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私家版・近代将棋図式精選(78)

                                    (152)駒場和男「駅馬車」

152 駒場和男「駅馬車」

                                      (近代将棋 平成4年12月号)

41と、同玉、52と、同飛、42歩成、同飛、53桂、31玉、32歩、同玉、
33と、同玉、34歩、43玉、33金、52玉、42金、同玉、41飛、32玉、
33歩成、同玉、44と、同と、24と右上、同香、同と直、同と、同と、同玉、
44飛成、15玉、35龍、16玉、27銀、同香成、25龍、17玉、18歩、同玉、
29銀、同香成、同角、17玉、27龍、同玉、28香、36玉、37香、45玉、
46香、54玉、55香、63玉、64歩、62玉、61桂成、同玉、71角成、同金、
同桂成、同玉、81と、同玉、91歩成、71玉、81と、同玉、92角成、71玉、
82金、61玉、72桂成、同龍、同金、同玉、82飛、73玉、83飛成、64玉、
74龍、55玉、65龍、46玉、56龍、37玉、47龍、28玉、29歩、19玉、
82馬、29玉、27龍、39玉、28馬、48玉、38馬、59玉、57龍、58銀成、
48馬、69玉、58龍、79玉、88銀打、同金左、同銀、同金、57馬、89玉、
79金、同金、同馬、同玉、78金、89玉、88金、99玉、98金、89玉、
88龍迄121手詰。

 この作品については、私の駄文の代わりに、平成5年3月号の結果稿での佐々木聡氏による詳細な解説を全文引用しておこう。かなり長いが、是非一読してみて貰いたい。それだけの価値のある名文である。

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“駅馬車”に寄せて  佐々木聡

 去年の八月、はからずも私は作者と会う機会を得た。暑さから逃れるべく、有楽町駅近くの喫茶店や上野の小料理屋で、終日私達は詰棋談義に時を費やした。
 駒場和男という作家、いやそう表現することもおこがましいような、大作家が眼前にいて私と話をしている。私はいささか興奮していた。そして心地よいほろ酔いの中、暮れなずむ都会の雑踏に氏はそのかげを溶け込ませていった。氏と別れた後、私は昂ぶる感慨のなか、啓示のごとく襲った自分なりの現代詰将棋批判を反芻していた。
 作家には大別して「拡散型」と「収縮型」のふたつのタイプがあると私は思う。前者は新手、新構想、新趣向等を希求し、いまだ駒の置かれていない空間に駒を配置し、その可能性を追求する。当然棋形は拡がり駒数は多くなる。後者は配置駒ひとつひとつの存在意義を重視し最善の表現形態を追及する。その作品は駒数も少なく棋形も凝縮してくる。
 もちろん作家たるもの自作品に対して、独創性も機能性も、その両方を希求している。だが、作図の中途で二者択一をせまられたとき、作者は自らもっているその型に従っていずれかを選択する。
 最近は、既製手筋や既製の趣向を、巧みに作りかえた作品ばかりが目につき、もてはやされている。肌に粟を生ずるような、妙手や新構想を持った作品を持った作品にはしばらく出会っていない。これが昨今の発表作に対して、私が抱いていた感想だ。それは、自らが拡散型の一員であることと相乗して、私をして一種の欲求不満に陥らせていたのだった。(誤解されては困るので言及するならば、私は拡散型が収縮型に比べて優れているとは思っているわけではない。おそらくマクロを追及した大宇宙の構造と、ミクロの極である微粒子の世界の仕組みが、似たようなイメージで理解される如く、拡散・収縮そのどちらも、極め尽くした果ては同じ聖域に到達するのであろう。)
 駒場和男は拡散型の作家である。氏も理由は別だったかもしれないが、現代詰将棋の潮流に不満を持っていたのだ。
 氏はこう言った。「私は自分を煙詰作家だと思っている。煙詰には他の作品とは違う思い入れがある。私はこの作品を特に若い人にみてもらいたい…。」
 かつて私もそうだったように、若き詰キストたちは、詰将棋における美しいさまざまの夢を、まるで人や海胆が空気や塩水を呼吸するように、ごく当たり前に吸収してそれぞれに美しい夢を描く。
 本誌の名稿『名局りばいばる』の中で氏は“鬼宗看を追う男”として紹介された。そのことで、私は駒場和男という一人の大作家を知った。そして“父帰る”“かぐや姫”等の作品によって氏は私の中で神格化されていた。
 今ここに若き詰キストは“駅馬車”によって駒場和男を知ることだろう。盤面の無限の広がりに思いを馳せ新たなる創造を目指して縦横無尽に疾走する、拡散型の感覚や思考を呼吸するだろう。是非、今からでも遅くはない、解図してもらいたい、そうやって肌で直接呼吸してもらいたい。この作品は氏が若き詰キストに贈る熱きメッセージでもあるのだ。

 煙詰の一般論を中心として

 本局の主題は、中盤28~55まで階段状に連打した香を、龍追い上げの過程で、すべて消し去るところにある。鬼宗看が自らの献上図式集“象戯作物”の73番で試みた極めて美しい趣向である。そして、その後幾多の作家がそれぞれの方法で、宗看と同じ夢を見ようとした。作者も、かつて煙詰“朝霧”の収束において、それを試みている。
“朝霧”と“駅馬車”ではもちろん別の構成になっている。しかし、どうしても煙詰ということと、その印象から“朝霧”と比較してしまうのだが、“朝霧”ではその美しい収束形をよりアピールする手段として、煙詰の条件(全駒使用)を用いたように思える。対して“駅馬車”ではどうだろうか?そこでは煙詰がもつ本質(駒の消去)がこの趣向を要請したとも見える。もともと煙詰は、配置駒が詰手順の進行につれて消え去っていく過程の爽快感にその魅力がある。それは美しさでもある。本来駒が消えている手順というのは美しい。それは香連打、香消去の趣向手順の持つ美しさとなんら性質を異にするものではない。美しい消去手順は本質的に煙詰の条件に合う。“駅馬車”でみられるように極めて自然に組み込まれるものなのだ。
 さらに、もっと広範な煙詰論をいうことが許されるならば、一般的な煙詰(39枚使用、詰め上がり3枚)において、この条件が必然的に要求している手順なり構成というものがあるはずだ。図巧99番がいい例だ。あの龍追い趣向は、煙詰の条件のもとで最上の魅力を発揮し、また逆に煙詰の条件があの龍追い手順を引き出したのだ。それほど煙詰の条件とあの趣向手順は合致している。“駅馬車”の趣向手順もまた然りである。
 しかしながら、煙詰の歴史をながめるとき、その初期段階において、作家のほとんどはその条件を満たすことで窮々としていた。それでも多くの作家たちの“煙らせる技術”の模索によって、煙詰の創作技術は醸造されていったのである。
 それゆえ煙詰創作の初期の時代には、煙詰における美しい手順の可能性に目覚めている作家は希有であった。作者はその時代より今日まで、つねに最先端に立って、その美しい表現の可能性を追求してきたのである。
 作者「煙詰らしからぬ煙詰、どれだけ踏み分け入ることができたか」
 煙詰らしからぬとは、前述の、煙らせることに窮々としている、初期煙詰とは異なるということの宣言である。そこに作者の心意気がある。煙詰も、駒場氏を始めとして、添川、伊藤、近藤各氏等の出現によって新時代をすでに迎えている。“駅馬車”も、煙詰そのものに対して、我々が持っている認識を既に過去のものにする記念碑となるだろう。

 作図論からのアプローチ

 氏は、私との会話の中で、作品・作家を評価する際、「志が高い」あるいは「低い」という表現を用いた。“志高”これは本作の骨格を構成した中心思想である。“駅馬車”でもそうだが、氏の煙詰では、どれもが自陣成駒、銀形香の成駒を徹底的に排除している。自陣成駒や銀形香の成駒がないものが崇高で、そうでないものは卑俗だ、などとは言わない。しかし、これは作者の志の高さである。
 こうして自ら条件を難しくしてポテンシャルを高め、逆にそこから作図のエネルギーを得る。私は、若き作家達に、是非この作図法を学びとってほしいと思う。それがこのような研ぎ澄まされた配置となって、難解な序や無理のない左上辺の折り返しの部分に結実されているのだ。もちろん本作完成までには、作者をしても相当の困難があったことと思う。しかし“志高”の精神がそのような苦渋を盤面に残さず、極めて自然にその美しさだけを際立たせているのだ。
“駅馬車”とは雄大に盤上を斜め往復する玉とそれに係わる折衝に、新大陸を横断する駅馬車や、それを狙う強盗やインディアンと、防御する開拓者達の闘いを想起してのものと思う。“志高”、一方で私はこの名も、別の意味で作品の気高さを言い得た名のように思われる。(佐々木聡)

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