたのは書字能力だけでした。この研究成 果は、小学校から高校までの間に漢字の手書きを十分に習得することが、その後の高度な言語能力の発達にと って重要であることを示唆しています。また、本研究で文章作成能力の指標として採用した 意味密度」は、 修道女 ナン)の認知能力の長期経過を分析したナン・スタディと呼ばれる一連の研究で用いられたもので す。ナン・スタディでは、20 代前半に書いた日記や自伝の 意味密度」が高かった人は老年期における 認知 予備能」* 2が高く、アルツハイマー病による脳の病変が進んでいた場合でも、晩年まで健全な認知能力を維持 していたことが報告されています。本研究では、そうした知見を考慮に入れて、学童期の読み書き習得 特に 手書きの習得)から成人期の高度な言語能力 意味密度など)の発達を通して認知予備能を高め、老年期の認 知能力維持に至る生涯軌道に関する理論的フレームワーク 概要イメージ図)を提唱しました。 図 2.漢字の手書き習得は、言語的知識の習得を介して意味密度と関連する *矢印に付いている数字は、標準偏回帰係数です。黒色の矢印は左が右を直接説明する関係、赤色の矢印は、 媒介変数 言語的知識)を媒介して間接的に説明する関係を示しています。

3.波及効果、今後の予定 本研究では、漢字の読みや意味理解ではなく、手書きの習得が高度な言語能力の発達と関連し、漢字書字能 力が高い人ほど結果的に文章作成能力が高くなることが発見されました。本研究における文章作成能力の得点 は、パソコンを使って書かれた作文を分析して算出されたものであり、手書きで漢字を正確に書けるかどうか は評価に含まれていませんでした。本研究成果は、早期のデジタルデバイスの利用が漢字の手書き習得に抑制 的な影響を及ぼした場合、その影響は手書きを必要としない様々な言語 ・認知能力の発達にまで及ぶ可能性を 示唆しています。学校教育、特に読み書き教育におけるデジタルデバイスの導入については、その是非や適切 な利用方法などを注意深く議論していく必要があると言えます。 今後は、対象者に漢字学習をしてもらって、言語 ・認知能力やそれらの基盤にある脳神経ネットワークなど にどのような効果を及ぼすのかを検証することが課題になります。児童、成人、高齢者といった様々な年齢層 の人たちを対象に、漢字の読み、書き、意味理解のそれぞれの習得に着目した学習の効果を検証することによ って、漢字の習得に困難を抱える子どもへの教育ストラテジーの開発や認知症予防などに役立つ知見が得られ ることが期待されます。

4.研究プロジェクトについて 本研究は、公益財団法人 日本漢字能力検定協会からの支援 寄附金、受検データ、検定問題の提供など) を受けて実施されました。 <用語解説> * 1 意味密度 文章の言語的な複雑さを得点化した指標です。文章中の単語数に対する命題 動詞、形容詞、形 容動詞、前置詞、接続詞)の数の比率として算出されます。 * 2 認知予備能 アルツハイマー型認知症などによって脳に器質的な障害が生じた場合に、脳神経ネットワーク を柔軟に利用して認知能力の低下に抵抗する能力を示す言葉です。ナン・スタディで発見された若い頃の 言語能力 意味密度)と老年期における認知能力の維持 認知症の発症リスク)との関連性は、こうした 知的能力の蓄えによる保護的効果によって説明されています。 * 3 音韻処理 音韻 言語音)の情報を処理する能力です。検査では、音声を聞いて、いくつの音がどんな順番 で並んでいるかを素早く正確に認識できるかといったことを調べます。 * 4 呼称速度 記号 文字など)を素早く正確に読み上げる能力です。検査では、列に並んで印刷された物や色 の名前を言ったり、ランダムな文字列を読み上げるのに要する時間を測ります。 * 5 視空間処理 図形や模様のような視覚的情報を処理する能力です。検査では、2 色で塗り分けられた積み木 を使って模様を完成させたり、複雑な図形を記憶できるかといったことを調べます。 * 6 統語処理 文に含まれる文法的情報を処理する能力です。検査では、単語が共通する一方で構造 単語の順 番や助詞など)が異なる複数の文を読んで、意味的な異同を素早く正確に判断できるかを調べます。 <研究者のコメント> 手書きからデジタルへの転換は、人間の心や脳に少なからず影響を及ぼすと考えられ、その影響を科学的に 理解することは心理学研究の重要な課題だと言えます。この研究では、漢字の手書き能力が高度な文章作成能 力と関連するという科学的証拠を提供し、手書きができなくなることが言語 ・認知能力に広く影響を及ぼす可 能性を示しました。教育や医療の実践、個人と社会のウェルビーイングの向上に貢献することを目指して、今 後も研究を前進させていきたいと思います。 <論文タイトルと著者> タイトル Cognitive underpinnings of multidimensional Japanese literacy and its impact on higher-level language skills 多面的な日本語読み書き能力の認知基盤と高度な言語スキルに及ぼす影響)

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