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温故知新(詰パラ239号)

 では今日は、239号(昭和50年12月号)を読んでみることにしよう。まず吉田健氏の名稿「詰まらない話」から。大学の担当をされ、まさに任期を終えられたときの感想である。当時の投稿作について、次のように述べられている。

 中篇詰棋というものを、久しぶりでじっくりと考えてみる機会に恵まれて私がまず感じたのは、どうも楽しめる作品が乏しい、ということであった。短編作家の感覚と嗤われればそれまでであるが、何だか力でこねあげたような難解手順が横行し、逆にたおやかな巧技はむしろ月並みとして軽視されているような気さえした。棋形も手数の長さをよりどころに、なりふり構わぬといった傾向である。捨てに徹する超短編よりは、駒取りの許される捌きの中篇の方が棋形は効率的であるべきである、という極論に近い観念の持ち主である私には、幾分ためらいを感じさせられるような駒くばりの作品を沢山見た。
 そうかと思うと、歩一枚加えれば早く割り切れるのに、四十九手詰の作品に初手から四十七手の変化が付随するのを、難解作だ、と云って是認しているような風潮が一方にはある。こんなものは“変長”と五十歩百歩の夾雑物だと私は思っている。
 とにかく作意手順の印象が希薄になる度合いは、七手詰に付随する七手変化の類とは同一に断ずることができない筈である。
(以下略) 

 全くその通りと言わざるを得ない。恐らくこの時、吉田氏の脳裏に浮かんでいた中篇のあるべき姿とは柏川氏や北原氏の作品ではないかと推測されるが、彼らに共通するのは「表現したいこと」が解答者に直接伝わるような創り方、即ちつまらないテーマを難解さで包んで誤魔化すというのとは対極の創作姿勢である。それが正しいなどと付け加えるのは野暮というものだろう。

 それから、門脇氏がチェスパズルを出題しているので、それもここに載せておこう。Databaseには手数も載っているが、詰パラでの紹介時には手数は伏せられていて、「この局面から(将棋流に数えて)奇数手を指し、同一局面に復元せよ」という形で出題されていた。要するに、手番の入れ替え問題である。興味のある方は挑戦してみて下さいな(但し、相当難しいですよ)。

Nenad Petrovic (Die Schwalbe 1950, 1st Prize)

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                                         Ortho-reconstruction (14+15)

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