見出し画像

温故知新(詰パラ241号)

 今日はパラ241号(昭和51年2月号)を読んでみよう。まず目を引くのが表紙の上田作。これは「極光21」の第六十三番だ。上田作品が表紙とは何とも贅沢だなあ。作者が表紙の言葉で「紛れなく一本道ですから…」と書いているのに、主幹が「易しいとは!腰を据えて読んで下さい。特に合駒…編集部」とフォローしているのが何とも可笑しい。

           上田吉一

3 上田吉一

          (詰パラ 昭和51年2月号表紙)

41金、同銀、84角、73香、41歩成、同玉、74角、同香、51角成、同玉、
42銀、同銀、52銀迄13手詰。

 続いて虫食い算研究室を読む。担当は丸尾学氏。最初の文章を読むと、どうやら119号から連載されていたもののいつの間にか自然消滅したものを、もう一度復活させたということらしい。そういえば、私がパラを取り始めた頃にはまだ虫食い算のコーナーはあったなあ。実は恥ずかしながら、虫食い算のコーナーにも自作の覆面算を1作載せて頂いた事がある。学校以外にフェアリーランド、そして虫食い算コーナーにも採用されたことがある作家は、案外少ないのではないだろうか。(←こういうことしか自慢できることがない)

 次に目を引くのが、門脇氏の筆による「なぞの名局『新扇詰』詳解」というもの。何故、昭和30年に発表された作品が昭和51年においてまだ謎だったのかが、まず不思議だ。しかし読んでみると、私の謎はすぐに氷解した。

「新扇詰」が「謎の名局」と云われているのは理由があります。 それは、本局が近代将棋昭和30年新年号に発表された時、 解答が発表されなかったからです。今日では信じられない様な 話ですが、同誌では当時この傑作を冷淡に扱い、図面だけ載せて「腕に自信のある方は挑戦してみられては」と書いただけでした。この名作に対し稿料や賞品は勿論の事(何もなかった、 と信じられています)解答の発表すらなかったのです。皆さん、 こんな話が信じられますか?

 うーむ、確かにunbelievableな話だ。近代将棋のイイカゲンさは、今に始まったことではなかったのか。

 続いて学校を見ると、高校の森田正司氏が選題の言葉でいかにも氏らしい事を書いていらっしゃる。

 数多い投稿作品を見ていると、余詰筋を消すために、無造作に駒を増やしている人をよく見受ける。その前に、作意と変化に必要な基本配置の中で、駒の種類や位置を変えることによって 余詰めの解消が出来ないものか…という追求を徹底して行うべきである。

 この時森田氏は41歳。240号にあぶり出しの名作「S」を発表された直後で、作家としても批評家としても脂の乗り切った時期だったろうと推察できる。余計な装飾の一切無いストレートな物言いが、自身の詰将棋観に対する絶対の自信を感じさせる。
 参考までに書いておくと、241号の学校・デパート・フェアリーランドの各担当者は、吉松智明(幼稚園)、鈴木亨(小学校)、新ヶ江幸弘(中学校)、森田正司(高校)、北千里(短大)、吉村達也(大学)、山崎隆(大学院)、新田道雄(デパート)、門脇芳桂(フェアリー)の各氏である。 

 最後に短コンの結果も載っている。首位は吉田健氏。以下の作品である。

           吉田 健

4 吉田 健

          (詰パラ 昭和50年12月号)

57銀、同と、46金、同桂、74角、66玉、75龍、同金、55角迄9手詰。

 短編のセオリー通りに作られた作品だが、現在の短コンに出品されたら恐らく首位にはなれないのではないか。それは作品の質云々ではなく、短編に求められているものが昔と今とでは違っているということなのだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?